3章・幸運のナティ-1(決裂)
ネロウェン国王ディナティ2世は、自室のベランダで果実酒をもてあそんでいた。彼はあまり強くなかったが、多少たしなむ分には、よく口にする。ほろ酔いが、いいらしい。
今日は月がない。切れるように輝く細い月は、昨日退場した。ディナティは漆黒の空を見つめて、無言で星を数える。5つほど数えてから、目を移した。
虫の声もない。人の声がないのは王の寝室である以上は当然のことだったが、グール“オルセイ”も寝付くほどの深夜になると、余計に“独り”が浮き彫りになる。灯りのない庭を背景に立ちつくす王の姿は、グール王の名を冠する勇猛な青年だとは見えないほど、寂しげだった。風が冷たく首を竦めたせいも、あったろうか。
ディナティはガウンの裾をはらって部屋に戻り、ベランダとの境に設置してある籐の椅子へと腰を落ちつけた。テーブルにコップを置くと頬杖をつき、悠然と足を組み、元いた場所へと目を向けた。
「出てきたらどうだ?」
彼は自分が観察されていることに、気付いていた。
観察していた者は登場のきっかけを与えられて、しぶしぶ姿を現した。ベランダの手すりに手が生え、腕が現われ、体が浮かび上がった。
「見てないで、手を貸してよ」
侵入者は可愛らしい小さな声で、あり得ない要求を王に突きつけた。が、王は座したまま、声なく笑うだけである。
よいしょと呟いた侵入者は無事に降りたち、服の汚れを叩いて落とし、背筋を伸ばした。肌は黒いし服もネロウェン王宮の下働きが着るものだったが、顔立ちがネロウェン人ではない。
ネロウェン王は口元を歪めた。
「元気そうだな」
ささやいた言葉には、暖かい響きが感じられた。
「あなたも」
侵入者も微笑む。おぼろげな光にさえ明るく輝く水色の瞳が、はっきりと彼女がマシャだと示している。夜の中だ、フードは必要ない。
受け答えながらも、マシャは2人の距離を感じずにはいられなかった。彼の背が一層伸びて大人になったせいもあるだろうが、2年前のディナティからすると、その顔つきは相当変わった。何より、痩せた。
鍛えてあるがゆえの体は豪奢な夜着に包まれていてさえ、なお痛ましい。肉の柔らかさを感じない腕が、彼の頭を支えている。
今この場に立つために色々な情報を仕入れたし、色々と汚い手も使った。だから、王の変貌には納得している。彼から見る自分も変貌していると思われているかも知れないのだから、お互い様だ。
マシャは自分の感情を殺した。
「派手なこと始めたじゃないか、ネロウェン王」
「暗殺に来たか?」
「だったら、とっくに殺してるよ」
「停戦の嘆願なら、ロマラール使者として昼間に正面から来てもらおう」
「あたしが泣いてすがれば、やめてもらえるの?」
言いながら、マシャは王に近付いた。ディナティは動かない。だが彼の隣には行けなかった。できれば向かいの椅子に座ってやろうと試みたのだが、そこまでは許してくれない空気を、ディナティから感じたのだ。
決定的な部分が決裂しているようだ、と、マシャは感じた。“ピニッツ”がロマラールからネロウェンに寝返るなら、わだかまりもなくなるのだろうが。
「ロマラールはヤフリナ国に援軍を送るつもりでいるよ。ヤフリナの市場をネロウェンに取られたら、ロマラールもただでは済まないからね」
「元より、それが狙いだ」
ロマラール国はネロウェン国への支援を断った。ヤフリナを攻撃することは、ロマラールへの経済制裁にもなるのだ。
しかも、まっさきに目をつけられ潰されたのは、ヤフリナ国の南を牛耳る豪商だった。彼の死が意味するところは大きい。
「ヤフリナの豪商テネッサ・ホフム・ディオネラは、ロマラール国へ謝罪してきた。支援もしこたま、してくれるらしいよ。ロマラールは動かないわけに行かない」
「望むところさ」
青年は動じない。彼の脳裏では、すでに戦争を始めると決めた時点で何かが吹っ切れてしまったのだろう。誰がどこでどう動いても、自分がしたいことと、せねばならないことの指針は揺るがなくなったのに違いない。
揺らいで欲しいのだが。
マシャは顎を引いて胸を張り、王を睨んだ。情けや疑問を持ってしまったら、話せなくなる。
「でも、テネッサは架空の商会を使って、ジェナルム経由でフセクシェルにも60ティンの鉄を輸出してる」
停戦を勧めるには、理想論より具体的利害を突きつけるしかない。正規の使者じゃ言えないような情報でなければ、危険を冒して会いに来た意味がない。
マシャの背後は、あいかわらず闇の庭が広がったままである。ディナティがマシャの侵入を伝えた様子はない。マシャは唇を舐めた。
「軍事工場を、突貫で建設したんだってね。フセクシェルの金で。……戦争したって、あいつらが儲かるだけじゃん。民衆は貧乏で飢えたまま、何も変わらない」
「変えるさ。勝って変える。奴らにうまい汁ばかり吸わせるつもりはない」
言いながら、かすかにディナティが笑ったように見えた。
「俺が王だ」
マシャは一瞬、自分の足下が揺れた気がして、歯を食いしばって踏んばった。こんな言葉にめまいを覚えるほど自分がディナティに期待していたのかと思うと、不愉快ですらあった。自分ならディナティが折れてくれると自惚れていたのも愚かだ。
工場に勤務する国民には、賃金がくだる。当然の理屈だし、そこがディナティの采配なのだろうが、頭では理解できても心が反発する。
あたしのせいだ。
あたしがディナティを、変えた。
そう思うことも傲慢なのかも知れない。マシャが小姓をしたこと、ディナティの元を離れたこと、ヤハウェイサームを殺したことも、すべて、なるようになったことでしかない。あの時ディナティの側に残っていればと憶測するのは、時間の無駄だ。無駄だと分かっていても思ってしまう。自分がここにいたなら、どう動いただろうか、と。
同時に“ピニッツ”に戻ったからこそ、できることもある。
「戦争にする前に、あいつらから物資を絞り出せばいい。ロマラールの港町サプサを統治する領主は、ネロウェンの味方になってくれる人だよ。ヤフリナの物資をネロウェンへ送ることも可能だし、だから、」
「なるほど」
今度はディナティは、はっきりと分かる笑顔でマシャの言葉をさえぎった。
「サプサが要か」
マシャの背中が凍った。
余計なことを言いすぎた。
信用を得たいと思ったばかりに。
こわばるマシャを見ても、まだディナティは構えを崩さず、苦笑しただけだった。
「どうしても俺を戦わせたくないのだな」
「当たり前だろっ」
思わず声が大きくなってしまった。
しまった! と思ったが、もう遅い。王の部屋には衛兵がいる。背後の庭も無人に見えるが、実際には見張りがいるのだ、見えないだけで。案の定、まず部屋の入り口が騒がしくなった。頭にのぼった血が、一瞬にして下がった。
「ここまでだな」
ディナティが宣言する。かばう気はないらしい。マシャが捕まることも罰せられるとしても、王の庇護は得られないようだ。
「頼むよディナティ、もっと考えてよ! それが最善なの? 戦うしか道がないの?!」
「懇願はしない、か」
無表情に言われて、さらに体の芯が冷えた。確固たる拒絶だ。それでも見捨てられない、見捨てたくない、どうしようもないやるせなさがマシャを襲った。マシャは涙をこらえて、身をひるがえした。
ベランダを庭に向かって走るマシャの背中で、ディナティが言った。
「ヤフリナ国南の港町キナは今、統率が取れず浮き足立っている。ソラムレア国の戦艦5隻を使い、5千で出る。ソラムレアからのクラーヴァ攻略と同時に」
立ち止まったマシャは、ふり向きかけた。目の端でディナティを捕らえたが、ディナティはマシャを見ていなかった。顔はこちらにあったが、目は合わなかった。マシャは走りだした。
少ない。
内乱ならまだしも、他国へ攻めようという軍の数ではない。かつてロマラールはヤフリナと防衛戦をしたこともあったが、それはマシャが生まれる前の話だ。50年は昔だったが、当時ヤフリナが投入してきた数でも合計で5~6万人いた。2年前のジェナルム反乱だって、ディナティは一万の追加派遣を予定していたはずだ。
ならば、クラーヴァ攻略が本命か?
ディナティの呟きが意味するところを知りたくて、マシャはベランダの手すりを越える時に声を上げようとした。が、叶わなかった。
「賊だ! 庭に降りるぞっ」
ディナティが叫んだのである。
マシャが今まさに降りんとしている場所を指されたが、今さら避けられない。
「くっ」
マシャは唇を噛んで、ロープを使わずにベランダから庭へ飛びおりた。王の寝室は2階だ。打ち所が悪ければ足を折る。だがマシャは着地の瞬間に足を曲げて丸くなり、肩から背中を使って転がって、無傷でスタンと立ちあがったのだった。体中が汚れただろうが、はらっている暇もない。
兵らの騒ぐ声が聞こえる。ディナティの庭には木々がしげっていて、その間を縫うように散歩道がついている。道を走れば、すぐに見つかる。マシャは木々の間をすり抜けて、王宮の裏に向かった。
裏に回りこんで馬小屋に隠れられれば、持ちこんでおいた着替えによって裏口から退場できる。王の間は王宮の中央にあり、やすやすと出入りできないようになっているのだ。この庭も、裏へ廻る前に一度、敷地が途切れる。どうしても石畳の回廊を通らねばならない、そこで捕らえられる可能性が高い。
「……っ」
注意力が途切れて、根っこに爪先を引っかけた。出しかけた声を慌てて呑みこみながら、マシャはその場に身を伏せた。
「いたか?!」
「そっちはどうだ!」
兵たちの叫び声は、すぐ側だ。足音まで聞こえる。3人。いや5人か。複数になってくると分からない。息を殺して草葉の陰にひそみ、嵐が去るのを待ちながら、マシャは先ほどディナティが言ったことについて考えた。
キナの町は今でも充分、迎撃準備をしていることだろう。南の玄関だ。だが来るかどうかは知らないに違いない。しかも数まで分かれば、戦況は戦う前から有利である。あの呟きは、ディナティなりのマシャに対する情を表現したもの……だったのかも知れない。
だが。
これをナザリに報告すれば、“ピニッツ”としてナザリはヤフリナに協力するだろう。もしネロウェンが勝ってしまったらヤフリナはネロウェンの属国となり、国の均衡が崩れる。不利になる。闘いが続く。ネロウェンの進撃を止め、負けてもらい、協議に持ちこむしかない。
簡単には行かないだろう。ネロウェンの背後にはソラムレアがいる。ソラムレアの技術は厄介だ。皇帝時代の生き残りである海軍がヤフリナにいる、それを叩きたい気持ちもあるだろうから、たやすくは諦めないだろう。
そこまで考えて、マシャは苦笑してしまった。ヤフリナにいる正規海軍を倒したい気持ちはこっちにだってあったのに、このまま行けば彼らと手を結ぶことになる。どこで何のボタンをどう、かけ違ったのか。不思議なものだ。
気持ちだけで言えばネロウェン国を応援したい。
応援はしたいが戦争は支持できない。
ナザリに報告すれば、敵だ。
「ち」
マシャは思考を振り払って立ちあがり、一気に駆けだした。追っ手の声は遠ざかっていた。考えたところで、道は一本しかないのだ。強行だろうが行きたくなかろうが、進むしかないのだ。
景色が開けた。
柔らかい皮をはくマシャの足は、音を出さない。月のない暗い石畳をすり抜ける影は、そのまま誰にも知られずに闇から闇へ消える……はずだった。
「いたぞ!」
突然、マシャの視界が真っ白になった。それは慣れればローソクの弱い光でしかなかったが、急に当てられると、何の魔法かと思うほど強烈だった。ローソクにはカバーがしてあり、一方向だけを照らすようになっている。灯りを伏せて、待ちかまえていたのだ。
8人の男らが、マシャを囲んでいた。他にも足音が近付いている。人が増える。大人数を一度に倒すすべなど持っていないし、逃げるためには、それこそ空でも飛ばなければ無理だ。マシャは頭上を見たが、王宮の壁も遠いし、木々も見あたらなかった。
マシャは走り、目前の男をすり抜けようとした。もちろん普通には通れない。マシャは彼の前で手を叩いてひるませてから、下を通ると見せかけて彼の頭上を飛びこえた。男の頭に手を突いて。
「わぁっ」
頭を叩かれた男がよろけた。
「このっ」
皆が一斉に押しよせる。マシャはトンと軽く地を蹴って降りたと同時に、踊るように走った。横から別の者がマシャに飛びつこうとしてきたが、マシャは「おっと」と、これを避けた。
だが、ここまでだった。
向かおうとした先からも、兵らが徒党を組んで押しよせてきたのである。マシャは危うく押しつぶされかけて、身をひねって避けた。つもりだった。
「離せーっ!」
待ちかまえていた兵が、とうとう彼女をはがいじめにしたのだ。後ろ足で股ぐらを蹴り上げてやろうとしたが、さすがに王宮仕えの兵にはセコい技が通じない。女だという免除もなく、マシャは地面に押しつけられた。こすりつけられて、顎から頬にかけてが痛んだ。
斬られるか、殴られるか。大人しくなったところで、ただでは済まないだろう。
ここで捕らえられたり死んだりするなら、この先の歴史を見なくていい、ナザリに報告しないで済むというのは……ある意味では、幸せなのかも知れない。
そう思ってマシャが覚悟を決めた時。
「?!」
男らが一斉に、マシャへ乗りかかってきた。
目をつむっていたマシャは、驚いて顔をはね上げた。自分の背中に、男らが積みかさなっているようである。重いこと、この上ない。
わけが分からないまま男らの下から這いでると、マシャは周囲の男らもすべてが気絶していることに気が付いた。
「……?」
気絶というか、いびきが聞こえる。マシャにのしかかっていた山積みの男らも、本来なら押しつぶされていて苦しいだろうに、やけに安らかな寝顔だ。
その男らの向こうに。
人が立っていた。
マシャの他に、この場でただ一人起きている人間である。近付いてきた人影に、マシャは驚愕することも忘れてしまった。
あまりに、あり得ない人物だった。
「ラ……ラウリー……?」
呟いてみたが、口に出してみても名前が現実味を帯びない。現れたラウリーは、砂漠の装束に身を包んでいる。ズボンとベストは男性仕様のものだが、柔らかな生成り色らしいところが、やや女性向きである。灯りがなくなって、遠くのかすかな松明だけが頼りとなった視界には、彼女は夢の住人に見えた。
マシャは、この春にも一度ラウリーに会っている。クラーヴァ王都を偵察した合間だったので、わずかな時間でしかなかったが、その時のラウリーに比べると今の彼女は別人である。格好もだが、髪が伸びて、目つきも鋭いように思えた。力強い顔だった。危うくさえ、あるほど。
「マシャ」
ラウリーが肩から力を抜いた。
瞬間マシャは駆けよって、抱きつきたくなった。が、踏みとどまった。
「これ、ラウリーが?」
マシャは言いながら、周囲の男らを見渡した。それに対してラウリーは、
「頭の、ある部分をね」
と、短く説明した。ぞっとする回答だった。
ラウリーはマシャが怖じ気づいたのも気にせず「こっちへ」とマシャの手を引いて走りだした。
「新手が来たら、次はすぐに眠らせられないわ」
ラウリー自身が見つかりたくないのも、あるのだろう。彼女が道を選んで走る様は、手慣れたものだ。2人は石畳の敷地を走りぬけて回廊の側を通り、建物の隙間を抜けて裏口に回りこんだ。途中で3人ほどの警備に見つかりかけたが、見つかる前にすべてラウリーが叩きのめした。
「味方じゃないの?」
マシャは思いきって訊いた。
「味方よ」
ラウリーが笑う。それ以上の答えはなかった。代わりにラウリーは「ありがとう」と言った。
「ディナティ王に心変わりはないだろうけど、マシャの存在があれば王に情けが出るわ。なるだけ少ない犠牲で終わらせるから……だからマシャは、安全なところに逃げていて」
「犠牲って」
絶句するマシャを、ラウリーは追い出すように裏口へ導いた。裏口といっても馬車2台が履行できる立派な門だ。マシャはその横にある小さな勝手口から出されようとしていた。マシャはあらがって踏みとどまった。
「待ってよ、何が何だか分かんないよ! どうしてラウリーがここにいるのさ、犠牲って何だよっ。逃げろって言われて、あたしが逃げると思うかい?」
「逃げないでしょうね」
ラウリーが苦笑する。ふとした顔は、以前からのラウリーだ。だが顔だけだ。今のラウリーは怖い。桁外れの強さと「終わらせる」という能動的な言葉は、マシャに嫌な予感を与える。
「ラウリーって、まさか、」
言いかけた時、警備兵の声が聞こえてきた。もう王宮中が騒がしいようだ。それはそうだろう、王の間に侵入したのだ。
「早く逃げて、マシャ。元気でね」
ラウリーは勝手口からマシャを追い出すと、数歩後じさった。鉄格子が動いた。マシャとラウリーが隔てられた。格子の向こうから、ラウリーが答える。
「私も戦争に参加するの」
二の句が継げなかった。
何か言わねばとマシャが焦っている間に、ラウリーが姿がかき消えてしまった。そういう魔法なのだろうと思い至るよりは、やっぱり今のラウリーは夢だったのだという気になった。
だが、それだと自分が城外に出られた理由がなくなる。
「どこだ!」
「外か?!」
といった声に弾かれて、マシャはがむしゃらに走りだした。叫びたい気分だった。変貌したディナティ、再会したラウリーも王宮に漂う空気までも、どれもが気に入らなかった。
ディナティの本質は変わっていないとは、マシャなりに理解している。ただ彼が一度もマシャの名を呼ばなかったのが悲しかっただけだ。きっと。
ラウリー。
「ラウリー。ラウリー!」
闇の町を疾走しながら、マシャはうなった。
オルセイがネロウェンに加担してヤフリナ国の豪商を殺した事件は、マシャもとうに知っている。ラウリーがネロウェンにいて、そして戦争するのだと言った、あの目を見れば、少しは想像がつく。幸せそうじゃないラウリーの隣りに、クリフが立っているとは思えない。
「ったく……っ」
色々なことを考えすぎたマシャは、路地を曲がって落ちつくと同時に、八つ当たり気味に叫んだ。
「何やってんだよ、あの馬鹿男はぁっ!」
ニユの月最後の風が、土に汚れたマシャの頬を、いたわるように撫でていった。