2-10(苦汁)
重苦しく暗い雲間から降りてきたのは、雪だった。
埃か粉かと思うような粒が、こまごまと中空を埋めていく。昨晩やけに冷えたはずだ、とクリフは窓から外を眺めて、軽く息をついた。ホウと吐いた息は白く広がり、すぐに消えた。暖炉に火を入れていないせいもあるが、ラウリーの部屋だから余計に寒く感じられるのかも知れない。
主がいないから。
クリフは肩のストールを広げ、体に巻きつけて首を竦めた。睨むような視線を、空から地に移す。眼下には離宮と庭が整然と並び、林に続いている。この部屋がクラーヴァ城の正面でなく、側面にあるためだ。
城壁は林の向こうにあり、城は丘と一体化している。晴れていれば夕焼けが丘全体を彩るが、今日は景色のすべてが灰色に染まっている。雪のためだろうか、やけに静かだ。貴族の散歩も、軍の演習も終わったのだろう。
雪が降るだけ、クラーヴァ国には救いがある。溶かして飲めばいい。火があれば、まだ人は生きていける。服を着れば、しのげる。
なくなった時が地獄だ。
クリフはかつての寒さを思い出して、身を震わせた。死にかけた思い出は沢山できてしまったが、魔の山で体験した極寒地獄も、まだまだ忘れられそうにない。
「?」
クリフは扉に顔を向けた。ノックの音が聞こえたのだ。息を殺して、扉を見守った。
ここはラウリーの部屋だ、返事をするのも変だろう。クリフは誰にも会わないように、この部屋でたたずんでいるのである。
だが、しばらくすると扉は勝手に開いた。
「ここにいたのね。調子はどう?」
王妃リュセスは扉を閉めてから言い、たおやかな笑みを見せたのだった。同時にクリフは苦い顔をした。目を合わせて、黒髪の王妃はさらに唇を引いた。
「返答しなかったのに入室しますかね、リュセス様」
「私はラウリーを想って部屋を訪れただけよ、友人として」
ならノックするなよ、とクリフは口中でモゴモゴと愚痴ったが、聞こえるようには言えない。が、聞こえなくてもクリフの表情は口より饒舌だ。リュセスはとうとう、口元を押さえた。
気を取り直してクリフは「大分いいです」と答えた。
「殿下はお休み中ですか?」
「先ほど眠りました。多分、すぐ起きるでしょうけど」
そんなものだろうか。幼児だった頃の記憶など持ちあわせていないので、クリフは「そうですか」としか言えなかった。
リュセスは話しながら近付き、話し終わる時にはクリフの向かいにストンと座っていた。切りそろえられた黒髪が、肩の辺りで揺れた。ローソクを灯していないせいもあるが、薄暗い室内では、リュセスの髪は輝かなくなった。
だが王妃の笑みは以前と変わらず、常に優しい。
「あまり利口な隠れ家じゃなかったわね」
リュセスの物言いに、クリフが憮然とする。椅子に足を乗せて縮こまるさまは、まるで子供だ。外見はヒゲまである立派な男だが。
「リュセス様が来なかったら、今日一日ぐらいは平穏でしたよ」
「そんなに嫌がらなくても」
「ややこしいのは面倒です」
クリフはやさぐれながら椅子に体を預け、天井を仰いだ。ため息をつく。
「で? 俺を皆の前に引きずり出しますか?」
「いいえ」
王妃は黒髪の剣士が丸くなって拗ねる様子を微笑ましく眺めながら、かぶりを振った。
「私はラウリーを想って部屋を訪れただけよ、友人として」
同じ言葉を違う意味で繰り返す。そして続けた。
「ごめんなさいね」
「あなたが謝ることじゃない」
クリフはやっと笑みを作った。かなり苦々しいものだったが。
皆がラウリーを非難したい気持ちは分かる。釈明しろとクリフを問いつめたくなるのも分かる。けれど、どんなに言ったって納得しきれないだろうし、クリフ自身も皆の気が済むような説明をする自信がない。言葉を駆使するのは得意じゃない。
見たままだ。
オルセイが攻めてきて、ラウリーを連れて去った。エノアは生存の念話をリュセスに送ってきたものの、いまだに“転移”ができず戻ってこない。オルセイらの消息は途絶えた。それ以上も以下もない。一緒にいた魔法師ミネカナの報告で充分だ。
ここならと思って皆の目を盗んで、くつろいでいたところ、リュセスが来た次第だった。
「もう少し寝込んでりゃ良かったです」
オルセイに痛めつけられた体は、しばらく起こせなかった。包帯が取れたのも、ここ2~3日のことである。
苦笑しながら言うクリフに、リュセスは「災難ね」と相づちを打った。
「でも元気そうで良かったわ。ラウリーに振られて落ちこんでるかと思いました」
「振られ、って」
落ちこんでないと思えるから言えるのだろうが、露骨だ。
「あなたがここにいて良かった」
「なぜです?」
「ラウリーを想ってて欲しかったから」
女心は複雑だ。
立ちあがってサイドテーブルに向かったクリフだったが、当然ポットは空である。不在者の水まで用意する余裕はない。だが茶葉の瓶には埃がない。掃除が行き届いているところを見ると、侍女の誰かが手入れしているのだろう。味方は多い。
サイドテーブルには茶器と一緒に、陶器の人形も置いてある。手に取ってみると、磨いてあるのが分かる。侍女の仕業かラウリーの手によるものかは知り得ないが、ラタ・ティーの側に飾ってある辺り、大事にしていたとうかがえる。
金髪の、祈っている風情の小さな人形は、手を広げたより少し大きいていどでしかない。クリフは今でも、これの購入価格を思い出せる。
この人形に似た娘のことも。
自分たちをかばってオルセイを止めて死んだ少女は、幸せそうだった。オルセイが死ねば、この少女の祈りも曇るだろう。だがオルセイが生きると多くの命が奪われる。奪われている現状がある。
彼は先日、広間にいた魔法師や魔法使い、そしてクリフを殺すつもりだったはずだ。それだけの殺気があった。それほどに、ラウリーを欲していた。
「俺は非力だ」
うっかり人形を握りつぶしそうになり、クリフは人形をテーブルに戻した。背後でリュセスが訂正を入れてきた。
「私たちは、よ」
ふり向いたクリフの視線に対して、若き母は落ちついた笑みを見せるだけである。
「けれど、できることもある。でしょう?」
リュセスは肩を竦めてから、目を伏せた。眼下の雪景色を見ながら、彼女は「イアナザール王には諫められるでしょうけど」と言い置き、
「“遠見”に挑戦してみましょう。ダナが大きく動いた直後の今なら、私たちでも『魔力』の揺れを感じられるかも知れません」
ラウリー奪回の糸口を示した。
だがクリフは、王妃の申し出に明るい顔をしなかった。
「連れもどしたいかと思ったのに」
「連れもどしたいですよ。帰ってきて欲しい」
クリフはあっけらかんと応えてから、視線を揺らした。わずかな動きだったが、リュセスは見逃さなかった。
「私たちの非力を案じてくれているなら、不要ですよ?」
「それもあります。が、」
肯定してから、息を継ぐ。
「あいつは自分で去ったんだ」
様々な想いが絡みあったセリフだった。
ラウリー奪還が最善とは思えず、また、彼女が自分の意志でついて行ったものを連れもどしても、事態を繰り返すだけだろう。打開策が必要であり、ラウリーは、クリフが事態を打開することを望んでいる……と、思う。
「正直を言えば、どういう気持ちでついて行ったんだろうってのは、気になりますがね」
弱音を吐いたクリフに、リュセスが目を細めた。
「信じているのね」
「気になるって言ってるのに」
クリフは苦笑しながら足を組み、ちょっと考えてから言った。
「信じてるってのは少し違うかな。もし、このまま別れるんなら、それは仕方がないやって思ってますから。他にいい女性がいれば、俺は傾いてしまうかも知れない」
「まぁ」
リュセスは口を押さえて、呆れ顔を作った。言った本人は涼しい顔でつけ加える。
「いれば、の話ですけど」
などと言えば、そんな気がないと見破られてしまう。とはいえ言葉に偽りはない。今のところの話だ。再会した時に互いの気持ちが噛みあえば、また一緒になれるのだろう。
「惚れてるにしちゃ、こういうのは薄情なんですかね」
「薄情ね。ザールなら追いかけて来てくれるわ」
王の神名を略して呼び、王妃は幸せの笑みを浮かべる。確かクリフと同い年ぐらいだろうに、そう見えない、少女のような無邪気さだ。これが女の余裕なのだろう。
「私はこれでも放蕩なの。あの人もよく知ってるから、私から目を離さないわ。あなたは自信家なのよ、クリフ」
「俺がっ?」
リュセスとの会話は、着地点の予想がつかない。思わず、すっとんきょうな声を上げてしまった。
「ラウリーはずっと、あなたの帰りを待つ生活だったのよ。待たせてる自覚も、待ってくれてる自信もあったわけでしょう。少しぐらい、クリフも待ったっていいのかも知れないわよ」
連れ去られたというのに、その相手は“ダナ”だというのに、まるで痴話喧嘩の仲裁でもしているような気楽さである。反論する気も削がれる。
「リュセス様、俺は、」
と、言いかけた時だった。
「待って」
リュセスが手を挙げてクリフを制し、目をさまよわせた。
中空を睨むリュセスにならって、クリフも精神を集中させる。じっと息をつめると、リュセスの黙ったわけがクリフにも分かった。クリフはリュセスと目を合わせて、立ちあがった。
「感じられましたか?」
「気のせいでなければ」
と言いながらも、感じた『力』のほどは、相当だ。自分自身の力も強くなっているのだろう。かきあげた黒髪の下に見える赤毛は、かなり赤い。赤さを意識したくなくて変装しているという心理も、ないではない。
クリフは迷わず部屋を出た。
「あっ」
闊歩するクリフを見つけて、廊下の向こうから魔法師のミネカナが走ってきた。
「クリフォード殿、あなた今まで……って、王妃様っ。こ、これは」
ミネカナが慌てて腰を折る。クリフの後ろに続くリュセスは、ミネカナの無礼を見逃して、皆を広間へ集めるように命じた。
「魔法陣に『魔力』が集結するのを感じました」
リュセスは、あえて誰が“転移”してきたのかの憶測を言わなかった。エノアかダナかとしか思えないほどの『力』である、どちらが来たのかで天国と地獄だ。ミネカナもリュセスの物言いを察して、顔を引き締めた。
クリフは両手で勢いよく、広間の扉を開け放した。
案の定、魔法陣には人が座りこんでいた。“転移”を終えた2人だった。
クリフも、クリフの後ろに続いてきた人々も、皆が一斉に安堵した。憎たらしい黒マントを見て安心するとは自分らしくないが、今はこの上なく心強い。
「リニエス……!」
リュセスがクリフの横をすり抜けて走り、リニエスにしがみついた。
涙声で抱擁する姉に、リニエスは「遅くなりました」と、あいかわらずの硬い声で謝罪した。あいかわらずの、だが、雪どけ直前の澄んだ氷のように感じられる声だった。ちょっと危なげで、春の日ざしを受けながらもまだ溶けない、キラキラと光る氷のような。
そんな声で、リニエスはもう一言を続ける。
「勝手な真似をして、ご心配をおかけしました」
およそ申し訳ないと思っていなさそうな声音だったが、その一言は誰もに充分な驚きを与えた。リュセスが顎を引いて妹の顔を覗きこむと、彼女は一礼するように目を伏せたのだった。
リュセスは再び、しっかりとリニエスを抱きしめた。
クリフは、脱力する黒マントの前に立った。声をかけずに見つめてから、だしぬけに「ラハウは?」と訊いた。
「死んだ」
エノアの返答も淡泊だ。
信ぴょう性に欠けるほど薄っぺらな答えだったが、エノアは嘘をつかない。ついたところを知らない。オルセイの言葉が真実だっただけだ。
それでも「あの老婆が」とは思った。ソラムレアの地下牢で初めて出会い、斬り結んだ剣の強さは、並はずれていた。刺したオルセイを目の前でかっさらわれて、一度は忘れさせられて、また出会い、逃した。オルセイの影に、常にラハウはいた。
もう一度、斬りあってみたかったと思うのは、不謹慎なのだろう。最後に見た老婆はもはや、まったく動いていなかった。言葉すらなかった。だが、リニエスの様子から察するに、そう悪くはない最期だったのだろうか? とも思える。
今頃あちら側で、ほくそ笑んでいることだろう。
お前たちの今後をここから見ていてやるよ、と言われている気がした。
クリフはハッとして、エノアに「オルセイは」と尋ねた。他の者らがクリフたちを囲むように、わらわらと入室していたのが、クリフの発言にぴたと止まった。
やはりエノアの答えは簡潔だった。
「知らん」
元の地へは戻らなかったのだ。これで完全に行方は分からなくなった。また、どこかの地下へ潜り込んだのか、あの白い家のような場所が他にもあるのか。まさかクラーヴァ城の地下には“転移”していないだろう。
後はソラムレアか……ネロウェンか。
オルセイがネロウェン国の片棒を担いで、ヤフリナ国の豪商を殺したのは、周知の事実だ。あの一度きりの手助けだったのか、この先も加担するのかは、きっと、追々知れることだろう。
「しきり直しだな」
クリフは唇を噛んで、小さくうなった。
外の雪は薄く積もりかけたところで、やんでいた。
~3章「幸運のナティ」に続く(7章構成です)~