2-5(解説)
体力の回復したラウリーとエノアは、北に進んだところにあった町まで徒歩で旅をした後、新しいゴーナを買って、さらに北へ北へと足を進めていった。
ラウリーは、どこをどう進んでいるのか知らない。エノアに先に走ってもらい、その背中を追うだけだ。
つくづく「ゴーナに乗れる自分で良かった」と思う日々だった。エノアはそれをどこで学んだのか、ゴーナの扱いがとても上手かったのだ。魔道士に苦手はないらしい。
なるだけ人世とは関わりたくないのだろう、最初に寄った町以外は、山と草原と谷の風景が続いた。
だから自然物以外の風景が目前に広がった時、ラウリーは思わず目を細めたほどだった。久しぶりの「町」だった。いや、「街」と書くべきだろう。丘を越えた眼下に広がる家並みは、今までに見たどんな町より大きく、圧倒的なほどの華やかさをかもし出していた。
この街がロマラール王都以上かも知れないと思ったことと、街の外れの遠くに控えているとてつもなく大きな高い建物を発見したことによって、ラウリーは思わずエノアに尋ねていた。
「ここは、どこですか?」
「クラーヴァ国王都だ」
相変わらず淡々とした口調だったことと、ラウリーの想像通りの答えが返ってきたことによって、さほど驚きはなかった。しかし胸にこみ上げる感嘆の溜息を抑えることは、できなかった。
「凄い街」
自分のように汚れきったみすぼらしい者が足を踏み入れて良いのかと思うほどだ。しかしエノアが飄々と先に進んでいくので、後を追わないわけには行かない。ラウリーは通りをきょろきょろとしながら、エノアの後を追った。
通りの人たちが、色々な話をしているのが聞こえる。
ラウリーはふと違和感を感じて、街の人の声に耳を傾けた。
「ラウリー」
呼ばれて、立ち止まってゴーナから降りるエノアの側に自分も降り立ちながらも、通りの人たちの会話が気になった。
そのことをエノアにようやく報告できたのは、その宿屋での手続きを終えて部屋に入り、風呂にも入って一段落ついてからだった。
「言葉が、おかしいですよね?」
と、ラウリーは夕食のパンをかじりながら言った。
語尾が段々小さくなった。自分が使い慣れている言語と違う、というのはその前の町で宿屋に泊まった時も思ったことだったのだが、今回この街に来てみて、通りの人たちの会話や宿屋の主人の言葉などが一層分かりにくくなっていることに、ラウリーは気付いたのだ。
まだ誰と話したわけでもないので確信は持てないが、おそらくなまりがひどくて、長文になると上手く会話できなくなるのではないかという危惧が感じられた。その差が、先の町よりもひどくなっている気がするのだ。
「違っている、ということか?」
「違う……ええ、そうですね」
「そうだな」
エノアはあっさり肯定した。
完全に理解できないわけではないので言語は同じだということなのだろうが、遠くへ行くほど言葉が変わるという、想像もしなかった事態に、ラウリーは少なからず戸惑った。
「言葉の違いは、この先、もっと変わってしまうんですか?」
「変わる。クラーヴァ国からソラムレア国に入ると、まったく通じなくなる。種族が違うのだ。“種族”というのは分かるか?」
「分かります」
ラウリーは頷いた。自分の知識がどこでどう役に立つか分からないものだなと思いながら。父親などには、そんな役に立たないことばかりしていないで、縫い物や料理を学べと怒られたものだった。その小言を無視したおかげで、彼女の料理の腕前はからっきしであるが。
久しぶりの宿屋の、暖かい食事が嬉しかった。
冬のさなかなので、狩りの腕前はあっても動物がおらず、木の枝や根っこ、携帯している干し肉などが主な食事だった。シチューの暖かさがなお一層、胃に染み渡る。
ラウリーはそれをゆっくりと飲み下してから、エノアを仰ぎ見た。
この街に立ち寄ったことには、理由があるはずだ。単に、たまにはゆっくり休んでおかなければというようなことだけで、エノアがこの街を選んだとは思えない。
ラウリーは口を開きかけてから、思い直して、ぐっと酒をあおった。
2人が食事を取っている場所は、宿の自室である。
一間しかない小さな部屋にベッドが2つとテーブルと椅子が2つ。ベッドの間に簡素なついたてがしてある。そのテーブルにひそやかな食事を並べて2人だけで取る食事は、気が楽と言えば楽だったが、緊張すると言えばする。
基本的に、食堂などの沢山人がいる場所には、エノアは行かない。街へも出ない。何せフードを深くかぶって顔を見せない黒マントの男など、目立って仕方がない。
宿屋の主人が2人を見て「これは高貴な方のお忍びに違いない」と思ってくれたのは、幸いだった。彼は快く承諾してくれて言葉遣いも丁寧になり、前の町より交渉がスムーズだった。さすが王都だ、そういう可能性のある人間がいるということだろう。
しかもそのサービスは随所に及び、熱い風呂にまで入れることとなったのであった。ラウリーもその恩恵に預かり、数十日溜めに溜めた垢を落とすことができたわけである。ゴーナを買った町では風呂などなかったし、湖などを見つけては体を拭いたり髪を洗ったりはしたが、それで完全に汚れが落ちていたわけではない。
もちろんラウリーのいた村でも水は貴重で、風呂など週に一度入れれば良い方だった。だから体を洗えないことに辛さは感じていなかったが、それでも改めて湯に体を沈めると、安心と疲れが一気にラウリーを襲った。
そんな状態で、出された酒を飲めば、当然酔いはすぐ回る。
その酔いにまかせて、ラウリーは思い切って再度口を開いた。
「この街には、何の用事があるんですか?」
疑問があれば聞けと言われている。ラウリーはそう自分に言い聞かせて、どきどきしながらエノアの返答を待った。質問一つで大袈裟だが、彼女にとってエノアとの会話は、まだなめらかなものではないのだ。
まだ乾ききらない湿った髪が一層紫色を鮮やかに見せ、ラウリーの顔にも憂いを与えていた。
別段『20歳でなければ飲んではいけない』等の決まりはない。寝酒や気付けなら、子供とて口にしているものだ。しかしこの時の酒は、子供が飲むにはアルコール度が強く、量があった。ラウリーもエノアも、互いの年齢を聞いたり気にしたりしたことはなかったのだが、ラウリーが果たしてどのくらい酒に強いのかということは、少し気になったらしい。珍しくエノアが聞いた。
「飲み過ぎていないか?」
「大丈夫です」
ラウリーは即答した。酒が入ったため、今までの旅では見たことのない強気さである。そう言った側から、ラウリーはもう一杯口にしていた。コップを机に置く時、木でできたコップはガンと鈍い音を響かせた。
それと入れ違いに、エノアがコップを持ち上げた。
「──そうだ」
相変わらず返答は短い。
ラウリーは引き下がらなかった。
「どんな用事ですか?」
顎を引いて、見上げるようにしてラウリーはエノアを見た。エノアの顔をまっすぐ見ている辺り、すでに酔いは回っていると言って良い。今は自室なので、エノアはマントを外している。
「兄に関係あるんですか?」
と聞きながら、いや兄には当然関係あるのだろうなとラウリーは頭の端っこで考えた。この旅のすべては、兄のためだ。多分。
「兄は……兄はどうなったんですか? どうなってるんですか? これから、どうなるんですか?」
オルセイの顔を思い出した途端、堰を切ったかのように、我慢していた問いがすべて、口から飛び出した。ずっと尋ねる機会を窺っていたのだろう。教えられないこともある、とエノアは言った。何をどこまで聞いて良いのか、思い悩んでいたらしい。
しかしエノアは言った。
「オルセイのことは、着けば分かる」
「嫌です」
エノアの動きが一瞬止まったようだった。
それから、おもむろにラウリーの欲した答えを与えてくれた。観念したということらしい。
「ここには、オルセイの件だ。オルセイは、生きているとしか分からない。しかしおそらく東の国へと移動している。もし彼が村に戻るのなら、それでも構わない」
エノアが何を思ってそう言ったのかはラウリーには分からなかったが、だが兄が自分で帰宅するというのは考えられなかった。ラウリーがそれを考えられないほど、エノアの言葉には確信がある。
兄は東へ向かっている。
ラウリーは頷き、続きを即した。
「私はオルセイより先に、東の国ジェナルムにある“ある物”を手に入れる。そうすれば、オルセイを元に戻すことができる可能性が高くなる」
「戻す……。兄に起こったあの現象は解決していないということですね。エノア、“ある物”って何ですか?」
今日の質問攻撃は止まないらしい。のらりくらりとかわしていれば、そのうち酔いつぶれて寝るかとも思ったが、まだまだ元気そうだ。
しかもエノアの返答を待たずにラウリーはまた問いを繰り出した。その言葉に、エノアは内心はっとした。
「──ダナ神ですか?」
一瞬空気が凍った。
虚を突いた図星だった。
そういえばオルセイに向かって一度、ダナと呼んだな、と思い出す。その一言だけでこの結論に至るのは驚異だったが、それだけの根拠あるものを目にしたのだろう。それはエノアも見たものだ。
エノアが答えずに黙っていると、ラウリーがそれを説明し出した。
「兄さんとエノアの間に凄い風が吹いて、その後兄さんがいなくなりましたよね。あの時、ダナ神のような影が見えたんです。ダナ神なんて当然、実際に見たことなんかないんですけど、でも、ダナだと思いました。兄さんと何か関係があるんじゃないかと……」
エノアは、どうやらこの娘は想像以上の器だったらしいと密かに思った。
「ダナが見えたか」
そうして話しているうちに、なぜかラウリーの目には涙が溜まってきていた。泣き上戸だったらしい。酒によって感極まってきたラウリーは、自分でも止められない思いが奔流するのをただ言葉にしていくだけで精一杯になり、それらの質問をどこまで喋って良いのかなどとは、もう考えていない様子だった。
「教えて下さい、煮え切らないんです。エノアについて行けば兄さんが助けられると思っています。でも、分からないのが怖いんです。不安なんです。兄さんはどうなったんですか? ……私は、どうなるんですか?」
最後の方には涙で声が震えてしまって、分かりにくくなっていた。それでもラウリーは言葉を絞り出した。最後の一言が、抑えきれなくなった彼女の本音なのだろう。
兄の様子はただごとではなかったし、その兄に起こったあれが何だったのかも教えてもらえない。遠く、言葉も違う果ての国まで行く有事である。本当にそんな大事に自分などが役に立つのかどうかも不安だったし、役に立つなら立つで、どのようなことになるのか想像ができなくて心細かった。自分がついて行くことをエノアが許してくれたのだから、何らかの意味はあると思いたいのだが、具体的には何も教えてもらっていないので、不信感があったのだ。
魔道士であるエノアに対して、そうした“不信感”を持つ辺り、ラウリーがエノアのことを人間だと見ていることの現れだったが、本人はそのことに気付いていなかった。ラウリーの中では、自分はまだエノアを絶対と思っている、と思っているようだ。
すっかり涙に暮れてしまった娘に、それを言ってみたところで理解しようがないだろうが。
エノアは酒を口に含み、テーブルに戻した。コトンというその音で、ラウリーが顔を上げ、涙を拭いた。そして自分が何を言ってしまったのかに気付いたのか、恥ずかしそうにまた俯いてしまった。
「ダナだ」
エノアは腕を組んだ。足も組み、背もたれに背を預ける。
彼はもう一度、ゆっくりと言った。
「オルセイを支配したものは、“ダナ”だ」
「……え?」
ラウリーの涙が、一気に引いた。
あまりにもとんでもない言葉を聞いた気がする。ラウリーは耳を触った。
「神が降臨した。私はそれを天に戻そうとしている」
まるで、日常茶飯事の雑用を片付けるかのように。エノアはさらりと言った。
言うからには勿体を付けずに言ってしまえというところだろう。エノアは顔色一つ変えていなかった。
想像のカケラにも入っていなかったのだろう、その答えにラウリーの紅潮していた顔が真っ青になった。指の先まで完全に硬直してしまった。いや、この時ラウリーが言葉を話せる状態だったとしても、彼女はきっと何も言えなかったに違いない。
エノアは一拍置いてから、言葉を続けた。
「ダナ神がなぜ降りたのか、なぜオルセイに憑いたのかは分からない。しかしダナが不完全であることは間違いない。東の国に、彼の“心臓”とも言える『石』があるからだ。私はダナより早くそれを奪い、彼が不完全なうちにダナの意識を浄化させる」
そこで言葉を切ると、エノアはラウリーの言葉を待った。表情こそ変わらないが、「満足したか?」とでも言わんばかりである。
青くなったラウリーは酔いがさめたのか、ゆっくり首を横に動かした。だがその後、言った言葉ははっきりとしたものだった。
「信じます」
おそらくそのような言葉は口に出さずとも良い台詞だったが、エノアに意思表示をしたかったのだろう。ラウリーは、自分が言った言葉に励まされたかのように、少し落ち着いたようだった。
背筋を正し、呼吸を整える。
「何に向かって旅をしているのかを教えて下さって、ありがとうございます。──例え、それが神様だと言われても……」
後半の台詞は、言ってから自分で躊躇したらしい。ダナ神だと聞かされて本当に落ち着いたのかと言えばそうではなかったろうが、少なくとも先の見えない旅ではないことは分かったのだ。きちんと具体策があって、その先に兄もいる道なのだ。
「オルセイを救いたいのはやまやまだが、何せ相手が相手なので、上手く助けてやれるかどうかは保証しかねる。しかしお前の力を借りれば、少しは助かる率も高くなる」
エノアは再び杯を持ち上げ、傾けながら言った。
“だからラウリーは必要な人物なのだ”と確定を与えられ、ラウリーは安堵を味わったのか表情をゆるめた。
すると気が抜けたのだろう、ラウリーはふいに前にガクッと首を落とした。先ほどさめたはずの酔いが、再び襲ってきたようである。
「あ、駄目」
ラウリーは呟いて、頭を押さえた。
「それから後、まだ、」
「眠りなさい。答えは逃げない」
「また明日、教えて下さいますか?」
「明日も明後日も。私は答えよう」
エノアはそう約束して、ラウリーにベッドに入るよう言った。風呂と酒が、日頃彼女の中に溜まっていた疲れを全面に押し出してしまったのだ。
エノアはベッドに入った彼女に安眠が訪れるように、彼女の額に手をかざした。軽く暗示をかける。今の話を忘れてしまえとする魔法でなく、むしろ覚えていてもらいたいがための技だった。今日の話を覚えておいて、なおかつこの記憶がラウリーの睡眠を妨げないように、高揚感を取り除いたのだ。
ラウリーがエノアのことを『人間』だと認識しはじめたのと同様、エノアも、ラウリーを『人間』だと意識するようになっていた。家畜や奴隷のような、ひときわ下卑たものにたとえて付き合っているだとかいう、そういうわけではない。
言葉を交わせば交わすほど、心をやりとりすればその分だけ相手に情が移ってしまい、いざという時に命取りにもなりかねない。ただ普通に接しているだけで心が揺れるとは、思っていなかったのだ。魔道士の村で育った彼は、自分の感情を完全に制御している……つもりだった。
本当に、良いか?
エノアは心中に浮かんだ自問を振り払い、酒をあおった。
まだラウリーを殺さなければならないと決まったわけではない。彼女なら、それを言ってしまってもついて来るかも知れないな、とふと彼は思った。彼女の思いは揺らがないだろう。
それを言わないでいるのは、自分が言いたくないからだ。
動き出す心を静めて、彼は一人空になったコップをもてあそんだ。