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2-6(慕情)

 リニエスは家の中を探検して毛布を手に入れると、横たわるエノアにかけた。マントのしわを伸ばしてフードもかぶせてやったが、反応がないところを見ると眠ったらしい。

 ラハウが死んでも、魔法陣の『力』は衰えていない。文字そのものが力を持つらしい。エノアの『気』は安定していた。

 とにかく彼が目覚めないことには何もできないし、どこにも行けない。自分もひどく傷ついてしまった。

 リニエスはエノアの側に座って手当てをしながら、自分の魔力も蓄えた。多少の“治癒”が使えるまでに回復すると、彼女は自分の血を止めた。毛布を取ってきたのは、それからである。

 毛布をかけて一息ついて、それからリニエスはようやく、ラハウと向きあったのだった。

 壁ぎわに貼りつく老婆へにじり寄り、その正面へ正座する。リニエスはぴんと背筋を伸ばして目を凝らしたが、ラハウの死骸からは何も読みとれなかった。

『力』も思念も何もない。思い残すことが何もなかったのだろうかといぶかしまれるほど、部屋の空気も清々しい。リニエスが部屋中の窓を開けてきたせいかも知れない。血の臭いが薄れていく。

 フードの奥に見える口元が、笑みに見えた。目も見たかったが、すっぽりと彼女を覆うマントを、はぎ取る気にはなれなかった。マントを取らずとも、ラハウが骨と皮だけになっているのは察せられる。

 リニエスより細い腕なのが見える。

 リニエスはただただ、黒い塊を見つめ続ける。

 どれほどの時間そうしていたか分からなくなった頃、少女はふっと意識を手元に戻した。

「オルセイ?」

 という小さな声が聞こえたのだ。

 可愛らしい声だった。続いて、軽い足音。子供のものらしい。リニエスは立ちあがり、声の方へ進んだ。玄関を入ったところで少年がおどおどしていて、リニエスを見たとたんに「あ」と首を竦めた。自分より年下のようだ、とリニエスは思った。身長もリニエスの方が高い。

 彼女は無意識に肩から力を抜いた。

「何ですか?」

 だが従来からの口調は、すぐには変えられない。にべもない言われように、少年は怯えたようだった。不法侵入を咎められたと感じたらしい。上目遣いになってリニエスを覗き見ている。

「ごめんなさい、あの……ここ、オルセイの家じゃなかったんだね」

 ヤフリナ語を耳にして、リニエスは素速く思考した。返答にさほどの時間は要しなかった。

「多分もう来ません」

「え……と……?」

 要約しすぎたらしい。今度は言葉が理解できなかったのではないはずだ。リニエスは回答を開いて、少しずつ説明した。

 ここがオルセイの家でなく、自分と祖母の2人暮らしなのだということ。オルセイはちょくちょく顔を見せてくれた親切な人だったが、来られなくなったこと。ヤフリナ本土で戦争が始まるらしく、徴収された──と嘘をついた。ラハウが亡くなった以上、オルセイは戻らないだろう。

 納得したらしく、少年は「だからオルセイは、時々しか町に来なかったのか」と呟いた。リニエスはそれを聞いて、逆に「オルセイさんは時々、町に行っていたのか」と思った。彼の日常に触れた気がした。少年はオルセイの名に対して、慕う感情しか見せない。迷いも怯えもない。

 愛されていたらしい。

 なのになぜ、とは思わなかった。

 黙って見おろしてくる少女の様子に、少年は居心地の悪さを感じたようだった。「なら、いいんだ」とか何とか口ごもり、後じさって去ろうとしている。リニエスは自分の無表情が無垢な少年に恐怖を与えていると察し、顔をゆるめてみた。

 これで笑顔になっているだろうかと思いつつ。

「オルセイさんを好きだったんですね」

 そう言われて少年は呆けたが、すぐに頬を染めて頷いてくれた。多少は警戒心が解けたようである。リニエスはほっとした。この少年にはまだ用事がある。

 リニエスはゆるめた表情を保ったまま、町に連れていって欲しいと願い出た。まだ日は高い。ここから町までの距離は分からないが、この少年が来られる距離なのだ、充分行けるだろう。

 そう判断したリニエスに、少年は意外な返答をした。

「大丈夫?」

 リニエスは首をかしげてしまった。

 少年の視線に気づいて自分の格好を見おろしてから、意味を飲みこんだ。衣服が破れて体も傷だらけなのだ。包帯が足りないので、白い肌に赤黒い筋がいくつもあって痛々しく見える。リニエスは少年が怯えた本当の理由にやっと気づいたのだ。

 あまりに無頓着な、きょとんとした顔をしていたのだろう。心なしか少年が鼻白んでいた。

「もう痛くないのですよ」

 言いながら、傷に触れる。本当はまだ熱も持っているし、うずくような鈍痛もあったが、それを治すためにも薬や包帯が欲しいのだ。今は町に降りるのが先決だった。

 ラハウとオルセイが住んでいた家では、薬など置いていない。

「服にも替えがないので、手に入れなければなりません」

 オルセイのシャツを着こんでも良かったが、エノアの様子からすると今日明日にすぐ帰れるとは期待しない方が良さそうだ。そうなると食糧の調達も必要になる。エノアについて来ることを決意したリニエスだったが、隠し持てた手荷物はごくわずかだ。

 淡々としているが、切実さは伝わったのだろう。少年は「ふぅん?」と歯切れの悪い応答をしたが、やがて頷いてくれた。

「だったら、うちにおいでよ」

 と、見当違いの返答をされてしまったが、ひとまず承諾して家を出ることにした。

 出てみて、リニエスは周囲に人工のものが見あたらないことを確認して、「これなら大丈夫だ」と判断した。仮に何か起こってもエノアのことだから目覚めて対処するだろうが、何もないに越したことはない。

 もし、オルセイさんが戻ったら……?

 リニエスは自分の手を掴んでくる小さな手を握りかえして、そのぬくもりを感じながら今後のことを考えた。最悪のことは考えておくべきだろうが、思考にだけ捕らわれて動けなくなるのは愚かだし、何も起こっていない状態を怖れていても仕方がない。

 リニエスは息をついて、顔を上げた。

 天気が良かった。

 海は少々荒れていたが、それは満ち潮のためだった。特別乱れた気配は感じない。見えてきた港町の景色も、実にのどかだ。本当にこの道をオルセイさんが歩いたのだろうかとすら思えてしまう。

 少年は雄弁なたちのようで、リニエスが訊かないことまで次々に教えてくれた。とはいっても、この島がのどかであることや、オルセイがどんなに優しかったかなど、聞くまでもないことばかり口にされたのだが。

 そんな中で少年は「でも不思議だな」と言った。

「何がですか?」

 問うたリニエスに、少年は目を大きくして「戦争だよ」と声を上げる。

「みんな、そんなこと言ってないよ。誰も連れてかれてないよ。どうしてオルセイだけなのさ」

 その言葉を聞いてリニエスは、しまったと思った。てっきり徴兵が始まっていると思ったのだ。いや始まっているだろう。リニエスの知るヤフリナ国は頑固で、他国に屈しない。兵士募集の声が届かないほど、ここが田舎なのだ。

 返答の隙をうかがうリニエスに、しかし、少年はポツリと言っただけだった。

「みんな、ひどいね。オルセイばっかり」

 徴兵がないことを、いぶかしんだのではなかったのだ。リニエスはうつむく少年の手を、ぎゅっと握った。

「悪気はないのです。オルセイさんは“ひどい”と思っていないかも知れませんよ」

「そうなの?」

「はい」

 幼子に理解させるのに、どこまでどう話せばいいのか分からない。が、少年は自分の言い分をリニエスが受けとめてくれたと分かっただけで満足だったのだろう。それ以上のややこしい話はしなかった。

 町に近づいていくと、人の歩く姿が見えた。少年が「あ」と言って小走りになった。知りあいらしい。

 人の形が女性になり、中年になる。足下がコツンと響いて、そこが石畳になったことに気づく。リニエスは町に入っていた。

 通りには他にもちらほらと歩いている人が見えたが、昼下がりのためか誰も厳しい顔をしていない。それだけにリニエスの格好には、皆が見て見ぬふりをしているようだった。

 中年の女性以外は。

「おばさん!」

 声をかけた少年に笑顔でふり返ってから、中年女性はリニエスを見て凍りついた。リニエスは身内と他人の違いを観察し、これが姉リュセスになったら、もっと驚くのだろうかと考えた。きっと驚くだろう。

「タニヤ、どうしたの、その子は?!」

 知識にない用語を耳にして、リニエスは自分と少年が自己紹介をしていないことに気づいた。

「タニヤ?」

 と見おろして、訊いてみる。タニヤ少年はこともなげに、うんと頷く。ああそうか人の名を欲する年齢じゃないのだと思ってから、リニエスは婦人を見あげた。婦人はまだ、それほど痩せていない。周囲の者もそのようだ。

 まだ裕福な町なのだなと分かる。

「今から、ぼくんちに行くんだよ。ぼくの服を貸してあげようと思って」

 少年の言葉通りに“おばさん”な婦人は、のほほんと答える少年に鼻白み、リニエスの手を取った。

「あんたの服は男の子のだし、小さいでしょうが。うちに来なさい。いいからタニヤも一緒に。あんたは何でも勝手に決めて勝手に動くんだから、もう、ダーニャの苦労がしのばれ、あ、ジニア! ジーニーアーっ」

 一人で3人分は話しているかと思えるほど騒がしい。だが悪い気はしなかった。クラーヴァ城を仕切る侍女長に似たところがある。リニエスが侍女だった頃、何かと衝突もしたが世話になった女性だった。衝突といっても、彼女の怒りをリニエスが飄々と受け流していた関係だったが。

 ほどなく少女が飛びだしてきて、この婦人にしがみついた。自分と変わらない背格好である。リニエスは先の文脈から、この少女がジニアらしいと判断した。顔をゆるめて、少し頭を下げる。少女はキラキラした目でリニエスを凝視するだけだった。その少女ジニアの背を押して、母親は「ほら」と即して歩かせた。

「一旦うちに帰るよ。ジニア、お前の服をこの子におあげ」

「えええ?」

 あからさまな不満声に対処すべく、リニエスは婦人に「結構です」と言った。

 堅苦しくて綺麗な発音に、婦人は呆けたようだった。ゆっくりとふり向かれて、リニエスは背筋を伸ばした。奇異の目で見られることには慣れている。

 貸してあげるでなく、あげると来たものだ。リニエスは婦人をまっすぐ見あげた。

「結構です。服は購入いたします。店を教えて頂ければ充分です」

 金は持ってきた。通貨でなく砂金だが、この町ぐらい開けていれば通用するはずだ。

 丁寧な物言いを努めたリニエスに対して、婦人の顔が歪んだ。泣きそうな表情である。ひどいことは口にしていないはずだが……と、リニエスは自分の発言を反すうした。おかしなことも言っていない。それとも発音が悪くて聞きとってもらえなかったのだろうか、とも思った。だが少年とは会話が成立していた。

 首をかしげると、婦人は自分の子供から離れて、リニエスの前にひざまづいた。大人に見あげられることが少ないリニエスは、ただ黙って突っ立って、婦人を見ただけだった。

「あなた、名前は?」

 この状況で名前が必要なのだろうかと思ったが、女性の目がうるんでいるのを見る限りでは、言った方がいいらしい。リニエスの脳裏にラウリーの姿がよぎった。

「リン・ラコルと申します」

「リンちゃん」

 久しぶりに聞く響きだった。

「リンちゃん、あなた一人なの? どこから来たの?」

 その問いには、タニヤ少年が答えてくれた。

 すると女性は、さらに訊くのだ。

「お祖母様はどちらに?」

 と。

「さぞ教養のある方なのでしょうね。あなたに……まだ、うちのジニアと違わない年に見えるのに、あなたにそんな大人びた言葉を喋らせるなんて」

 そこまで言われて、やっとリニエスは悟った。自分の正確な敬語が、逆に婦人に憐れまれたのだ。ラハウのことを悪く言われたように感じた。

「亡くなりました」

 とたん、婦人の顔が気まずそうなものに変わった。死者を悪く言うのは、誰だって後味が悪かろう。

「素晴らしい方でした」

 目前にしゃがみこんだままの女性に向かって、リニエスは続けた。

「私に良くして下さいました。惜しげもなく、すべてを見せて下さいました。頼りにして下さいました。任せて下さいました」

「リ、リンちゃん」

「私にだけ聞かせて下さった話もありました。思慮深く人道に厚い方だったのです」

 言いながら、彼女の脳裏に老婆の死んだ瞬間が思い起こされた。リニエスが彼女の起こした攻撃を全身に受けた時、彼女は動きを止めた。魔力のみを糧にして生きていた老婆が、魔力を止めたのだ。

 死の瞬間だった。

 直後にエノアが起こした術のせいかも知れなかったが、そのタイミングにしても、リニエスの行動が原因だったのだ。リニエスが殺したも同然である。

 逆に言えば。

 ラハウは、リニエスに殺されてくれたのだ。

 そう気づいた時ふいに、リニエスの目から涙が落ちた。

 同時に先ほどまで冷たい岩のようになっていた心が、何の感情で埋められていたのかが理解できた。“落胆”だった。ラハウが死んだ、願いが叶わなかった……。

 違ったのだ。リニエスの想いは成就していたのだ。

 リニエスはただラハウに会いたかった。ラハウを止めたかった。

 話しかけて欲しかった。

「ラハウ……様」

 あふれてしまった涙を処理しきれない。リニエスは去りたかったが、婦人に肩を掴まれて逃げられなくなってしまった。10年ぶりに出たのではないかと思える涙はぬぐうこともできず、流れ続けた。

 ラハウに会えた。

 リニエスがラハウを止めた。

 ラハウは、死という無の言葉でリニエスに話しかけてくれたのだ。

「もう葬儀は済んだのかい?」

 婦人が訊いてくれるのに対して、リニエスはまだですと答える。自分のかすれた声に驚いた。

「なら、見晴らしのいいところに眠らせてあげようね。西の丘から来たんだって? あそこは気持ちが良かっただろう?」

 やはり、この婦人は口数が多い。つむがれたセリフのどこに返答しようかと思案したが、リニエスは結局、唇を噛んだまま頷くにとどめた。頷くだけで理解してもらえるだろう。

 それにきっと、もう声が出ない。

 リニエスは婦人の胸にすっぽりと収まった。婦人の腕の強さと熱が、体の芯に届く。

 腕にもぬくもりがあった。ジニアなる少女が、リニエスの腕を掴んでいたのだ。

 手も温かかった。タニヤ少年が、手を掴んでいた。

 婦人はリニエスを抱きしめたまま、

「辛かったね」

 と頭を撫でてきた。

 リニエスは泣きながら、クラーヴァ国に帰ろうと思った。

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