2-2(素望)
来て欲しくない、だが待ち望んでいる、奇妙な2週間が経過した。
14の昼夜をほとんどクリフと過ごすような、悠長なことはできない。ラウリーにもクリフにも、クラーヴァ城滞在に値するだけの仕事が与えられていたし、それは自分たちが望んだものでもある。皆が苦難と闘っているのに、自分たちだけ休む気にはなれない。
クラーヴァの緊張は高まっている。
ラウリーらにはヤフリナ国の一件さえ正式に報告されていなかったが、雰囲気で分かるものだ。謎の男が出現したという噂は気になるものだったが、今は他に方法がない。
“転移”のためにも体調を整えなければならなかったので、結局ラウリーは、日の半分もクリフの顔を見ずに過ごした。会うのは夕方のわずかな時間、どちらかの部屋で談笑するていどでしかない。
ラウリーはクリフも同じ気持ちであればいいのにと期待しながら、逆に心おだやかであれとも願った。クリフは“遠見”で起こったことを詳しく知らない。今度は東南に行くということと、ラウリーだけ様子が違ったようだと聞いているだけである。
『でも全然、何も憶えていないのよ。“遠見”がこんなに難しいなんて思わなかった』
と、ラウリーはおどけた調子でクリフに説明しただけだった。若干の悔しさも演出したので、クリフは信じたようだった。嘘はついていない。激痛のことを言わなかっただけだ。
わざわざ告げて不安をあおっても仕方がないと判断した。常に準備は万全にしており、これ以上は気を付けようがない。行くなとは言えない。今度はいつ帰ってくるかも分からない。
早く終わればいいのに、と思う。
この手を放したくないが、放さなければ終われないのだ。
ラウリーはそっと、クリフに寄りそった。
寄りそったラウリーに気づいたクリフが、彼女の肩に手を置く。西側の小さな部屋でいいからと言ってあてがわれたクリフの部屋からは、夕焼けがよく見える。金色の光を放ちながら徐々に朱色へと変わっていく空の変化は、見ていて飽きない。赤へ、紫へ、そして漆黒へ。
“転移”開始の前夜だった。日が落ちるのは早い。この日は晩餐もなく、クリフらと魔法師は早々に就寝せよとの伝令まで出ている徹底ぶりだった。イアナザールとしても、きっと早く終わって欲しいのだろうと思う。エノアもこの2週間、一度も見なかった。術を練るため、部屋に閉じこもっている。
ダナの媒体探しを続ける今の状態は、異常で苦しい。これが日常だよと言われれば納得せざるを得ないが、それがためにクリフとの距離が微妙なままでいるのは、もどかしくて辛い。
一生、微妙なままなのかも知れない。
木の窓を開けはなしていると冷たい風が吹きこんできたが、クリフの体がラウリーに熱を与えてくれており、寒くなかった。ただ黙って座って、夕陽を眺めているだけで心が満ち足りるような、そんな時間をクリフと過ごせる日が来るとは思わなかった。
座っている場所はベッドである。ベッド際に窓があるので、移動した。押し倒そうと思えば容易にできるだろうに、クリフはそうしない。自分に魅力がないのだろうかと悩んだこともあったが、そうではないことも何度か確認できている。
クリフが自分を抑制するのに、どれほどの気力を使ってくれているのか、ラウリーは知らない。知識がないためでもあったし、彼がそれほどに強く兄のことを気にかけていると知っているためでもあった。この呪縛が解けないことには、クリフに昔の笑顔は戻らない……気がする。
背中から抱きしめられたので、ラウリーはもたれてみた。自分のどこを好きになってくれたのだろうと疑問に思うが、クリフに訊いても多分「分からん」と言われそうなので、訊いたことはない。ラウリーも、クリフのどこがどうとは言わない。
上体をよじると、クリフが自分を見つめていた。
赤い瞳は澄んでいる。
その力に負けない気持ちで、ラウリーもクリフをまっすぐと見る。見ていると迷いが振り切れる気がした。
寄せられて、目を伏せる。唇を塞がれる。その瞬間だけは自分が最高の女になれたような、すべてに許されたような気になれる。ここが自分の居場所だ、と思う。
身をゆだねたまま何度かのキスをした後、クリフに言われた。
「今度帰ってきたら、どこかに家を建てよう」
ラウリーは目を見開いてしまった。
2人とも仕事をしている以上は給金をもらっているが、ほとんど手つかずになっている。クリフらの旅には国から援助が出ている。ラウリーが魔法師として稼ぐ金額も、相当なものだ。王都内に家を設けて、子供を……という考えは夢物語でなく、可能な計画なのである。
同じことをクリフも考えていたと思わなかったラウリーは、目を開いたきり言葉をなくしてしまった。
クリフは続ける。
「まだ今のままじゃ、あいつに振りまわされてるだけだろ。明日死ぬかも知れないって考えたら、気にしてるのが馬鹿らしくなってさ」
言いたいことは分かる。いかにもクリフらしい。
「けど今は恐慌で大変だわ。噂も……」
ラウリーが言うと、
「だからだよ」
強くさえぎられた。今しかないのだ、という響きを持っている。
ジェナルムの現状や帰国後のクラーヴァを見て、色々と考えたのだろう。
「ラウリーの力はあてにされてる。俺の腕も必要とされてる。だからこそ落ちつきたいと思って……お前に落ちついて欲しいと思って、」
言いよどみ、クリフは言葉を切った。利己的な言い分であることに気づいて、気まずくなったらしい。
「勝手なこと言った。悪い」
ラウリーは笑みを洩らした。クリフの頬に手を添えて視線を引き戻すと、唇を寄せた。
クリフの自分勝手な物言いが、今は嬉しい。
もつれあったまま横になると、ラウリーはクリフの頭を抱きしめた。のしかかるクリフの体が重かったが、今はそれが心地よい。必ずここに帰って来てくれと強く祈る。
「気を付けて」
エノアに言ったと同じ言葉を吐いてから、少し考えて付け足した。
「台所は広い方がいいな」
「存分に無茶できるようにか? って痛いな、こら」
軽口を叩くクリフの額を指で弾き、反撃を食らって暴れる、子供のような夜が更けていく。
寝るのが惜しいような夜だったが、未来のためにラウリーは自室に戻り、就寝し、そうして“転移”を迎えたのだった。
もう痛みのことは気にならなかった。クリフなら無事に帰ってきてくれるだろう安心感が心に満ちていた。
呪文をつむぐ声に迷いはない。クリフの瞳と同じく。
かならず幸せを勝ちとる。そんな気分にさえなった。
ラウリーらの充実した声が朗々と響く中、クラーヴァ城広間の魔法陣に『魔の気』が満ちていく。“転移”の補佐には魔法使いも参加できるので、呪文の使える者らが参加して、計12人が円陣に沿って座っている。
クリフとエノアは円の中心に座って、発動の時を待っている。
当然エノアも一緒に“転移”を唱える。いつもクリフだけが手持ち無沙汰な様子でエノアのマントを掴んでいるのだが、今回の彼は落ちついていた。軽く瞳を閉じて、魔法に身をゆだねているようである。
その姿を瞳に納めてから、ラウリーも目をつむって魔法に集中した。
そんな魔法師たちを侍女と警護の兵が見守る。帰着にはうるさい大臣も、出発には用がないらしい。侍女らは分をわきまえているので静かだ。大きな広間に古代語だけが響きわたる、この瞬間が一番好きだというのは不謹慎だろうかと思いつつ、ラウリーは魔法に精を出す。
イアナザールもリュセスも立ち会わなくなった。慣れたとはいえ魔法には相当の時間がかかる。飛ぶのは、午後か今晩か。かかり切りにはなれない。リュセスは今でも参加したいと主張しているが、王妃と母の役どころが邪魔をして強く言えないでいる。
そんなリュセスは手が空くと、ラウリーの髪を梳いてくれたものだった。
自分の魔力を人に分け与える行為。見た目は変わらないが、気持ちが落ちつき力が満ちる感覚が得られる以上、絶大な効果を持つ。おかげでラウリーの髪は艶やかであり、この点からすると見た目にも効用があると言えよう。昔は性格同様に、跳ねっ返りの癖毛だった。今でも波うっているが、少しはまともになったのではないかと思う。
などと思いめぐらしていた頭も、魔の気が高まると共に段々と言葉をなくす。
雑念が消える。
合わせた指先から感じる鼓動が、腕から胸へと体内に満ち、床の円と呼応する。円を通じて、すべての魔法師と呼応する、呼吸が重なる。『気』が重なる。
魔の気が大気に満ちる。
意識が体を離れて拡散する。
大地に染みこみ、もっとも大きな石と呼応する。
ファザの石に。
そして石の中に一点を見出す。
その一点に。
飛ぶ。
「申し訳ありません!」
「?!」
気が乱れた。
甲高い叫びが皆の意識を覚まさせた。はっとして顔を上げた先に、“転移”する直前のクリフたちがいた。それは、すぐに消えた。無事に飛んでいったのだとは思うが、表情が驚愕だった。ラウリーらも全員、愕然とした。
“転移”したのはエノアとクリフだけではなかった。
リニエスまでが一緒に消えてしまったのである。
甲高い声は、リニエスのものだった。
“転移”の瞬間を計った彼女の行動は、誰にも止められなかった。円陣の『気』が高まり、いよいよという時に彼女は走り、エノアにしがみついたのだ。
最後の声が響きを残す中、余韻を聞きながらもラウリーたちには立ちあがることさえできなかった。何人かは気絶している。それほどに消耗している。リニエスが走れたのは、以前からずっと気を溜めて準備をしていたからに他ならない。思いつきで駆け出せるような、甘いものではない。
リニエスなりに、ラウリーの異変やエノアが設けた2週間という期間について考えたのに違いない。彼女の突撃には迷いがなかった。
リニエスはラウリーよりも力が強く、しかも守られている必要などない。今までだって共に行こうと思えば可能な立場にあったのだ。そうせず、ずっととどまっていたのは、行く必要を感じなかったからだろうし、王族として、魔法師として、またラウリーの良き仲間としての役割をも重視していたからだろう。彼女との勉学は、とても充実していた。
それらを一気に捨てて走ることができたリニエスの心境は、計り知れない。
元々から自分の思慮を人に読ませない少女である。近頃は丸くなったと評判だったが、それでも言動は変わらなかった。人前に姿を出すことが増えたぐらいのものだろう。姉のリュセスすら寄せつけないところを持っていた少女が、今までになかった大声を出して皆に謝ったのだ。
何を感じたのか……何を、見たのか。
ラウリーは身を震わせる。
あの時。
“遠見”の時、自分は何を見たかを忘れてしまい、エノアは感じただけと言った。他の皆は何も感じず、もちろん見えもしなかった。リニエス以外の誰もが口々に、そう言った。
彼女は……何か見えていたのだろうか?
ラウリーは、自分と違って軽やかに走り去ってしまった少女に暗い気持ちを感じながら、つらつらと考えた。肩で鳥が何か言っているようだったが、言葉をなさずに素通りする。
自分もついて行けば良かった、などと。
今さら思っても、もう遅い。
それにラウリーは動けないのだ。クラーヴァ王都から出てはいけないのだ。守られていなければならないのだ。
繰り返す言い訳の言葉が濁って、ラウリーの心を曇らせる。自分が本当に動けなかった理由はそんなところにない。それが自分で分かっているから。繰り返すほどに嘘臭くなる。
3人の“転移”した先がどんなところなのか、まったく不明である。しかもヤフリナの豪商が亡くなったという方角である。クリフも皮の胸当てを着こんでいった。
「リニエス……!」
何が見えたのか、何を考えたのか、何が起こるのか。
疑問だけが脳裏を駆けめぐるが、凝視しても、空になった魔法陣からは何の答えも見出せない。立ちかけたラウリーが膝を折り、皆がどよめいている、そんなクラーヴァ城を後にして──。
──すでにクリフたちは“転移”を終えている。
現れた光景は、ついて来たリニエスを言及するような余裕を与えてくれなかった。すぐ目前に、思ってもいなかった者が立っていたのだ。いや。心のどこかでは予想していたのかも知れない。
クリフの目はオルセイに釘付けになった。