2章・慈愛のマラナ-1(開戦)
最初、人はそれを“戦争”だと思わなかった。
ただ朝から、よく雷が鳴っていた。ずいぶんと雷が鳴るねという会話ぐらいは、されていたかも知れない。雲行きも怪しかった。皆が一滴を切望したが、落ちたのは別のものだった。
一筋の閃光。
同時に響いた轟音は、天の怒りを思わせた。
それは皆の耳をつんざき目をつぶし、悲鳴をかき消した。
街のど真ん中だった。
ヤフリナ国の南で栄えているこの街は、王都ではない。しかし力のある豪商が取りまとめている大きな街であり、すぐ近くに港と町も林立している、ヤフリナの玄関でもあった。その豪商の屋敷に、雷は落ちたのだった。
「ひゃあぁ!?」
屋敷中の者がひっくり返って逃げまどう。白昼に文字通り降りかかった災難に、とたんに野次馬の山ができる。街一番のきらびやかな建築が、一瞬のうちに、一撃で廃墟になったのだ。これほどの見物はない。
周囲の石畳もが、めくれ上がっていた。文化の随を集めた大きな屋根がつぶれて避けて、ごみの塊になっていた。巨大な穴も空いており、中にいた者らは何人か命を奪われた。崩れた建物につぶされた者もいたし、雷の直撃を浴びた者もいた。
「だ、旦那様ぁっ!」
気づいた者らが黒い死体にむらがる。焦げた臭いは、屋敷の木々が発するものだけではなかった。
屋敷の主であり街の統治者であった豪商アリーブエンその人が、死体と化していたのである。テネッサ商会の幹部でもあったため、平民からの評判が良くない男だった。だが雷に焼かれて黒こげになった彼に対して悪口を言う者はいなかった。天からの一撃は、まさに天誅のようだった。危ういことを口にすれば、自分の上に雷が落ちてくるのではないかと思えるような暗雲が、まだうなりながら頭上にひしめいている。
彼のことを知る者や使用人たちは泣き叫びながらも、無惨な豪商を遠巻きに眺めることしかできなかった。昼間とは思えない闇が、ヤフリナ国を包んだ。
その時。
雷以上に不気味で怪しいものが、空から降りてきたのだった。
人々は惹かれるように何かを感じて、見あげていた。アリーブエン家の真上に立ちのぼる煙と暗雲の中に、何かが見えていた。誰もが初めは錯覚だと思いそうな、黒い点だった。
ところが徐々に、点が大きくなっていく。
黒い点が面になり、風にひるがえり、長衣を着た男の姿を浮かび出した。
彼の姿に対して声を上げる者は誰もいなかった。皆、動物的本能にも似た恐怖感に、体の芯を凍らせたのだ。こわばった面々が向けられる中、空中を降下してくる男はゆったりとした微笑みを見せていた。
理由もないのに、誰もが彼のしわざだと思った。
近づいてくるにつれ、表情とともに彼の目や髪の色まで見えてくる。男はガレキと化した屋敷の屋根に降りたち、しばらく人々を見おろしていたという。彼は一言も発しなかった。
雲間を切って現れた数本の光が彼を彩ったが、あまりにも不似合いかつ不思議な光景だった。
黒いローブを着たダナの男は、皆のまぶたに焼きついた。
──というところで話が終わっていれば、やはり“戦争”とは思えなかっただろう。
宣戦布告がなければ。
「おっ、お前はっ……」
ヤフリナ国の王は狼狽した。
就寝の床につきかけていた王は、ベッドに向かう途中でその人影を見つけた。窓にもたれて月光を背にした男は、いつ、どうやって侵入した者なのかがさっぱり分からなかった。扉にも庭にも屋根にも、いたるところに衛兵が立っているのだ。鉄とガラスで作られている窓にも、傷一つついていない。
後じさりすることも、大声を出すこともできなかった。
男が「しい」と言って人差し指を唇にあてた、その動作によって王はまったく動けなくなってしまったのだ。呼吸すらも止められたかと焦った王は、息を荒くした。呼吸はできる。初老の王は死にものぐるいで空気を欲した。
男の表情は見えにくい。月が明るかった。
だが声の調子から、笑っているらしいと知れた。
「お聞きになっていませんか? 黒いローブを着たダナの男、と」
聞いている。
南の豪商アリーブエンが死んだ事件は、王にとって衝撃だった。財政のかなめにしている男の一人だったからだ。ヤフリナ国を包むテネッサ商会の財力が、国府を支えていると言っても過言ではない。
テネッサ商会の総統は、ヤフリナ国王ではない。
テネッサ・ホフム・ディオネラである。
一度は見放そうとした男だった。ソラムレア国の内乱をヤフリナ国内に持ちこんで、騒動にしたからだ。大変な戦争になり、しかも負けて、散々な目にあった。国民の税を取り下げさせられ復興支援を送り、しかもソラムレア新政府には慰謝料まで払わさせられたのだ。
だが彼にとっては、それだけだった。
王は国民の苦しみもテネッサの受けた打撃も、大したこととは受けとっていない。現に今またテネッサが盛りかえし、国民は元の生活に戻りつつあった。彼を見放さなくて良かったと思ったものだった。爪を立てられた傷が癒えてきたような、小さなできごとだったのだ。アリーブエンの死は、傷口を広げられたような、塩をすり込まれたような事件だった。
これ以上、誰にもビタ一文と出す気などない。
王にとっては、その方がよほど痛かったのである。
事件を起こしてくれた、謎の男。
ヤフリナ国総出で男を捜し出そうとしていた、そんな時だった。
男の髪が月光に反射して、紫色に光った。
口の端がつり上がった。
「王という地位にあって、これほどに心がないとは見事。ディナティが知れば、羨ましがることだろう」
「ディ……ナティ?」
王はかろうじて口を利いたものの、自分が発した名前が信じられなかった。不審者がネロウェン国の王を呼び捨てにしているという状況が何を意味しているのか、まったく推測できなかったのだ。
今の彼には少年王の名よりも、恐怖の刃を体に刻み込まれることの方が大変だった。ヤフリナ国の王は、国民の飢饉もどこ吹く風で安穏と暮らしてきたのである。敷いて言えば楽天的な無人格者だった。もう、この年でもある。死も含めて、あらゆる不遇を恐怖と感じなくなった。なのに……。
王の心境を察しているかのように、男が微笑んだ。
「左様」
という言葉は、王がディナティかと呟いたものに対して応えられたものである。
「このダナをして、ネロウェン国王ディナティ2世は御国への侵攻をお決めになられた。豪商アリーブエンを殺したのは、南からの侵入をたやすくしようと思ったまで。戦を避けたくば、ニユの月が終わる前にネロウェンと協議するがいい。返答次第で新年とともに行動を開始し、春には本格的にお邪魔する」
流暢につむがれる言葉は、王の耳に入っても、にわかに意味をなさなかった。第一声からして理解できない。自分のことをダナと呼ぶ男。死の神。頭がおかしいとしか思えない。
しかし実際に王はダナなる男の『魔力』に絡めとられて動けずに、声さえも出せずにいる。下手に逆らえば、くびり殺されるだろう殺意も感じる。殺気以外の、強烈な、服従せざるを得ないほど大きな力をも感じられる。王たる自分が滑稽なほど小さく思える。ただ者でないことは確かだった。
「陛下!?」
その時ようやく室内の異変に気づいた衛兵が飛びこんできた。
いや。
男がわざと気づかせたのだ。
王は息を飲み、目を見開いた。
男は気配を隠していなかった。見つかることを目的にしていたように、薄く笑ったのである。王は「来るな」と叫びたかったが、硬直したまま声にならなかった。
空気が歪んだ気がした。
一緒に体も歪んだかに思えた。
ねじ切られたように感じた。
息が止まる。
耳鳴りがする。
視界が発光する。
だが、ねじ切られたのは王ではなかった。
「ぐっ!?」
兵の妙なうめきが、耳にまとわりついた。同時に王の顔にも、何かが貼りついた。飛んできたのだ。どろりとした感触の生暖かいものが、頬をすべり落ちた。
肉片だった。
入室してきた兵士が弾けたのである。
人一人が簡単に、パンと破裂したのだ。彼だったものが部屋中に飛びちり、輝かしい寝室は一気に赤黒くなった。それでも王は叫べず、倒れもできず立ちつくすだけだった。
肉片は、紫髪の男にも付着した。頬に一片、指先に一片。指先のものは、服に着きそうになったところを遮ったものだ。
彼はピッと手を振り、額も指先でぬぐってから、黒のローブを叩いて整えた。もたれていた体を起こし、王の前にすっと立つ。
「あなたは殺さない。『力』のほどをお目にかけたまでです」
殺さないと言われても、近づかれる一歩ごとに体が竦む。いっそ自分で舌を噛みきってしまいたい衝動がぞくぞくと背中を震わせる。だが、それも叶わない。叶わないことが無念だが幸いでもあった。
ダナは王を殺せる距離に立った。首にふれられ顔を寄せられた時、本当に絞め殺されると思えた。が、男は言い残しただけだった。
「あなたの返答を楽しみにしていますよ。ヤフリナ国王ジルニユ7世」
耳をくすぐるささやきに全身が固まった後、気づけば、謎の男は消えていたのだった。しかし彼が残した言葉の数々は、忘れられるものではなかった。
その日からヤフリナは、この事件を公にしてまで真相究明に乗りだしたのであった。本当にネロウェンが攻めてくるというのか。あの男は誰なのか。豪商アリーブエンの死による力関係の変動に対して、対策も講じなければならない。
だからクラーヴァ王都にも話が聞こえてきたのだな、と人々は噂したものだった。
「意外な登場だったな」
という感想を洩らしたのは、クラーヴァ国王イアナザールだった。
「表舞台に姿を現すとは思わなかった」
「まだ表というほどではありませんがね」
床を蹴って歩くイアナザール王の後ろから、側近が合いの手を入れる。城内に響く2人の足音は速く、焦りにも聞こえる。緊急の謁見へ急ぐものであった。
イアナザールはちらりと彼を見たが、何も言わずに正面を向いた。非難された目ではなかった。側近の男ノイエ・ロズは言葉を重ねた。
「出たなら出たで、願ったりです」
「頼む」
ノイエの強がりに、イアナザールが含み笑いを返した。ノイエは、笑えなかった。
エノアらの“転移”は明後日である。行って欲しくない気持ちが強かったが、それこそダナを浄化するためにも早く対応しなければならない。子供のように「怖い」などと言っていられない。すぐ側に恐怖が迫っている。
噂が異常に早い。
聞こえてきたのは先日だった。
ヤフリナに潜り込ませてある密偵からの連絡は先週であり、豪商アリーブエンが死んだこと自体はダナの月の中頃だったというのだ。まだ一ヶ月もたっていない。通常だと他国の噂が国民にまで広がるのには何週間も何ヶ月もかかるし、知られずに過ぎる事件とて数限りないのだ。ヤフリナが情報を公開して調査しているためだろうが、それでも早い。
誰かが意図的に操作したとしか思えない。
ダナが関わっている事件をクラーヴァ王都に広める──。その根拠は読めなかったが、気持ちのいいものではない。もし王都内にダナもしくは、その手の者が潜り込んでいるのだとしたら……そう考えて、震えの走らないわけがなかった。
しかも緊急の使者だ。
こちらは東の国境を含む辺境一帯を治める男爵からのもので、ヤフリナの事件とは関係がなさそうに見える。だが書簡の封印が厳重だったことや、使者の表情がせっぱ詰まったものであることなどから、どこかで何かがつながっていると思えてならなかった。
王と共に入室した謁見室で手渡された報告書には、とうてい信じられないような噂があると書かれていたのである。
「また噂か」
とイアナザールが舌打ちしたのも無理はなかった。
おそらく、これも敵が操作したものだ。
ノイエ・ロズは背を正すと、
「早急に調査隊を編成すると共に、迎撃の準備に入ります」
と、王に敬礼した。一瞬イアナザールは何か言いかけたが、口をつぐんだ。つぐんだのを見て、では、と一足先に謁見室を後にする。迎撃と言ったことを訂正する気はなかった。
ソラムレア国がクラーヴァを襲う、などと。
理由など今はまったく分からなかったが、ノイエには「必ず来る」という確固たる嫌な予感があった。
急いで歩くノイエの頬を、冷たい風が撫でていった。早くしないと手遅れになると言われているような気になる。勝負は春ではない。クーナの月でもない。このニユの月が、来年のクラーヴァを左右する。それとも既に手遅れなのか。
年末最後の月は慈愛の名に似合わぬ冬のニユが、人々に一層の寒さと飢えを与えている。




