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1-6(崩壊)

 だが明るくはない。黒ずんだ紫で、月光だけなら意識しないと分からない。昼間は井戸の水を浴びたせいで、肩まで伸びた髪が艶やかに波うっていた。だが今は拭き取って乾いた。さらりと髪が降りる風情を宵闇の中で眺めると、その横顔は昔と変わりがない。

 おだやかな笑みには、かつての残酷さが見られない。

 先ほどの大きな魔力も、今は断片さえ感じられない。普通の青年だ。昔を懐かしんで友と呼んでも違和感を感じないだろう。自分の記憶がなければ。

 ベランダの縁に腰かけて、片方の膝を立てて肘を突き、庭を眺めているオルセイ。ディナティはそれを室内から眺めている。オルセイがディナティに顔を向けた。

「背が伸びましたな」

 物怖じのない、通る声が室内に届けられた。受けとったものの、ディナティは応じない。窓際にある籐の椅子でくつろぐ姿勢を崩さない。

 かつては絨毯にあぐらを掻いていたが、近頃はこの椅子がディナティのお気に入りである。テーブルに物を置けば、うっかり蹴つまずいたりもしない。

 人払いしてある。ディナティとオルセイしかいない。

 部屋の入り口にはシハムが待機しているし、城中の者が緊迫している。ディナティが連れかえったオルセイに、皆がおののいた。ディナティ自身とて警戒している。ジェナルム戦争を知る者が恐怖しないわけがない。

 なぜ王宮に入れたのですかと、わざわざ少年王に耳打ちに来る愚者もいた。王は、オルセイが聞き流して涼しい顔をしていたのを盗み見て、安堵したものだった。ディナティは皆を半ば無視して、オルセイに着替えを与えて自室に通した。ディナティは自分の配下が、先の愚者のような説明を要する者ばかりではないと信じている。

 と同時に、どう説明すべきか分からないという思いもあった。いくら自分に言い聞かしても、心に根付いた感情は拭えない。良くも悪くも、悪い感情も、良い方も。

 ディナティの心を映したように、椅子の側に這いつくばるグールが低くうなった。

「“オルセイ”」

 ディナティに撫でられるグールはすっかり成獣で、威風堂々としている。あれから何度かジェナルム国に行くたび森に放そうとしたのだが、植生が違うためかディナティに懐きすぎたためか、彼のもとを離れようとしない。

 ディナティもまた、誰にもグールを任せず側に置いているのだから、苦笑せざるを得ない。民が怯えるので近場には連れて行けないが、遠征では同行させる。準備にかかると気配を察するらしく、一緒に連れて行けとばかりに口やかましく吼える。

 可愛くも頼もしい相棒の存在は、ディナティにとって“黒のグール王”という異名と共に、欠かせないものになっていた。

 グール“オルセイ”は怪しい者が王に近づけば、容赦なく吼えたてる。謁見の間に座らせていれば、訪問者の言動が分かりやすくて役に立つ。そのグールが、帰城したディナティの後ろに控えるオルセイを見た時には、すっかり頭を垂れてしまったのだった。

「なぜだ?」

 重い沈黙を解いて、ディナティが呟いた。何げなく撫でようとするのだが、グールの方は主人の心を察して硬くなった。

「ラハウなる魔女がお前を連れ去り、今のお前になったのはなぜだ。敵対した私のもとに来たのはなぜだ。なぜ我らを生かした?」

 せきを切って溢れたディナティの言葉に、オルセイは苦笑したようだった。時折、月がかげってオルセイの表情を見えにくくする。ディナティはそのたびに凝視を余儀なくされる。凝視するたび、ダナとなる前のオルセイが浮かび上がる。

 先の戦で死んだ部下たちや、人形のようだったジェナルム人が思い出されて、胸が締めつけられる。

「なぜだ」

 少年は再び呟いた。

 返答の声音は柔らかかった。

「納得できませんか」

 説明は受けた。ラハウの所業と思惑、オルセイの所業と思惑。今のオルセイは自己の感情を見つめている。ラハウが降ろしたダナ神と呼ばれるものは『力』そのものであり、憎悪の感情そのものだ。

 ダナの意志とは、人格ではない。

 ──納得できるわけがない。

「神はおらぬと言うか」

 受けいれれば、自分の人生観のみならず国の常識も、歴史に記された言葉さえもが変わってしまう。今まで、ずっと創始者7神と創造神ファザの加護によって栄えてきた世界なのだ。

「西の大陸より魔法がない分、信心も希薄かと思いましたが」

 否定しない。

 神がいないと言いきったディナティを否定しないオルセイに、ディナティの方が戦慄した。なら目前の男は何者だというのだ。身の内から震えが湧きあがるほどの『力』を見せつけられて怖がるなと言われても無茶である。

 だがディナティはオルセイの話に一つだけ賛同できた。

 ダナというものは憎悪の感情そのものだ。

「では俺が神だという前提で話しましょうか?」

 オルセイはベランダに乗せていた足を下ろして、ディナティに体を向けた。背後に広がる庭はすべて王だけのものであり、誰もいないはずである。なのに夜のためか、何かがうごめいているような錯覚を覚える。庭の闇もひっくるめて、オルセイから目が放せない。

「ダナは憎む心、殺したがる心に宿る。それは同時に生きたがる心だ。降りたダナが不完全だったのはラハウがダナを御しようとした画策だが、石がジェナルムに落ちたのは、ジェナルムに憎しみが満ちていたためだ。俺は、ジェナルムの民を殺したか?」

 殺さなかった。

 今さらながら、そうだとディナティは思った。ダナは狂った軍勢を作ったが、彼らは死人じゃなかった。

 ソラムレア国に迫られてネロウェン国に組すると決めた小国が、次々に入ってくる軍人を歓迎していたわけがない。物資が奪われ、生活もおびやかされる。それは承知していたつもりだったし、だから無理に侵略して互いに傷つくことを避けた。それが人道的政策だと思っていたのは、大国の思い上がりだったのだろう。対等ではなかったのだ。

「石に憑かれたのがダナザ王だったのは、守護神がダナだったことと、憎しみの大きさゆえ……なのか」

「で、ありましょうな」

 オルセイは口調を戻して、敬語を使った。かなり砕けた、親しみを感じる声音である。

「王族に宿る魔力の大きいためか、業が深いためかは知りませぬ。山育ちで貴族の号すら持たない男が神と呼ばれたり、魔道士になったりもするのですしね」

「魔道士?」

 ディナティが聞きなれない名詞に眉をひそめ、オルセイは「ああ」と少し頭を下げた。

「ご存じないのでしたな」

「耳にしたことはある。魔法使いより強大で、姿を見た者は必ず死ぬと」

「怖いことだ」

 オルセイは何かを揶揄するように、苦笑した。ディナティは、見たことがなく実在すら不明の魔道士などより、オルセイの方がよほど怖い存在だろうと思ったが、口にするのはやめた。言うだけ馬鹿らしい。

 ディナティは言葉を換えた。

「お前が私のもとへ来たのは、私に生への欲望と憎悪があるためか」

 ディナティの口調は疑問でなく肯定である。自嘲の笑みと共に出された言葉に対して、オルセイは「御意」と満足げに頷いた。内心ほぞを噛んだが、顔に出すわけには行かない。

「誰しもが持っているものですと言えば、腑に落ちましょう。だが国を背負った王の憎悪は、ご自分でも御せぬほどに膨れあがる。民を思えば思うほどに熱くなる。真面目であるほど、つぶされる」

 若き少年王の懐に入りこむような易しい言葉がかえって耳障りで、ディナティに苛立ちを与えた。顔色を計りながら、死の神は追い打ちをかける。

「国の重さを我らは知らぬ。王の責など負えぬ。だから崇めて、たてまつる。ご自身をまだ人であるとお思いか?」

 ギリと音がして、口に苦い味が広がった。

「……何が言いたい?」

「あなたが望む“同等”は生涯、得られぬ」

 瞬間ディナティの脳裏に、出会った頃のオルセイが思い出された。自分を助けてくれてマシャと一緒に過ごし、『男の頼みだ』と言ってマシャを預けて行った友。おだやかな笑みと少ない言葉だけで少年王を見守ってくれた男だった。

 その男が、ベランダから降りて、こちらに向かってくる。まっすぐ、ディナティから目をそらさないでいる。

 声を出せば、控えているシハムが飛んでくるはずだ。けれどディナティは口を引きむすんで、徐々に大きくなるオルセイを見ていた。見ているうちに立ちあがっていた。

 グール“オルセイ”が姿勢を低くしたようだと悟り、ディナティは彼の背を撫でて下がらせた。グールはしゅんと耳を垂れて部屋の隅に行き、ちょこんと座った。が、表情からはまだ警戒の色が解けていない。

 グールがオルセイに飛びかかるとは思えなかったし、オルセイがグールを傷つけるとも思わなかったが、万が一何かがあっても困る。かつてオルセイはグール“クリフ”を殺した。

 ディナティの前に立ったオルセイは、大きくなったグールを見て、目を細めた。

「狩りどきに育ちましたな。つぶせば何かと役立ちますぞ」

 グール狩人としての言葉だろうが、ディナティには甘受できなかった。グールなる動物に接する機会もなかったし、グールを食べる習慣もない。懐いてくるものに対してこちらも愛着が沸いたものを、おいそれとは殺せない。

 想像してみるが、まだ実行ができない。自分にグールしかおらず目前に飢えた民が数人いて死にかけているという想像は、すでに仮定ではない。目前に突き付けられていないだけで、もはや現実だ。

 少年王の視線が険しくなったのを受けて、オルセイが肩を竦めた。

「あなたは、そういう道を歩む方でしょうに」

 呆れたような声音が何を言いたいものなのか、ディナティはよく知っている。言いかえさんと、口の端を歪めた。

「井戸を掘りに来てくれたのではないようだな」

「水の気配が読める場所なら。ですが問題の根は、一滴の水で潤うものではなくなっています」

 現状は把握しているらしい。

「私に取り入って、お前は何を望むのだ? 神話の通りならば、世の滅亡を望むということになるのか? ネロウェンをもつぶして?」

「流れなら」

 部屋の隅で、グールがうなった。

「人々の心に棲まうダナが育ち力を得るならば、相手を排除しにかかるでしょう。服従させんとするでしょう。魔力に食われれば、果てにあるのは死と荒廃だ。律する者だけが生き残る」

 オルセイは右手をすっと上げて、ディナティの胸に差しのべた。まだオルセイの方が高いが、ディナティの背が伸びたせいか、オルセイが、以前に彼を見た時よりも近く感じられた。

 ディナティは分からなくなった。

 以前の方が優しい目をしていたが、弱くはなかった。今の方が力も強く、ダナを内に秘めて残忍であろうはずなのに、弱く、近く感じられるなんて。

 ディナティはそう思いながら、オルセイから差し出された手を見おろした。

「俺だけが、お前と同じ目線になれる。ディナティ」

 神とおぼしき力を持つ男。

 憎しみにかられる男。

 オルセイの髪は、すっかり紫色だ。

「それとも、こちらですか?」

 言いながらオルセイは顔色を変えずに、手を引いて腰を落とした。ひざまづく気なのだ。薄く笑ったままの顔には何の感情も見えない。見えないはずなのに、ディナティの心に何かが響いた。

 響いたのと手が伸びたのは、どちらが早かっただろうか。

 すぐにオルセイを引っぱり上げていた。乱暴に。

 膝が汚れる前だった。

「教えろ」

 ディナティは自分を抑えて、固い声を出した。

「お前は食われた者か?」

 それに答えなければ手を放さないとでもいうように、ディナティは手に力を込めた。手の平から自分の心を読みとってもらえるなら、読んで欲しかった。オルセイは一瞬だけ笑みを消して、また元に戻った。

「そう見えますか?」

 あくまで選択させる返答しかよこさないオルセイに、顔が歪みかけた。が、ディナティは決意した。手を揺らし、ぐっと握りなおした。ならば選んでやると思いながら。固い握手が交わされた。

 先の長い生涯を見ても、もっとも恐ろしい契約に違いないだろう自覚は、あった。

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