1-5(苦難)
ネロウェン国からクラーヴァ国までは、普通の渡航なら5週間以上かかる。この世界では約一カ月となる。
給水や船の点検等で、ヤフリナ国に停泊するためだ。外海を通らずソラムレア国に沿って航海すれば、日程は倍かかる。
ネロウェン国からヤフリナまで3週間。ヤフリナからクラーヴァまで、さらに3週間。嵐や故障などの事態を見越して余分に一週間を見る。聞くところによるとネロウェンの使者はヤフリナにすら寄らず、4週間でクラーヴァ国に来たらしい。
天災に遭わなかった運もあろうが、それほど急いでいたのだということが、よく分かる。物資を求めるなどという赤裸々な願いを一国の王が出すのには、相当の決断が必要だったと推測できる事態だったのだ。
『手土産ていどは持たせたが、ネロウェンが求める物資は我が国には用意できかねた。我々も窮地に立たされているのだ』
というのが、断ったイアナザールの言い分だった。王都から地方への還元政策を採っているほどなのだ、イアナザールが愚かな王だとは言えまい。共倒れになるわけに行かないという現実的かつ正直な対応だ。手土産を渡しているだけ良心的だろう。
イアナザールは冷たい言い方をしたが、彼の対応は決して言葉通りではない。一国の王が相手国に対して見せる誠意だ、断ったと言っても使者の立場をおもんぱかったものを揃えているし、クラーヴァの現状も隠さず伝えた。下手な細工でネロウェンを惑わす気はなかった。それほどネロウェンが追いつめられているらしいというのは、使者の様子からも読みとれたのである。
ただでさえネロウェンは、去年の頭まで続いていた戦争によって国力を削られている。
損害の大きかった事件は、当然、ダナ神によるジェナルム国の反乱だった。国王軍600人だけで迎え撃つことになったのは大きな悪夢だったが、結果的には幸運だった。それ以上の軍を投入せずにジェナルム国を手に入れ、国境の駐留軍を引き揚げさせることができたのだ。
ところがネロウェンは、ジェナルムの富を手に入れたと同時に民も手に入れたことで、政治の難を強いられることになった。ただ富を吸いあげるだけというわけに行かない。ネロウェンからジェナルムに移住したがる民も後を絶たない。北にあるソラムレア国との関係も、対策を講じなければならない。
ジェナルムとソラムレアの国境にネロウェン国軍が警備兵を置いて防御していたほどである。大国2国の和解には、今なお相当の協議が設けられている。
そのような国が荒れた状態の中、2年続けて土地が乾いたのだ。
後の歴史書には『ネロウェンの大干ばつ』と命名されている。
砂漠と共に暮らす民にとって、死の宣告を受けたも同然だった。
「助けて……」
荒野の真ん中で、女が死にかけていた。
戦争に出たきり戻らない夫を見限り、食糧の尽きた村を見限って王都に向かおうとしている女だった。腕の中には乳飲み子がいる。だが乳など、この夏からずっと出ていない。早春に生んだ最初のうちは飲ませたこともあったが、そのうち絞っても出なくなった。悔しくて悲しくて、自分の乳房をもんだり叩いたり、しまいには切り刻もうとすらした。
今はそれを止めてくれる者もいない。女の絶望も底に達したので、そろそろ乳を刻んでもいいかなと思ったりする。
飲ませられるなら、例え血でもかまわない。
女は血すらも出てこなさそうなほど、枯れ木のごとく痩せ細っていた。
連れていたゴーナも倒れて肉片になった。赤ん坊はゴーナの乳で生きのびていたというのに、それも手に入らなくなったのだ。砂漠の大国を女の足で渡ろうとするのは、あまりにも無理があった。いかに体を売ろうともまかないきれないものが積みかさなってしまった。
蜃気楼を浮かべて揺らぐ地平線には、実際にはまだ何もない。王都はあまりにも遠かった。なのに、女をあざ笑うかのように浮かぶ幻影には、ディードム・エブーダが建っていた。5つの丸い屋根を持つ“太い長老”、ネロウェン国の100年王宮。
女は一度だけ本物を見たことがある。小さな頃、王都の近くに住んでいて、父親が娘の誕生日にと奮発して見せてくれた光景だった。女にとって大切な思い出であり、古き良き時代の一片だった。
息子に同じ光景を見せてやりたいという思いもあった。実質的に、王都に行けば助かるだろうという望みも持っていたが、楽しかった思い出の地が生きる勇気をくれるだろう気もしたのだ。
女の脳裏でも、思い出が蜃気楼のように揺れている。
「この子は、死ぬために生まれたのですか……?」
誰にともなく、女は呟いた。
目からは涙も出てこない。出てくるなら、女の涙は喜びをたずさえて赤子の口元にあてがわれよう。女の腕におさまる命は、もはや肉塊に変じようとしている。いや、肉でもない。骨と皮ばかりの小さな小さな生き物は、そうと言われなければ赤ん坊に見えないほどだった。
女の後方から、ゴーナの足音が聞こえた。
気のせいかも知れないと思うとふり向けなかったが、女の顔には生気が戻った。音は徐々に大きくなる。間違いない。しかも一頭じゃない。複数のゴーナが段々と近づいてくる。
助かったのだ!
女は、がばっと身をひるがえし……その場に倒れそうになった。
「すべて差し出せ」
ゴーナはすでに間近に迫っていた。女の顔に影を作り、見おろしていた。いかつい表情の男ばかりが埃にまみれた格好で彼女を睨み、そして、手には円月刀を持っていた。
わざわざ街道を避けて隠れるようにして旅していた女のことを、盗賊は見逃さなかった。今やネロウェン国のあらゆる村や町、街道に盗賊がひしめいている。兵だった者も少なくない。報酬が生活に追いつかなかったのだ。ソラムレア国との戦いは終わったが、東にも国がある。
だが東の国境では、戦いよりも物乞いが多かった。元々、東の貧困に耐えかねた人々が砂漠を渡り、ネロウェン国を築いたのだ。そこから流れてくる人々は勇ましい軍隊よりも貧しい流浪人だった。ネロウェンの貧窮は深まるばかりである。
すべて、などと。
今の女には、2つの命しかない。
「お許し下さい、お助けを……」
力なく首を振る女の胸から、ゴーナを降りた男たちは荒々しく赤ん坊を掴みあげた。赤ん坊が、首が座っていないかのように、ガクンと揺れた。
「今日は柔らかい肉が食えるぜ」
下劣な笑い声がさざめいたと同時に、女の絶叫が突き抜けた。女は生きかえって暴れ、猛然と男たちを殴った。しかし、か細い腕から振るわれる拳は、これっぽっちも男たちに痛みを与えない。
「やめて!! その子は、その子だけは……!」
「ならば」
男の一人が小さく呟き、自分のマントを脱いで赤ん坊に巻きつけるではないか。「ああ」と女が感嘆のため息を洩らした。
しかし、男は赤子をその場に置くと、代わりに女を担ぎあげた。肩に乗せられた女はあまりに軽く、勢いで反対側に落ちそうなほどだった。女は悲鳴を上げた。自分が女だったことを思い出したような艶のある叫声は、まだ若々しいものである。すぐに猿ぐつわを噛まされた。
「“その子だけは”だろう?」
男らは、またどよめいて笑い、女と荷物のすべてをゴーナに積んで走り去った。
それまで眠っていたのか、死んでいるように静かだった赤子が、母親から引き離されたことを悟ったのか、泣きだした。血を吐くような母子の絶叫に眉をひそめもせず、盗賊たちはゴーナを進めた。
「まだ泣けるなら、生きのびるかもな」
男の呟きに抗議してに女が暴れたが、彼女を担ぐ男も周りも、気にしない。彼らとて荷を得たことは、命が延びる幸運だったのだ。久しぶりに夢が見られるし、売れば金になる。
砂と岩の中にポツンと、ふぎゃふぎゃと泣く赤ん坊だけが取り残された。
だが、しばらくすると声もなくなった。
それでも生かされただけ母子は幸運で、男たちは良心的と言えるかも知れない。
違う村はすでに死に絶え、また別の村では人が人を喰うにいたっている。ある意味では神聖な行為でもあった。供養の心を胸に抱いて、感謝をしつつ口にする。
――荒れていようが優しかろうが、どちらにしろ壊れている。
壊れている、と感じたのは誰あろう、ネロウェン国王である。ディナティ王がそう思えるのは、彼がまだ飢えていないためかも知れない。
彼は毎日欠かさず人に会い、午後には警護の者と施しに出かけた。王みずからが民に顔を見せるのは良くないと重臣連中は諫言したし、本音を言えばディナティとて悲惨な光景ばかり目にするのは気が滅入る。だが滅入るからと言って部屋に閉じこもっては自分がおかしくなってしまうと、ディナティは本能的に知っていた。
少年王は歯を食いしばって国を守っていた。
各国への伝令を待つ間もジェナルム国を平定して食糧を分け与え、難民用の村を作り、政治に勤しむ。隣国とは、やっと条約を取りつけ、ニユの月にソラムレア国の女王と会う算段もしたところだ。去年に一度会ったきりの少女だったが、覇気のある目が印象的だったと記憶している。
確かまだ15歳だ。自分と同じで、さぞ立場をもてあましていることだろう……などとディナティは自嘲した。ソラムレア国女王ユノライニも、少女王などと呼ばれていると聞く。
共に生きることができるか、それとも奪うことになるのか。
切り札も持っている。ディナティは会見に賭けていた。
「ディナティ陛下」
慣れ親しんだ低い声に、ディナティは顔を上げた。
今日は井戸を掘っていた。ディナティは穴から引きあげられた土を受けとって捨てる作業に従事していた。
地盤の硬い方が掘りにくいが、砂に埋もれない。鋭く尖った岩を落として土を軟らかくして、穴に潜り、掘るのだ。岩を縄で吊り上げて落とす作業も、掘る仕事も、ここ何日も続いていた。
ディナティは、かたわらに付くお供が口うるさいせいで、穴の中には入れない。だが受けとった土を人力車に積みこむだけでも、かなりの重労働だ。日に一時間ほどしか参加できなかったが、民の存在を近く感じられるので、ディナティは毎日汗していた。水が出れば何かが変わる気もして、自分のために働いているところもあった。
民は皆ありがたがったが、同時に萎縮していた。いくら掘っても水が出ないことに誰もが苛々していたし、不安も募っていた。充分な食事を摂っていないので力も入らなくなってくる。
この日も夕暮れ近かったが、まだ土が黒くにじんで来ない。
「お時間です」
彼の名を呼んだ従者が、再び声をかける。全員の顔が暗くかげって見えるのは、夕陽が赤いせいではないだろう。ディナティは民を励ましたいと思ったが、自分の口から出る下手な言葉は皆に反感を植えつけかねない。税徴収の張本人だし、王都に入るだけでも人は入都料を払わなければならない。
側近の男もそう思うたびに王の外出を規制しなければならない気持ちになるのだが、結局、禁じられない。この外出が王を慰めていると分かるためだ。18の少年が背負うには、今の窮地はあまりに重い。
側近として彼に付きそう右大将シハムエラは、一心不乱に縄を巻く少年の背に、柔らかいため息を吹きかけた。
作業をしていた者たちが、おずおずと王の名を呼ぶ。帰りを即す。それから、ようやくディナティもシハムエラに向きなおる。
「すまない、シハム。行こうか」
ふり返ったディナティは16の頃から、なおも背が伸びていた。下手をすればシハムが彼を見あげている。国中を駆けまわって盗賊の討伐にも出かける少年王は、背にかかる長い黒髪を一つに束ね、一兵士のように貧粗な格好をしている。マントも着けない。多少痩せたようで、楕円の瞳に幼さが残っているものの、武張った顎やすっきりとした頬などには男臭さが漂っている。
「会議に遅れますぞ」
「俺が遅れている間が、大臣どもには陰口を叩く有意義な時間になるであろう。構わぬ」
そう言ってニヤと笑うさまは、やんちゃな子供のようだ。嫌味のない笑顔が人を惹きつける。
質素な格好であっても、にじみ出る風格は明らかに王者としての成長を遂げている。貧困にあえいでいるのは王都の中でも同じだったが、ここにはまだ“希望”があった。
明日には水も出るだろうと思わせられる。
思わせるのが王の役目である。シハムはひそかに「ディナティ様は良い王になられた」と思っていた。世が世なら、もっと光り輝いていても良いお方だ。
井戸の周りにいた者たちが全員、王の帰城に対してひれ伏した。皆の頭にねぎらいの目を向けながら、ディナティは弱音を吐いてしまった。
「明日には水が満ちるであろう」
弱音には聞こえない語調だったが。
するとその時、ディナティの言葉が終わったすぐに、別の声が続いたのだった。
「今日、見たくはありませんか?」
明らかに、王に向かっての言葉だ。だが敬語なのに、声音が嘲笑を含んでいる。皆が色めきだった。
けれど顔を上げることはできなかった。
つい先ほどまでは何も感じなかったのに、不遜な声が響いた途端、辺りの空気がズシンと重くなったのだ。息が苦しくなり、胸が締めつけられた。魔法を身近に感じたことのない者ばかりだったのに、皆が『魔の気』にすくみ上がっていた。
ディナティは魔力を知っている。力のほども、自分がそれを感じる体であることも知っている。
600人の自軍に向かってきた2000の民を狂わせた大きな力。忘れるわけがない。あの『気』が、空気を凍らせていた。
皆が頭を下げたままでいる中、少年王だけがその者を見ていた。ひれ伏した人々の向こうに、平民のような男が一人、立っているのである。貧粗な格好をしていてもディナティが王者であるのと同様、その男もこの上なく平凡な格好であるにもかかわらず、誰もが畏怖してやまぬ力を放出していた。
放出。
だが、どれほど抑えられている放出だろうか。
2年前ほんの2~3週間しか見ていなかった顔だ。再会した時とて顔を見あわせることもなく、遠目に眺めただけだった。けれど一生忘れられない、体の芯にまで染みこんで離れない戦慄を味わわされた。今でも克明に思いだせる感情だ。
知らず、ディナティは拳を握りしめていた。歯を食いしばっていた。
人をはさんだ向こう側に立つ男との距離はかなりあるはずなのに、まるで鼻先に息をかけられているような近さに感じられた。何者だと問うまでもない。記憶に深く刻まれていて、努力せずとも思いだせる名前である。けれど声が出せなくて言葉がつむげない。ディナティのかたわらで、右大将も凍りついていた。
「何をしに来たのだと言いたげですな」
当然だ。
放っておいても数日で死にたえてしまいそうな人々のことを、あざ笑いにでも来たのかと思ってしまう。悠然と構える死の神には焦燥感も殺気も、何もない。そういう意味では、以前に一度であった冷たい彼よりもずいぶん人間らしくなった。ただし、あの頃よりも『力』を自在に使いこなしているような、不思議な余裕を感じる。
男が両手を広げた。
手の動きに合わせて、地鳴りがした。
皆が悲鳴を上げて慌てふためき、ディナティも目を見開き、シハムがやっと「貴様!」と声を出した。腰の剣に手をかける。おかしなものだ。男が手を上げたことで大地が揺れたと、疑っていないのだから。
一度なら偶然だ。だが井戸から噴き上がった水が男の所業でないと言いきるのは、難しい。皆のそばに空を洗うかのような水柱が立った。頂上から勢いをなくした水が落ちて、皆の上に降りそそいだ。
人々の悲鳴がおののきに変わり、次いで歓声になった。皆の頬にかかる水が、涙と入りまじった。
男がゆっくりと手を降ろす。
誰かが「ダナ様」と呟いた。他の者も次々に男のことをダナと呼び、彼に向けて膝を折っていく。背後にディナティがいるというのに、だ。
人々が彼を「ダナ」と呼ぶのは、もはや恐怖してのことではなかった。死をもたらす神としてでなく、死の時まで生を見守る神として見ているのだ。
「俺は強い者に惹かれる。強く、生を望む者に」
井戸から湧きあがった水を背景につむがれた言葉には、説得力がある。斬りかかりなどできない。いや、シハムが刀を抜いていたら、どうなったか分からないだろう。
皆に迷いなくダナと呼ばれた男オルセイは、今や迷いようのなくなった鮮やかな紫髪をかきあげた。