1-3(本題)
空が高い。
そう言ったら「空が高いのでなく、雲が高くなったのですよ」と笑われた。
妙なところで堅苦しい后も考えものだと思いながらも、クラーヴァ国王が結婚をまったく後悔していないことは誰の目にも明白である。彼は晴れやかな顔に汗をしたたらせて、空を眺めていた。首にかけた手ぬぐいで汗を拭く。杖にしていた鍬を地に横たえる。足元に広がる畑は冬への準備で、豊かな葉に栄養を蓄えている最中である。
2年たった。
正確には一年と半年。もうすぐダナの月になる。豊穣の秋に流れる風は少し肌寒く、イアナザールにくしゃみをさせた。
「朝っぱらから。風邪をひかないで下さいね、ザール」
国王のことをそのように呼べる人物は一人だけだ。あいかわらず柔らかな物腰の彼女に、若きイアナザール王は苦笑せざるを得なかった。妻というより母のような彼女の口調に、いつもイアナザールは勝てない。
「多少ひいても、国一番の魔法師が治してくれる」
ねぎらいなのか、からかいなのか。分からないことを言って、イアナザールは畑から出た。土を払い、服を整える。どれほど整えても彼の格好は一国の王にならなかったが、そこは間違いなく城内の裏庭であり、彼らは国王と王妃だ。
魔法師と言われた王妃は肩を竦めて微笑んだ。
「国一番であれば、彼女を呼んで来なければなりませんわ」
「お前ではないと?」
「今度、新年祭で魔法合戦をしたいくらいには悔しく思っているのですけれど」
と言いながらも、さほど悔しそうではない。きっと王妃が口にした“彼女”なる者が鮮やかな紫色をしていて、かの者の妹君であるせいだろう。この一年半でめきめきと上達してしまった彼女の『力』に文句を言う者は、今やクラーヴァ城内には誰もいない。いても、この国王がそれを許さない。
イアナザールは「では国2番か」と言いかけたが、思うところがあってセリフを飲みこんだ。表面上おだやかに微笑んでいても、愚問は許さぬ妻である。脳裏にもう一人の強力な魔法師が浮かんだ以上、くだらない合いの手はやめた方がいいだろう。
イアナザールは会話を打ちきって、王妃が畑に訪れた理由を尋ねた。
王妃リュセスはイアナザールに道をうながし、その後ろを歩きながら報告した。
「今日、もうすぐ彼らが戻ります」
「魔力を感知したか」
「はい。リニエスが」
リュセスの返答に、イアナザールはやはり余計なことを言わなくて良かったと思った。かつて国一番とうたわれたリュセスの力は、2人の娘らにすっかり凌駕されてしまったらしい。紫髪の娘もまだ19歳だが、リニエスにいたっては先日12歳になったばかりである。国を担う魔法師ジェマとたたえられていたリュセスの心境はいかほどだろうかと思うことがある。
だが今は違う意味で国を担わせている。
張本人であるイアナザールは妻をいたわるように、ふり向いて微笑んだ。
「今回は3ヶ月……ほとんど半年だな。凱旋するイアナの戦士を酔いつぶさせてやる」
「ザール」
子供のような言動の国王に、王妃は呆れるばかりだった。
澄みきった空を後にして正面玄関をくぐると、すぐに広間が現れる。去年の夏から、クラーヴァ城の広間はちょっとした聖域となっている。誰もが足を踏みいれることをためらう、巨大な魔法陣が描かれているからだ。
魔法陣は描かれている文字一つ一つに『力』を秘めており、王都全体を包んでいる。そこにいる、ある人物を守るためのものだが、魔法を使う者の補佐もしてくれる陣である。
今まさに“ある人物”は陣に座し、魔法を行使しているところだった。向かいにはリニエスという12歳の少女が座っている。リニエスも赤紫の髪をしているが、先ほどリュセスが“国一番”と指したのはリニエスではない。
青みがかった紫の髪。
去年、肩で切りそろえた髪だったが、伸びて、今は肩胛骨の辺りでゆるやかに波うっている。前髪も伸びたので額を出し、後ろにふうわりと流してある。長さが整ったため以前よりも女性らしさを増した。が、増した理由は髪ばかりではないだろう。指先を合わせてあぐらを組む姿には決して威圧感がないのに、誰も寄せつけないような崇高さが漂っていた。心なしか肩に乗る醜悪な鳥すら、気高い霊鳥に見えてくる。
彼女のことを詳しく知らない騎士が結婚を申しこんだとか何とかいう噂もあるほどだ。本人は何も変わっていないと言うが、彼女の変化に気付かない愚鈍な者がもしいるとすれば、それはこれから円陣に現れる予定の男ぐらいのものである。
誰かがラウリー様と呟いたが、彼女の耳には入っていない。そんな誰かを周囲が制する。広間の魔法陣には計18人が取りまいていた。魔法師と魔法使いが12人、大臣と侍女が4人。それからリュセスとイアナザールである。本来なら魔法を使う者だけで部屋を閉め切りたいものだったが、それを納得しない輩がいるので仕方がない。ラウリーらも大人数には慣れたので、今のところ悶着はない。
この広間での転移を、6回おこなっている。
それでも今回は3ヶ月ぶりである。約半年。久しぶりに察知したエノアの『気』に合わせて術を練るのは、集中力を要する。娘らの額に、秋にもかかわらず汗が浮かんでいた。
送りだす時だけでなく迎える方も、気を合わせれば補佐ができると分かったのだ。陣の気を強くすることで、呼び込みやすくなる。
このように──。
ラウリーがそっと目を開いた。次いでリニエスも術をおさめた。周囲も手をほどき、広間に満ちていた緊迫した空気がやわらいだ。イアナザールが息をつく。
陣の中央に、2人の男が出現していた。
黒いマントの男と、黒髪の男。エノアとクリフである。エノアはマントに顔を隠していて去年から変わらないままに見えるが、クリフの方は髪が伸びた。それを青い組み紐で束ねてある。髭をたくわえ、黒く染めた姿。さすがに皆、見慣れた。本人も、かつてより馴染んだようである。薄汚れているが、充実した筋肉が服におさまっている様子には生気がみなぎっている。凛とした赤い目が、紫髪の娘を捕らえている。
紫髪の娘、ラウリーは魔法を終えて疲れていたが、顔色はさほど悪くない。頬が染まって、色がいいように見えているだけかも知れないが。ラウリーはクリフを見あげて肩から緊張を落とし、微笑んだ。彼女の目に映るクリフは、半年たっても変わっていない。
「成果はなしだ」
誰かが何を言うより早く、エノアがイアナザールに報告した。毎回戻ると開口一番に言うことになっている。聞きなれた言葉になっていたが、さすがに今回は声が上がった。同席していた大臣である。
「3ヶ月も待って、その一言とは」
全員がそちらを見たが、大きな体を揺らせて怒る男の抗議は止まらない。
「常に死の神がラウリー殿を狙っているというのに置いてやっているのだ、一度の旅で何か一つは得なければ。得たのはライニ神の水瓶一つ。この半年どこで何をしていたのだ。それだけじゃない、今までの時間はすべて……あ……」
わめいていた大臣が、はっと固まった。周囲の空気が若干、大臣に対してトゲを持ったことを感じたのだ。だが、それは彼の察しが良かったからではない。エノアが、ほんの少し『気』を強くしたからだった。
ほんの少しだけ。
見てもいないし、フードからは顎すら見えない。
が、それで充分だった。
エノアの魔の気は、魔力を持たない者でさえ畏怖させる。普段は存在していないかのように気配を持たないエノアなのに、ただの小うるさい大臣に力の片鱗を披露する辺り、やはり年月を感じさせる。俗世を分かってきたなぁなどと思ったのは誰だったか。
「国の情勢で分かったことはある。今すぐ上告しましょうか?」
中途半端な敬語はクリフのものだ。イアナザールにでなく大臣に向けて言葉を発したので、粗雑になってしまった。イアナザールが助け船を出す。
「いや疲れているだろう。今日はゆるりと休め。明日の昼すぎ、正式に招集する」
国王はそこで初めて言葉を切ると、さっさとその場を後にした。他の者らも広間から消えはじめた。エノアもするりと退室し、リュセスとリニエスも一緒に広間を後にする。リニエスは昔と変わらず表情に乏しいが、久しぶりに彼女を見たクリフなどは「少し穏和になったか?」という印象を持った。そのていどには雰囲気が変わりつつあるらしい。
「立てるか?」
クリフがラウリーに近付こうとした時、さっそく鳥が羽ばたいてクリフにちょっかいを出した。こうなると先ほどまでの霊鳥たる威厳など、みじんも残っていない。
「やい、手前がふらふらしてる間に、ラウリーには新しい男ができたぞ」
「……ラウリー、こいつ締めていいか?」
ラウリーが笑った。
「駄目よ」
世界で一番醜いと言われている鳥ケーディの、おそらく世界でただ一羽、人語を解する鳥ケディである。醜さと比例して、毒舌ぶりも世界一と言っていいだろう。おかげで毎回クリフは、ラウリーとまともな再会の挨拶をしたことがない。
ケディの言葉をうとましくは思っても、苛立ちには感じない。
嘘だと分かるからである。
だがクリフはそれ以上近付かず、ラウリーが立てると見るや広間の出口に向かう。後を追ってラウリーが退室する。会釈を受けた広間に残る魔法師たちは「ラウリー様、あいつのどこがいいんだろう」と思ったに違いなかったが、当のラウリーが幸せそうな顔をしていたので何も言えなかった。
ぶっきらぼうで小汚い、無精髭の剣士である。おまけに旅三昧で、城に一番長く滞在した時でも3週間だった。確かに事実だけを並べていくと、彼氏にしたくない度が上がる。
だが先にどんどんと歩いていくように見えて、実は2人の距離は変わらない。廊下から人通りがなくなってくると、いつの間にか距離が縮まっている。そういう男なのだ。なのだということを自分だけが知っているのだという気がして、ラウリーは「あいつのどこが」と言われるたびに誇らしさを味わう。
ラウリーの部屋に着いた時にふり向いて「じゃあ」と手を挙げる仕草すら、何やら嬉しい。長衣の裾をつまんで歩いていたラウリーは「あれ?」と首を傾げて微笑んだ。
「今年のラタ・ティーができてるのよ。春に出かけたきり、飲んでないでしょ」
扉を開けて、中へうながす。そこでやっとクリフは「じゃあ」と反転する。儀礼的にもなっている2人の、毎度のやり取りである。そしてケディは入室しない。くえーと鳴く声は、どこか呆れているようにも聞こえる。
扉が閉まると同時に、クリフがラウリーを引きよせるからだ。
「ラウリー」
低く小さく呟いた言葉が終わるか終わらないかのうちに、その口はラウリーの唇と重なる。痛いほどに抱きしめられてラウリーも彼の背に手を回すと、ようやく『お帰り』と思うのだ。
「お帰りなさい」
胸に頬を当てて、ラウリーが言った。ただいまとクリフも返す。長い間会えなかった空白は、この一瞬ですべて埋まる。ある意味、だからこそ常に新鮮でいられると言えるかも知れない。
一年半を経て一層このように仲が良くても、2人がまだ体の契りを交わしていない、それも原因かも知れない。互いが、特にクリフが望んでいないわけがなかったし、娼婦も堕胎も避妊も存在しているし知っている。が、なるだけなら避けるべき事態であることも知っている。高い技術もないしロマラール国の風潮からして、ラウリーを抱くことはためらわれる。故郷を離れて2年、親の許しを得ないままの結婚はあり得ない。
しかし故郷に帰ることができないかも知れないと思うと、王都内に家を設けて子育てしてもいいかも、という甘い欲望も頭をよぎる。エノアが描いた魔法陣の効力は王都全体に及んでいる。ダナ神と化したオルセイの魔手は、この一年半ずっとない。
家にいることの方が少ない父親では、子供たちが可哀相かなとも思うが。
クリフがそう思っていることをラウリーも知っている。半年前に帰ってきた時、クリフがラウリーに言ったことがあるのだ。
『孤児が多いんだ』
自分たちの村では大人が率先して子供らを引き取っていたし、ロマラール王都にある孤児院もそんなに大変だとは聞かない。が、コマーラ家に引き取られなければクリフだって孤児院に入っていただろうし、去年2人が世話になった“ピニッツ”の連中にだって孤児が多かった。
世の中には、もっと溢れていたのだ。
いくらエノアの加護があっても、旅には危険がともなう。神の媒体は人のいる場所にばかり存在しているわけではない。ライニの神具は海の底に沈んでいた。船を手に入れて、かの地へおもむき水瓶を引きあげるまでの苦労は、それで歌が一本できそうなほどだ。
村々の現状を見るに見かねて手を出したりなどするのも、旅が延びる理由の一つだった。涸れた土地に井戸を掘ったのはライニの水瓶に水を入れるためだったし、鉱山にもぐり込んだのは盾作りの名人が捕らえられていたからなどと、間接的に媒体探しに関係のあることばかりだったが……そうは言いながらも、死にかけた者を救うための言い訳だったのかも知れない。結局、手に入れたのは水瓶だけだ。ダナの盾もナティの媒体も、オルセイもラハウも見つからない。
魔道士エノアは冷徹なのか仁愛なのか分からない。
人を駒にするし見捨てるし、殺す。なのに助けるし、全体的な一連の行動は人のために見える。どこに基準があるのか分からないが、生かそうとはしてくれているらしい。クリフ自身も最初こそ殺されかけたり見捨てられたりと色々あったが、旅の中ではエノアに救われることも多かった。クリフが役に立つからという理由だけかも知れないが。
今の状態が特別なことでなく一生続くのだとしたら、逆に今のままではいけない。いつ死ぬかも知れないというのは、どんな生活にも言えることだ。
クリフはラウリーを一層、抱きしめた。
「ラウリー……もし……」
言いよどみ、言葉が消えた。
脳裏に浮かぶオルセイの姿が、クリフの思考をさえぎる。それが分かるかのようにラウリーは続きを即さず、笑みを浮かべた。
「お茶、いれるわ」
「あ」
手をほどかれると、捕まえておきたくなる。3ヶ月も不在にしておいて身勝手なものだ。だが止められない。ここに帰ってくることを支えに旅立っていると言っても過言ではないのだから。
もう少しと呟きながら、口が利けない状態になる。唇を離しても出るのは熱い吐息ばかりで、話ができなくなってくる。言葉が不必要になる。けれど、まだ昼間だ。
見計らったように扉を叩く音が響いた。わずかに開けられた扉から、侍女らしき者の声が入ってきた。
「夕刻から宴に出よとの、陛下のおおせです」
思わず、がっくりと肩を落とす。ラウリーの微笑みに苦笑を返しつつ頭をかくしかなかった。
幸運の女神ナティにからかわれているとしか思えないクリフだった。




