外伝ノーマ夜曲中編(静寂)
夕食を終えた頃、リュセスとリニエスが王の間から出てきた。2人とも疲労しきっていた。リニエスは顔面蒼白になっているだけで、態度からはそれと分かりにくい。だが足が動かないようで、2人は衛兵に抱きかかえられてベッドに沈んだのだった。
エノアはそのまま王の間で気を溜めて、“転移”への準備をすると言う。
「ここから西の大陸だそうです」
まだ意識のあったリニエスが、行き先をクリフに告げてくれた。さらに言う。
「3日ほどで飛べるだろう、と」
一緒に聞いていたラウリーとクリフは、顔を見あわせた。時間などあるようでないものだ。リニエスに礼を言い、2人は互いの自室に戻った。クリフにも別に部屋をあてがってくれてある。王子の命を救った者だ、エノア共々、丁寧に扱われている。
何しろエノアなど、王の間に居すわることが許されているのだから。
ちょうど魔法陣の上に座りたかったから、が理由である。大広間に直接座らなくても良いらしい。王の間には、病で伏せっているとはいえ王がいる。いや、伏せっている今だからこそ王の間にいるのだと言うべきかも知れない。エノアが告げた寿命まで、あと2週間もない。
クラーヴァ国王ライニックは枯れ枝のような手を、中央に座するエノアに差しのべた。ベッドから身を起こすことは、もうできない。腕を上げることすら精いっぱいだ。エノアは静かに立ちあがり、国王の手を取って見おろした。ライニックの顔が安らかになった。
魔の気は元々、人の気力を膨らませもするし、削ぎもする。攻撃的でない魔力の余波は、国王に安らぎを与えていた。周囲にあるものが雑念を振りまいていなければ、魔法を使うのにさしたる支障はない。国王の心は透明な泉のように、青く澄みきっていた。
ライニックが目だけでエノアに訴えた。エノアがそれを受けてフードを取った。多少伸びた翠の髪は新緑のそれよりも瑞々しく艶やかで、その下に光る双眸は髪よりさらに清廉で閑静に満ちている。生身とは思えないような滑らかな頬と顎は、瞳を収めるにふさわしい形をたもっている。ライニックは祈るような目でエノアを見つめて、微笑んだ。
声なき声で、彼は「息子を」と告げた。
エノアは応とも言わず頷きもしなかったが、少しだけ目を伏せた。
ライニックは深く呼吸をして、心を開けた。記憶と知識のすべてをエノアは受けとることができた。そこにはラハウへの怒りや恨みなど、微塵も含まれていなかった。同時にエノアへの疑念や不満も、少しも見あたらなかった。ライニックはすべてを思いだしている。イアナの剣を奪われたことも知っている。クラーヴァ城に地下室があることも知っている。
諦めではなく。
許したのだ。
それが、もっとも人のためだと信じて起こした行動だったと分かるがゆえに、責めなかった。
ありていに言えば。
なるようにしか、ならない。
ライニック王は呟いた。
「息子に、幸せであれとお伝え願いたい」
「伝えよう」
もはや人の耳には聞こえぬ声を聞き、エノアは声で応じた。神の声に包まれて、ライニックは安心して体のすべてから力を抜いた。腕もすとんと重くなった。エノアはベッドに枯れ枝を戻した。まだ亡くなったわけではない。眠っただけだ。だがライニックはこれ以降、目覚めることなく静かに死んでいくだろう。自分が死ぬ瞬間も分からぬほど静かに。
エノアは部屋の中央に戻り、またなにがしかを唱えはじめた。
その声は王の間から外に洩れることがない。魔力も放出していない。
だがひそやかに、まるで子守歌のように王都全体を包むような『気』を発していた。夜のとばりが降りた王都の中では、魔の気を強く持つ者なら『気』を察知したかも知れない。感知しない者であっても、今日は安らかな眠りに包まれるかも知れない。
霞がかった雲が三日月を覆うおだやかな夜を、エノアの魔法が包みこむ。
ラウリーは自室の窓から月を見あげつつ、それを感じて深呼吸していた。今度の部屋は、もうバラ模様の格子窓じゃない。木の窓を開けはなして縁に座ると、夏の風が全身を撫でていく。側で果物をはむ鳥すらも目を細めて気持ち良さそうにしている。ケディにも、エノアの『気』が分かるのだろう。
見おろして微笑むラウリーの耳に、ノックの音が入ってきた。予期していたとはいえ、胸が鳴った。くつろぎながらも、自分も行こうかどうしようかと迷っていたことだったのだ。だが、まだ3日あると言われれば、夜にまで押しかけるのもどうかと思えて躊躇していた。ノックの主は想像している者で間違いないだろう。
その予想は裏切られなかった。
「今、良かったか?」
悪いわけがない。だがラウリーは少しだけ間を取ってから、クリフを迎えいれた。待ち望んでいたと思われるのも恥ずかしい。
扉が閉められる音を聞きながら、ラウリーは歩きつつ服を整えた。夕食のために着替えた室内着は、一番簡素なローブだ。動きやすいように少し裾を広げてもらった、夏用の軽い生地である。襟ぐりも開いていて鎖骨が見える。夕食の時は何とも思わなかったのに、ラウリーは急に気になってしまった。
「あ、そうだ」
ラウリーは明るく言ってふり向いた。パタパタと動き、ラタティーをいれ始める。
「クリフ、まだ飲んでなかったよね」
「お前の部屋に招待されたこと、一度しかなかったからなぁ」
「悪かったわね。この先いくらでもご招待しますことよ」
おどけながら言われ、クリフも苦笑しながら席についた。窓際にいたケディが、うぎゃーと鳴きながらクリフの肩に止まろうとしてきた。クリフは嫌がったが、ケディは「オレに逆らうのか」と図々しい。ずいぶん不本意な好かれ方をしてしまったものだ。
「ケディ」
ラウリーが微笑みで睨め付けると、ケディはちっと舌打ちしながら、部屋の隅に飾られている等身大の銅像へと腰を落ちつけた。止まり木を持たないケディの、そこが居場所である。
像はイアナ神だ。隆起した筋肉がたくましい。イアナの英雄と呼ばれたこの人は、ここまで派手な体つきしてないわよね……とクリフの体を盗み見て、顔を赤らめるラウリーだった。
「何?」
視線を感じたクリフが顔を上げる。これだから狩人相手はやりにくい。
「何でもない」
言って、ラウリーは水だしのラタティーを差しだした。