6-3(無茶)
「結婚!?」
すっとんきょうな声を上げてしまったクリフは言葉を戻すように、つばを飲みこんだ。せき払いをする。
「失礼」
「いや」
この部屋の主であるイアナザールが、ベッドの上から応えた。結婚すべき主でもあるイアナザールだったが、趣こそ落ちついているが、顔色がすこぶる良くない。大声すら、はばかられる。
クリフと同じ席に着いているエノアは、クリフの声が聞こえなかったかのように、フードの奥へ茶を運んでいる。3人でいる時ぐらいフードを外せば良いのにとクリフなどは思うのだが、姿形の記憶を消し去らないにしても、印象を薄くしておきたいなどの思惑があるのかも知れない。
何しろ一番最初にエノアやラハウのことを魔道士だと知った時は、殺されそうになったものだった。──あれは仮死状態にする気だったのだとエノアは言うが。
仮死状態にして術をかけた相手を、意のままに操れるという魔法。
ラハウは、オルセイのことをそうしたのだ。ダナと化したオルセイをクリフの手で仮死状態にさせて、蘇生して術をかけた。意のままに操れるように。
と、思いたい。
操られているようには見えなかったオルセイの冷笑が、胸をえぐる。
オルセイの声が、耳にこびりついている。
イアナの剣は痛かった、と。
痛みはクリフも知っている。
はらわたの焼けるような痛みが、毎日のように続いたものだった。眠るとオルセイの夢を見た。誰か俺を殺してくれと思った。
少し、殺されても良いと思っていた。
オルセイに。
けれど殺されそうになって、やっぱり違うと思った。
あれが完全にオルセイであり、クリフを殺したいほど憎んでいるとしても。クリフの手に残る、友を殺した感触を、オルセイにも植えつけてはいけない。侍女の、ミヌディラの死が教えてくれた。
オルセイがダナであり、自分を恨んでくれていて良かった、とクリフは思う。ラウリーの時と同じ理由である。クリフを恨みに思うオルセイは、クリフが生きている限り死なない。再び相まみえた時ダナの盾にダナを返すことができるかどうかは分からないが、それまではお互い生きている。
返したい。
皆で帰りたい。
単純な願いなのに、それを叶えるのは難しいものだ。
「え?」
自分の思考に潜っていたクリフは、イアナザールの声を聞きもらした。考え事をしながら人の話に耳を傾ける能力はないらしい。聞きかえされたイアナザールは咎めもせずに、同じ言葉をくり返した。
「私の影武者になって欲しい」
と。
「え?」
また聞きかえしてしまったのは、聞こえなかったからじゃない。想像のカケラにもなかった言葉だったから、意味をなさなかったのだ。
意味が分かった途端、眉がつり上がってしまった。
何様のつもりだ手前! と叫びかけて、言葉を飲みこむ。隣国とはいえ、王子様である。一応はクリフとて、身分うんぬんを知らないわけではない。しかも相手は療養中である。ベッドに上体を起こしているが、今にも倒れそうな風情でクッションに背を預けているのである。さすがに胸ぐらを掴みあげ、なんてことはできない。
するとクリフの思考を見すかしたように、イアナザールが「君の出生だが」と言いだした。
「『彼』が遠縁かなどと言っていたので、調べさせてもらったよ。クリフォード・ノーマ。まずは、おめでとう。私たちは他人のそら似だった」
王子がニヤリと笑うので、釣られてクリフも苦笑いしてしまった。笑ってしまうほど似ているのだから、仕方がない。
だが、すぐに真顔に戻った。両親の名が出たから。
クリフの母親は、クラーヴァ人だった。
「身一つでロマラールに嫁いだ女性らしいな。辺境に住む領主の一人娘だったので、ずいぶん反対があったと聞いた。その母親が亡くなって、後を追うように父親も事故で亡くなり、一人になった君は貴族社会から姿を消した。抹殺されたというべきか」
「『消えた』で構いません。俺は生きてる」
「ロマラールと国交がないわけじゃない。隣国といえど、働きかければ家の再興も可能だぞ。ノーマ伯爵」
久しく聞いたことのなかった、生まれて初めて呼ばれた名前に、クリフは総毛立った。我ながら、ものすごく似合わない。柄じゃない。
クリフは黒髭の下を、かすかに歪めた。
「それが影武者を勤める代償ですか?」
「そんなに嫌がるな」
イアナザールも苦笑した。
「今回の婚儀だけだ。永久的に身代わりになってくれとは言っていない。今、世間に重体だと知られると良くない動きが起こる可能性があるのでね。君が近々エノア殿と共に旅立つとも聞いている。それを止めるのは、国を滅亡させるに等しいと言っても過言じゃないだろう。私も『彼』を見た一人だからな」
「ああ……『彼』でなく、オルセイと呼んでやって頂けますか」
クリフはイアナザールに対して敬語になっていた。王子が見せる貫禄と落ちつきに、自然と心が退いたのだ。壇上にいるべき王族の持つ、生まれついての威厳なのかも知れない。ネロウェン国ではディナティ王に対しても敬語になったものだった。
ということは、自分はエノアと同列のつもりなのか? ということになるが。
クリフは、変わらずに茶をたしなみ続けている黒マントの奥を覗きこんだ。
「お前も」
イアナザールとは明らかに口調が違う。
「あいつはダナじゃなくて、オルセイだからな」
クリフのかたくなな言い方に、イアナザールはこっそり口元をほころばせた。エノアは返事をしなかったが、カップを持つ手を止めたので、おそらくそれが了承の合図なのだろう。だろうと分かるぐらいには、いつの間にかクリフもエノアに慣れた。
魔の山に棲み、詮索者を皆殺しにして魔力の鍛錬だけに生きる、魔道士。
かつてはクリフも殺されかけた。
だが、もう脅威じゃない。
いつしか、魔道士もちゃんと血が通っている、ただの人間なのだという認識になっている。
魔力──神々の力を得た、人間。
神々ですらも、かつては人間だったのだから。
今もまだ残っている神々の意志は、人だった頃の感情が残っているだけの妄執みたいなものなのだろう。と、クリフは思う。具体的な『ダナ』そのものを感じたからこそ思うのだろうか。クリフが感じたことのあるものは、オルセイの体に憑いて一方的に憎しみだけをまき散らす会話の通じない意志だった。
同じくイアナの方も、それを感じるはできても対話などはできない。ただ一方的に強烈な怒りだけを注ぎこんできて、クリフを翻弄するだけなのだ。いや。外部から注ぎこまれているというよりは、クリフの中にある“怒り”をイアナが増幅させているといった方が近いかも知れない。
神は自分の中にいる。
ふいに思いついた言葉は、自身を失笑させてしまった。
「クリフ?」
急にくすりと微笑んだクリフに、イアナザールが首を傾げた。窓からの光がかげり、王子の顔色が悪く見えた。長居はしていられない。クリフが謝罪した。
そして、きっぱりと返答をした。
「どちらも、お断りします」
イアナザールは予期していたのか、動じない。
「俺は名に誇りを持ってはいても、爵位なんていらない。誰かの身代わりもごめんです」
イアナ神の身代わりになってダナと戦っているような気になるがゆえに、余計に反発するのだろう。俺はずっと、どう変わっていっても俺なのだという信念がクリフにはある。芯の部分など簡単には変わらないという思いがある。
「あなたの真似なんて、俺にはできない」
「できるさ。立っているだけだ」
イアナザールは多少クッションに身を沈めながら、口元に笑みを浮かべた。エノアの“治癒”が施してあるとはいえ、致命傷だったのだ。クリフとて腹を刺されて5週間意識不明で、本調子になったのは2ヶ月がたった頃だった。胸を貫かれて、まだ10日で平気なわけがないだろう。
それでもイアナザールは顔を蒼白にしながらも笑みを浮かべたまま、クリフを見つめる。大した精神力だ。
「この体なのでね。当日になっても、立っているだけすら危ういだろう。神殿広間でおこなわれる誓いの儀礼と、城のバルコニーから挨拶するだけの略式にとどめる。本式は改めて私が完治したら執りおこなう」
聞いているだけでゲンナリしてきたクリフだった。自分などが務めたら、絶対にヘマをしそうだ
。
「略式ってやつも完治してからで良いんじゃ?」
もっともだ。だがイアナザールの顔が曇った。
「父王がご存命のうちに、見せてやりたいと思ってな」
ライニック王である。魔道士ケイヤと共に、エノアが“治癒”の魔法をかけていたはずだ。存命という言葉にクリフが眉をひそめて、エノアを見た。エノアのフードは動かない。代わりにイアナザールが答えた。
「……寿命なのだそうだ」
苦々しい、悔しそうな口調だった。納得はしていない。納得はできないが、仕方がないと自分に言いきかせているのだろう。気を失うほどに力を尽くしてくれた魔法使いらを責めることはできない。
「リュセスの花嫁姿を楽しみにしているのが、他ならぬ父でな」
「もっと早くに結婚しておけば良かったのに」
歯に衣を着せないクリフの物言いに、イアナザールが鼻白む。まぁクリフなりに役目から逃れようと話をそらしたがってこういう物言いが出るのだろうと思えば、苦笑が浮かぶばかりで、厭う気も起きないが。
「政治的な事情の方が分かりやすいか? 私は周囲と円満に過ごすために、国内魔法師との結婚の時期を見送らなければならなかった。私の戴冠は王の死後でないと、王の補佐を務めている叔父の顔を潰すとして、問題が起きる。だが次の王がこの年で正妻を持っていないのは、内外ともに都合が悪い。他国の姫を推挙されていない今しかない。……どうだ?」
「下手すると言葉の意味も分かりません」
「その方が良い」
イアナザールはどこか羨望的にクリフを見つめ、自嘲気味に笑った。一つ大きく息をついて、改めてクリフを見る。
「式は3週間後だ。エノア殿が保証してくれた存命期間は一ヶ月。その前に執りおこなう。時間はある。考えておいてくれ」
「待ってくれよ、俺は……」
言いよどんでから「3週間?」とエノアのフードを覗きこむ。
「それまで、ずっと媒体を探さない気なのか?」
「去るが、戻る」
聞いたことのなかった予定にクリフは顔をしかめた。あまりにも短い返答からすべてを察するのは、至難の業だ。
つまり、エノアは媒体だか何だかを取りに行くけれど、その頃にはまた戻ってくるらしいということ。
その旅には、俺は同行できるのだろうか?
「俺も一緒に?」
媒体の魔力増幅器ぐらいには利用価値があるようなので、一緒に行った方が良いのだろうかと思ったのだ。また戻るというなら、ここに残っていなくても良いのである。残っていたくない気持ちがある。変装したままの生活は窮屈だ。
それに……ラウリーと顔をあわせづらい。
共に旅立てるなら、その間に頭を冷やしたいという思いもある。
一時的な感情なのかどうか。
エノアはクリフの思いを察したのか、頭を動かしてクリフを見た。ようだった。
「好きにしろ」
「なら行く」
あっさりと決まった。
イアナザールは影武者の件について、ラウリーを盾にして脅すことも考えないではなかったのだが、それをするとこの男が即答で承諾するだろうことが確信できるだけに、言えなかった。