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5-9(愕然)

 明かりが少なくなった暗い室内に、廊下からの四角い光が伸びる。

 奥ではまだ倒れたランプの炎が、ちろちろと燃えている。他のものは消えてしまっているが、力あるランプだけが老婦人の伏せた顔をぼんやりと照らしている。

 一瞬。

 オルセイは一瞬だけ、ラウリーも殺しておこうか、と思った。

「止めてっ」

 ラウリーは足をもつれさせながら、オルセイの視界を遮った。長衣(ローブ)ではうまく走れない。

 廊下を走っている時から、ラウリーには想像がついていた。無惨に倒れる兵の姿と、こもる血の臭いが、一歩走るごとにラウリーを覚悟させた。

 彼女には、それが鮮血の臭いだと分かる。分かるようになってしまった。

 それに、うずまく『魔の気』。

 今すぐ気を失って倒れてもおかしくないほど狂った光景である。

 四角い光に映し出された陰影が、余計に狂気を演出している。黒と白と、血の部屋。

 クリフがリンを斬らなかったことに安堵と感謝の思いを持ちながら、ラウリーはクリフに手を伸ばしかけた。転んで這いつくばったラウリーから差しだされた手を、クリフは身をよじって避けた。いや、立ちあがるために体を動かしただけかも知れない。だがラウリーには、拒絶に感じられた。クリフの目がラウリーを見ない、暗いものだったからだ。

 光量が足らないせいで、そう見えただけかも知れない。けれどラウリーの知っている、つい先日に見せてくれたクリフとはあまりに違う顔だった。こんな短期間のうちに何があったのか……ヤフリナでおこなった海戦の行方が悪かったのだろうかと思えたが、それよりも直感的に兄だと思えた。

 兄がクリフに、何かした。

 何か、言った?

 なおもオルセイに向かおうとしたクリフを、オルセイが『力』でねじふせる。彼らの間にラウリーが割りこんで腕を広げ、兄に胸を張った。

 今の戦いが前回と違って赤子同様なのは、入室したばかりのラウリーでさえ分かった。ラハウの力は充実しているし、ダナでありながらオルセイでもある男は正気をたもったまま、力を使いこなしている。

 オルセイがラウリーを見おろす目も、今は兄の目ではなかった。

「それ以上クリフをかばうなら容赦せんぞ、ラウリー」

 いつ拾ったのか、オルセイはイアナの剣を構えていた。

 彼の『力』にすら反応して白く輝くイアナの剣は今、クリフたちに強い憎悪を向けていた。

「ラウリー、よせ」

 クリフが身を起こして、ラウリーの肩を掴んだ。だがラウリーは動かない。

 魔法を詠唱しようとした。兄からダナを自分に移す、移動の魔法。けれど些細な声など届かないぐらいオルセイが心に立てた壁は、厚かった。もっともっと、力がいる。まったく歯が立たない。

「止めて、お止め下さい、オルセイ様っ」

 壁際からさえずられる声もあったが、今のオルセイには微塵も届いていなかった。ラウリーはピクリとだけ、そちらに耳を傾けてしまった。クリフは汚れて血みどろになりながらも渾身の力を込めて、ラウリーを押しのけた。クリフだってラウリーに守られるわけに行かないのだ。彼女の姿を見て、はっきりと分かった。

 一時的だろうが、今この瞬間だけだろうが……今この瞬間だからこそ。

 オルセイはそれを見ながら、そんなことをしなくてもラウリーを避けてクリフだけを突きさすことは造作もないことと内心、ほくそ笑んだ。

 ラウリーの前で、命の灯火を消していくクリフを見せつけることができる。どんなに2人が絶望の顔をするかと思うと、喜びにうち震える。ラウリーのすぐ横を走りすぎて、白々と輝くイアナの剣。彼女の背後で吹きだした血が、紫髪を染めぬく瞬間。見開かれるであろう瞳と、そこに燃えたぎるだろう憎悪。それでもラウリーは生きるだろう。俺を殺そうとするだろう。

 もっとも心が近くなるだろう。

 分かっていたことだ。

 聞くまでもなく、会わせるまでもなく、この強い想いは知っていた。

 それを目の当たりにしたとて、今さら心を揺らす必要もないのに。

 人の気持ちというのは面白いものだ。

 なぁ、イアナ。

 オルセイの──ダナの胸で、マラナが悲鳴を上げたような気がした。

 ラウリーがクリフをかばい始めてオルセイが貫くまでの時間は、瞬きするほどの間しかなかっただろう。何も考えられないほど一瞬の間に、ラウリーの脳裏に優しげな兄の声が響いた。

「世界の惨事すべてを、お前に見せてやろう」

 そう聞こえたのである。

 はっとして顔を上げた時には、イアナの剣が貫かれていた。

 クリフに、ではなく。

 ラウリーにでもなかった。

 それはオルセイにとっても予想外だったらしい。

 目を見開いたのは、オルセイの方だった。

 ラウリーたちの前に別の者が立っていたのだ。

 駆けこんできた、第三者。

「私にも、できた」

 そんな呟きが聞こえた気がした。

 ラウリーの視界が金色に埋まった。彼女の髪が乱れてほどけ、宙に広がった。

 横から飛びこんできた彼女はオルセイの一撃を腹にくわえこむと、そのまま勢いを止めず2~3歩進み、それから膝を突いた。だから剣先がラウリーらに届かなかった。

 彼女は上体をよじって、剣を持ったままでいるオルセイの手を掴んだ。両手で、よじ登るように彼の腕を抱きこみ、彼女は自分の腹から剣を抜かせないように踏んばった。腹に力を入れると、血がふき出た。オルセイの黒いローブが彼女の血で染められた。

「ミ……ミヌ、ディラ……?」

 呆然とラウリーが呟く。

 オルセイは呆れたような怒りのような複雑な表情で、自分にしがみつく女を見おろした。女、ミヌディラは頬で波うつ金髪に半分顔を隠したまま、にこりと微笑んだ。

「なりません、オルセイ様」

 薄暗いのに彼女の横顔が神々しく見えて、ラウリーは固まった。手を出しかけたが、ふれられなかった。腹から腰を剣に貫かれたまま笑う彼女の目が、あまりに透明で美しかった。

「お斬りになれば、かならず後悔なさいます。これ以上の苦しみを増やさないで下さいませ」

 言葉尻で血を吐き、ミヌディラは崩れかけた。オルセイの腕を掴む手が白くなり、震えている。だがオルセイは、そんな彼女に手を差しのべはしなかった。立ちつくし、哀れな女を無表情に見おろすのみである。

「どけ」

「どきません」

「邪魔だ」

「邪魔をしていますから」

 そんな会話なのに、ミヌディラは楽しそうだった。

 オルセイに剣を動かされて目を見開き、血がとめどなく流れても、彼女は口元から笑みを絶やさない。

「なぜ自ら死ぬ。ミヌディラ」

「嬉しゅうございます」

 その流れが耳に引っかかり、ラウリーに言葉の意味を考えさせた。ミヌディラが「嬉しい」と言った意味。

 おそらく……初めて、名を呼ばれたのだ。

 ミヌディラは真っ青になりながらオルセイを見あげて、力を振りしぼってオルセイにささやいた。

「少しでも覚えていて欲しかったからです」

 素直すぎるミヌディラの、臨終の言葉。

 ラウリーは息を止めて硬直し、彼女が倒れていくのを見守ってしまった。ゆっくりと剣から抜けて倒れる彼女に合わせて、震えるラウリーの目尻から涙が落ちた。抱きとめることが……ふれることが、できなかった。尊い死の中、彼女はオルセイ以外の誰の手も望んでいなかったのだから。

 声にならなかった一番最期の声まで、聞こえるような気がした。

「私の死を、心に刻んで下さい」

 と。

 血溜まりに沈んだ彼女は、女神のような笑顔を浮かべたまま動かなくなった。イアナの剣はもう発光していなかった。

 オルセイはケイヤの手から、ニユのランプを奪いとった。

「この場は退くとしよう」

 言いながらオルセイは、ミヌディラの側に立って見おろした。ニユのランプが弱々しい緑の光で、ポウと彼女を照らした。死んだミヌディラの魂を悼んで泣くかのように静かな、優しい光だった。

「しばし安穏と暮らせ」

 痛めつけられたクリフは何とか上体を起こしてはいるものの立ちあがれず、片腕を押さえ、しかめ面でオルセイを睨んだ。オルセイはクリフを一瞥すると、ラウリーにちらりと視線を動かしてから反転した。

「兄さん」

 ラウリーはすがるように膝で立った。バランスが崩れ、四つん這いになった。

「何をするの? しばしって何なの」

 オルセイは歩きながら、背中越しに呟いた。

「お前たちの自滅を」

「え?」

 だがオルセイはそれ以上、言葉を紡がない。

「兄さんっ」

 オルセイは部屋の中央、円陣の上に立った。

 中央に座するラハウの、すぐ後ろである。

 右手にイアナの剣を持ち、左手にニユのランプを持ったまま。

 オルセイは周囲を見回してから、エノアに視線を止めた。

「食えん男だ」

 エノアは答えない。

 オルセイも口を閉ざし、ラハウと共に消えた。

 ラハウの前に立っていたリンがふり返った時には、2人の姿はなかった。同じ円陣内にいても、それは一緒に行ける力にはならなかったらしい。リンが黙って立ちつくす前にケイヤが腰をおろし、なにがしかを唱えはじめた。

 だがケイヤの詠唱を、エノアが止めた。

「もう消えた。それに今追っても、意味がない」

 ケイヤは素直に口を閉じた。

 室内が静かになった。

 誰の息遣いも聞こえないほどの静寂が訪れた。

 だが音はある。

 エノアの呪文だけが小さく、闇に溶けるように続いていたのである。

 エノアの声があっても“静寂”と感じられる室内だったが。

 だが、静寂が破られた。

 王子がうめいたのだ。

「イアナ……?」

「この人は」

 クリフとラウリーが夢から覚めたように、同時に声を上げた。イアナザールは胸の剣を抜かれて、仰向けに倒れている。その側にはエノアが座り、手を当てたままでいる。おびただしい血が床を這っていたが、新しく流れているものはなく……何より、彼は生きていた。

「生きて……」

 クリフの呟きに弾かれたように、ラウリーは目前に倒れるミヌディラを胸にかき抱いた。

“治癒”だ。“治癒”の魔法。

 ラウリーは焦れば焦るほど頭から抜けていく古代の言葉を、必死に組みたてた。彼女の声がさらに静寂を破る。

 2つの倒れたランプを立てて火を入れていたリンだったが、ラウリーの行動に目を移すと、彼女はストンとラウリーの向かいに座った。膝と服が血に濡れたが、彼女は気にしない。そっと手を当てると、ラウリーと同じ言葉を唱えはじめた。ラウリーの脳裏に、あの時の光景がよみがえる。ネロウェンの戦場で、マシャに手を当てたリンの姿と重なる。

 人工的な光が部屋に広がる中、ノイエがうめきながら身を起こした。

 段々と室内が動きはじめる。生きてくる。

 けれど光にさらされた一人の死は、決して動かない。

 どんなに魔法をかけても、どんなに揺すっても。

「落ちついて」

 ラウリーの肩とリンの手に、老婦人の手が重ねられた。

 彼女は“治癒”を唱えなかった。

 とうに、知っていたのだ。

「あの方はエノアがすぐに施していた。それに『力』を持った方だから、助かったのです。だから……」

 ゆるく首を振りながら、ケイヤは語尾を濁した。彼女はミヌディラを抱きしめてラウリーから放し、そっと下ろして手を重ねさせた。胸の上に重ねられた手は、死者のそれを意味する。

 柔らかくて冷たい最期通告に、ラウリーの胸が詰まった。リンの声が止んだ。胸と喉を触って、確かめている。そして膝に手を置いたリンの動作に、詰まった胸が締めあげられた。ラウリーは首を振って相貌を崩し、何かにすがりたくなって、クリフの姿を求めた。

 声は出さなかった。

 ふり返って、クリフがいることを確認したいだけだった。顔など、見られるはずがない。

 触ることもできない。

 オルセイを救えなかった、目の前で去られた気持ちを思うと、手をさしのべたりなどできなかった。

 もうエノアの“忘却”も解けている。

 何もかもを思いだしている。

 見渡したラウリーの視界に、翠の髪が鮮やかに映った。

「エノア」

 横顔に呼びかける。

 声を出してから、自分が泣いていることに気づいた。気づいたら、もっと涙が出てしまった。ラウリーは何度も手の甲で涙をぬぐったが、一向に止まらなかった。

「もう2度と……2度と、私たちの記憶を消さないで下さい。離れて会えなくなる日が来ても、私の思い出から消えないで下さい」

 話す側から言葉が砕けて、泣き声に変わる。最後の方には何を言っているのか、分からなかっただろう。

 けれどエノアは肩越しに小さく、頷いたようだった。エノアの手からは、まだ魔力を感じる。イアナザールの治癒は続いている。助かるのだ。

 一人だけでも。

 助かるのだ。

 泣きじゃくるラウリーの肩を、伸びてきた手が掴んだ。

 すぐ隣の者から。

 驚いて彼の正面に身をよじると、両腕がラウリーの体を包みこんだ。

 抱きすくめられて、顔が見えない。

 ラウリーは一瞬、何が自分に起こったのか分からなかった。

 そんなクリフから、言葉はない。しっかりと強く抱きしめられるばかりである。

 泣いているようにも感じられた。けれどクリフの体は震えていなかった。

 小さくない。

 初めて感じたクリフの胸と熱がじんわりと、ラウリーにぬくもりを与えた。痛いほどの強さが、ラウリーの胸を締めつける。涙が涸れず、また溢れてきてしまう。どんなに力を込めても、顔をしかめても、涙は引きそうにない。

 ラウリーもクリフの背に手を回した。

 ありったけの想いを込めて、抱きしめた。

 彼の肩に顔を押しつけて、声を殺して泣きつづけた。


~最終章「ロマラール婚礼曲」へ続く~

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