5-5(激発)
「開きますっ」
リュセスが詠唱を止めて、鋭く叫んだ。止めてでも、言う必要があったのだ。
「開く時間はわずかです。すぐに閉じてしまいます。合図と同時に走って下さい」
言い終えて、術に戻る。しかし話している間にも、リュセスが術を止めたせいで他の4人に負担がかかり、また一人倒れてしまった。一昼夜続く魔法の詠唱は、とっくに限界を超えていた。
集まった魔法師と魔法使いは10人いた。
すでに6人が倒れてしまい、これで7人目である。
待っている兵たちの神経もすり切れてしまった。何しろ、いつ開くのか分からないから緊張をほどくことができない。だからリュセスが時を告げる必要があったのだ。長い間は開けていられない扉に、すかさず突入してもらわなければならない。
言葉の意味に気づいて、兵たちの顔に緊迫と闘志が戻ってきた。総勢、15人。親衛隊の精鋭である。未知の地へ挑むのにしては数が少ないのではという声もあったが、戦争ではないだろうにという意見も出て、この数になった。リュセスには、足りない数だった。
けれど全員を通す自信すら、今はない。
──いや。
通せるか、ではない。
通すのだ。
リュセスは呪文を唱えながら、目の端で兵たちを見た。先頭にイアナザールがいる。
彼は昼の間に剣とヨロイを装着し、盾も構えていた。片手持ちの剣を軽く振ってみている。隆起した筋肉が、皮をなめして編み込んだ帷子を動かした。平和な世にあっても鍛錬を欠かしていなかった、鍛えられた体である。
赤い瞳が、黒くぽっかりと空いている空間を見すえる。
リュセスも『魔の気』を強くした。
肌に、空気がちりちりと痛い。じっと見つめていると、目前の闇に飲まれるような錯覚を覚える。ただ真っ黒なだけでなく、入り口の周囲に無数の糸が張り巡らされているように、リュセスには見える。時々ばちっと弾けて、人を寄せつけまいとしているように見えるのだ。
その一本一本を丁寧にほどくように、リュセスはゆっくり力を込めて、言葉を紡ぐ。複雑に編み込まれた闇に穴を開けんと、穿ち、手を入れ、押しひらく──そんな作業。闇そのものを完全に消し去ることはできない。
けれど、ほころびがある。
丸一日をかけて、“壁”にほころびを作った。
リュセスはそれを、思いきり引っぱった。
「今です!」
叫び、開いた両手を前に突きだした。瞳が鮮やかに光る。肩の上で髪がぶわりと浮いた。
だがリュセスの様子を見た者はいなかった。
いないほど、扉に神経を集中していた。
息を詰めて、一気に駆けぬけたのだ。
わずかな時間で多くの兵が通らなければならない。扉は小さい。武具や剣を装着した状態では、2人こそ同時に通ることが叶わないのだ。一番手で走りぬけたイアナザールは勢いあまって転び、階段を落ちかけた。
急激に曲がって螺旋になっている、その婉曲した壁に手をかけて踏みこんで、堪えた。
イアナザールは入り口にふり返った。兵たちが続いていた。2番手はノイエ・ロズだ。
だがノイエですらも、完全に通ることはできなかった。
思わず悲鳴を上げていた。
イアナザールは目を見開いた。
ノイエと、その後ろに続こうとしていた兵の2人が絶叫したのである。ノイエは剣を手放し、階段を転がった。急いでイアナザールが飛びだして彼を抱きとめたが、剣が石段をカンカンと響かせて、暗闇へ落ちていった。イアナザールがその暗闇から戸口へと、バッと顔を上げた。
誰もいなかった。
リュセスが「わずかだ」と言った時間は、本当にわずかだったのだ。
再び閉じてしまったらしい扉だが、向こうにいる者たちは見えるし、声も聞こえる。通ろうとして阻まれた兵士が倒れている姿や、座っていたリュセスの愕然とした顔も、すべて見えた。
表情が嘆きと怒りに変わった。リュセスは感情を叫声に乗せて、拳を振りあげた。
「駄目だっ」
はっとして腕を伸ばしたが、届くわけがない。立ち上がれなかった。ノイエがすぐに体を起こしてくれたが、間に合わなかった。
「リュセス!」
イアナザールの叫びもむなしく、リュセスは透明な壁にはね飛ばされた。吹き飛ぶ瞬間、壁が火花を散らしたように見えた。駆けよったイアナザールまで手を突きそうになって、慌てて身を退いた。若干触れてしまい、また手が弾かれた。壁がイアナザールを威嚇して険を強くした、ように思えた。
透明な壁の向こうでは、気絶してしまったらしいリュセスを抱えて、周囲の者がしきりに騒いでいる。見えるのに、声が聞こえるのに通り抜けられない出口が憎らしい。
もう一人、声を上げて転がった兵士も名を呼ばれ、抱きあげられていた。だが彼は動いておらず、目をひんむいていた。抱いた者はおののきながら頭に触れて、イアナザールを見あげて、首を振った。
死んだのだ。
透明な壁は閉じる瞬間に通りぬけようとした者たちを攻撃したのだ。イアナザールが階段に視線を戻すと、ノイエは足首を押さえていた。足が残っていたのだ。ギロチンのような壁である。
「お前たちは交代でここを見張れ。魔法はもう良い、中の調査が済んだら戻る」
どうやって?
入ったものの出られない扉に戻ってきて、どうするのですか──とは、皆が思っただろう。イアナザールとて思った。だが、ここにいても同じである。別の入り口を探すか、元凶を突きとめるしかない。
たいまつに火を灯し、ノイエを率いて石段を降りる。
螺旋階段はずっと闇に先を吸いこまれ続けていて、奥に何があるかを見せてくれない。ひるみそうになる足に力を込めて、イアナザールは一定の足取りで進んだ。
リュセスが「敵がいる」と言ったのは『魔力』によるのだろうが、通常には勘としてしか見られない。正規の軍を動かすわけに行かなかったので、親衛隊の兵らを手配したのだ。リュセスを信じて用意した、イアナザールにできる最大限の兵だった。そうでなければ、イアナザールが一番に闇へ身を投じるなど、できなかっただろう。
「王子」
ノイエが足首の痛みを堪えて、イアナザールの前に出た。正しい行為だ。イアナザールは苦笑しながら、素直にたいまつを譲って後ろに回った。待っていて下さいなどと愚かなことを言わない供だっただけ、ノイエで良かった。長いつきあいだ。
「ノイエ」
「はい」
誠実さを感じさせる堅い声で、ノイエが背後を気遣った。
「お前はここに入ったことがあるか?」
「いいえ」
一言で済ませたが、言葉の裏にはいくつもの意味が含まれているようだった。その意味を、イアナザールは分かる気がした。イアナザール自身も、入ったことがないはずなのに、あるような気がするからだ。
途中でノイエの落とした剣が見つかり、さらに少し歩くと先が明るくなってきた。
終点らしい。
日光の明るさではない。
地上にいたら、この地下に起こる大抵の音は聞こえなさそうな深さである。光は通路に設けられたランプのものだった。段を降りきると、左右に回廊が延びていた。左がいきどまり、右の先にはT字路がある。
思ったよりも広い。距離もだが、天井も高いし幅も広い。装飾も見事だ。ぱっと見には息苦しい地下だと感じないほど華やかである。
『魔の気』が漂っていなければ。
「こっちですね」
左からは人の気配も感じない。2人は右へ歩きだした。
静寂な回廊の奥から、痛いほどの『気』がイアナザールに投げつけられている。魔の気は、通常感じる人の気配とは異なる。ノイエ・ロズには魔力が少ないらしく、彼は首を傾げていた。
だが王子の険しい目を見て察したらしい。彼も剣を握る手に、力を込める。
呼ばれているかのように放出されている『気』。いや、呼んでいるのだ。イアナザールを挑発している。急ぎたくなる足を押さえて、ゆっくり進まなければならない。ゆっくり……。
だが。
空気が一変した。
叫声が上がったのだ。
「きゃあぁ!」
女性の悲鳴だった。
同時に、すべてが動いた。
ほどなく前方から、足音と声がわき起こった。男性の声だった。
「!?」
声の方向と『気』の方角は同じだった。足首をかばって出遅れたノイエを抜いて、イアナザールが角を曲がろうとした。矢が飛んできた。素速く体を引っこめた。
自国の兵や下男たち数人の走ってくる姿が映った。
4人。いや、5人いたか?
「お前たち!?」
彼らはイアナザールの顔が判別できる距離に来ても、一向にひるまなかった。顔が見えないわけではないだろうし、分からないはずがないだろう。それが証拠に、兵の格好をした者は言った。
「失礼します、殿下!」
剣を振りかざしながら。
殺気を叩きつけられた。
「誰の命令だ?」
剣を交えた状態で、イアナザールが硬い声で尋ねたが、返答はなかった。
さらに言葉を重ねる。
すると彼らは、狂ったように突進してきた。話は無理らしい。
「当たりだったな」
イアナザールは思わず呟いた。呟いた相手はここにいない。リュセスだ。
敵がいると言った彼女の言葉を、改めて噛みしめた。国内随一の魔法師が吐いた言葉には重みがあった。その重みを重いと感じて行動した自分に、イアナザールは少し誇りを感じた。口元から思わず笑みが洩れた。
相手の剣を弾く。
イアナザールは踏みこんで、ひゅっと息を吐いて跳びあがった。相手が脇を固めることを想定して、頭上を狙ったのだ。
盾を相手の肩にぶつけて、よろけさせて飛びこえる。なめした皮の帷子と鉄の胸当ては、軽い。機敏性が第一のヨロイに腹や肩、足などはついていない。
2番目の男がイアナザールに迫り、その後ろからは弓兵が矢を構えていた。
イアナザールは斬られながらもすかさず身を伏せて、2番目の懐に飛びこんだ。
「ぐっ」
矢が、2番兵の背中に刺さった。イアナザールは足を踏んばって兵を掴み、半回転振りまわして後ろに投げすてた。後ろは後ろで、ノイエが最初の兵ともみあっていた。そこに2番兵がぶつかった。
その間にもイアナザールは弓兵に飛びこみ、弓を叩きわっていた。
けれど、新たな男が来る。
その者は兵でなく、鎌を振りかぶってきた。
刃の音を盛大に響かせながら、イアナザールはこの時になって身震いした。
イアナザールが彼らに問うた名は、ラハウである。彼らの態度は確定に値した。
悲鳴が聞こえた時、イアナザールにも感じられたのだ。強い魔力が飛んできた。おそらくイアナザールらを足止めしろといった風な合図だったのだろう。殺せと命じたのかも知れない。
男たちの剣に、躊躇がない。一国の王子──自国の王族と王子直属の部下に、ためらいなく剣を向けてくる兵たちの心が怖かった。そうした男たちを作りあげたラハウが、怖かった。
「退けば命は取らぬ」
重ねた剣の向こうで歯を食いしばる男に、イアナザールは言った。だが男は退かない。男の目が異様に輝いているような気がした。正気なのかが分からない。
さらに剣を手にした先ほどの弓兵が、襲いかかってきた。
「殿下!」
ノイエが飛びこんできた。
ガキィンと剣同士をうち鳴らし、イアナザールの前に飛びだす。そのまま素速く剣をくり出し、ノイエは相手を押しきった。
イアナザールは鎌の男を峰打ちにした。
最初の兵たちも、まだ生きている。追ってくる彼らに向けてイアナザールは鎌の男を蹴飛ばし、通路を塞いだ。倒れこんできた2人の男たちに、兵がわらわらと足を止める。最後に残った傭兵らしき男だけは、ノイエが斬りすてた。
兵たちの腕前は、イアナザールが峰打ちにできるほど弱いものではなかったのだ。5対2で、逃げることができただけ運が良かった。
「殿下、血が」
ノイエが気づいて声を上げたが、イアナザールは聞かなかったことにして奥に走った。太股から血が流れていた。2番目の兵に斬られたものである。
イアナザールは足を緩めず、「ここだ」と扉に体当たりした。石造りの堅固な扉だったが、すでに若干の隙間が開いていた。その中から声がしていた。『気』も、ここだ。
最初に勢いよく、徐々にゆっくりと、重い石の扉が開いていく。
俯いて見える足元に、室内からの光が伸びてきた。太陽以上に眩しいのではと思うほどの輝きに、イアナザールは顔をしかめた。
「なっ!?」
通れるていどに開いたところに体を滑りこませて、イアナザールは顔を上げた。
昼間かと思えるほどの光が、室内に満ちていた。それは弱まったり強くなったりしながら相手の剣に食らいついていた。
失ったはずのイアナの剣だと分かるのに、そう長い時間はかからなかった。剣の持つ『魔力』を直接感じとったからだ。
ラハウもいる。同じような、黒いマントを着た男と向きあっている。
だがイアナザールの驚いたことは、それだけではなかった。
イアナの剣を握っている青年の顔が自分そっくりなことを、おぼろげながら記憶は持っていたものの、ここまで似ていたということを、イアナザールは憶えていなかったのである。