第16話 猫は王子を想う
アリスに突き飛ばされ、わたくしは背中から階段に倒れ込む―――のを、覆す。セザールのときと異なり、わたくしの身に起きたことは防げなかったにせよ、瞬時に何をされたかは把握している。
今こそ鍛え上げた筋力を発揮するときよ。
療養中、リハビリを兼ねて始めた鍛錬は続けている。倒れ込む体を、右足で思いっきり後方の床を踏み込む。ぎりっぎり、階段の段差前で行えた。それでもまだ倒れ込んでしまうので体を捻る。方向転換し、階段でなく左手前に倒れ込めるようになったが―――わたくしならできる。無様な姿はもう二度と見せない。
カンッ。
足の裏がひりひりと痛むが、その程度で済んだのなら安いものよ。
何事もなかったかのように、背を伸ばして胸を張る。わたくしより背の低いアリスを見下ろす。
「申し開きはあるかしら?」
危うく階段を転がり落ちるところだった。二度も突き飛ばされるとは思っていなかったが、今度は身を守ることができたため、理性が働き怒りが抑えられる。それよりも突き落とそうとしたアリスの胆力への呆れが大きかった。
「エルザ様!」
わたくしの名を呼ぶのはメイジーだ。気配を消して側をつかず離れずでついてくることができる謎の特技から、わたくしが一人で行動するときは連れていた。
「お怪我をされていますよね。直ぐに手当を!」
「今は大丈夫よ。それより……見たわね?」
「はい」
愚王子と二人きりとなって仲が親しいと勘違いされないように、セザールに突き落とされて不幸の事故となった二の舞は防ぐために、一人で行動しないようにしていた。危うい目にはあったが、メイジーを目立たぬようにと指示したので承知のことだ。その方が相手の本音が見られる。
メイジーが突き刺さんばかり視線を向けながら言う。
「アリス。公爵令嬢たるエルザ様に対し、明確な殺意を持って階段から突き落とそうとしましたね。この私が目撃した以上、その所業は決して許しません」
メイジーは証言者だ。他にも目撃者がいればわたくしが被害者だという正当性が増すのだが、メイジーが一人とて、証言をもみ消されることはないはずだ。
「もう一度聞くわ。申し開きはある?」
「……あなたなんて」
「声が小さくて聞こえないわ」
ばっさりと切り捨ててやると、アリスは叫ぶ。
「あなたなんて、あのとき死んでしまえばよかったのに!」
明確な殺意があったとアリス自身も認めるなんてね。
アリスは怒りに染まっている。愚王子と睦まじくしていたときの、男が庇護欲を駆られるようなかわいらしさは見る影もなかった。
*
シリル様。
「優しくすることなんて、誰にでもできることだよ」
シリル様。
「今度は転んだのかい? せわしないね」
シリル様。
「私は王族だから。でも……アリスといると気が休まるかな」
シリル様。
「私も……生涯を共にしてほしいと思っている」
シリル様。シリル様。シリル様。
「ずっとお慕いしています。ずっと側にいたいんです。側でお支えしたいんです」
婚約者のエルザ様が本当のシリル様を見てくれないことは知っていた。相談してくれたシリル様はとても苦しんでいた。
それでも私は庶民だから。好きという想いを持ってはいけないことは分かっていた。けど、伝えたい。
同じ想いが返ってこないと思っていたから、そのときはとても嬉しかった。こんな幸せがあるなんて、と思わず泣いてしまうほどだった。
「それであなた自身が死ぬことは分かってやったの?」
現実に戻り、エルザ様が問いかけてくる。
ああ、なんて美しいんだろう。髪も肌も毎日手入れされているんだろうな。苦労を知らない綺麗な手。私なんかと大違い。
「死んでも良かった。元のシリル様が返ってくるならなんでもしたの。あなたなんかの責任なんて取らなくていい」
「それはわたくしではなく、殿下に言うべき言葉よ。わたくしだって責任を取ってもらいたいと思っていないわ」
「それができないのが政治じゃないですか」
なんてかわいそうなシリル様。
「殿下が責任を取ろうとするのは政治が理由ではないわ。今更ながら、わたくしを求めているからよ。アリス、自分自身でも分かっているでしょう?」
かわいそうだって、純粋無垢に信じきれたらよかったのに。
シリル様もセザール様も政治上の理由だって言っていたが、それは嘘だってシリル様のエルザ様に対する態度を見れば分かる。
私のときと態度が全く違う。
エルザ様のことを心の底から好きなのだろう。私はエルザ様の代替品にすぎなかった。エルザ様がシリル様のことを嫌っていても、本当のシリル様を見ていてのことだから構わないのだろう。代替品じゃなくて、本物を手に入れようとしている。
思い返せば、シリル様に好きだって言われたことがなかった。
それでも、
「簡単に諦められる恋だったのなら、シリル様のことをずっと好きじゃなかった! 告白なんかしなかった! 付き合っていなかった!」
シリル様がエルザ様のことが好きでも、私はシリル様のことが好きだ。好きで好きでたまらない。
シリル様も私を好きでいてください。
一度想いが通じ合ったと思ったから、もう一度と願ってしまう。だから、エルザ様のことを突き落とした。好きなシリル様を傷つけるなんてできない。エルザ様がいなくなれば、残った私を代替品だとしても好きになってくれると思った。
いけないことだと分かっていても、心の折り合いがつかないうちにエルザ様が一人でいるのを見つけた。衝動的な行動で、今もエルザ様への怒りと憎しみが溢れて仕方がない。なんて心はままならないんだろう。
「わたしがエルザ様だったなら、本当のシリル様を見ていた。ずっと一途に好きでいたのに」
「例え話なんて意味ないことね」
意味がなくても、そんな未来を想像してしまう。エルザ様みたいに私は割り切れない。
「私が」
まるで幼い頃に読んだ本のように。
「私が、あなたみたいなお姫様だったらよかったのに……!」
王子様が必ず迎えに来てくれる。庶民じゃなくて、そんなお姫様になりたかった。
シリル様。
私がお姫様じゃないから、迎えに来てくれないんですか。
「わたくし、正直貴方のことはどうでもよかったのよ」
エルザ様は傲慢なことを言ってのける。このような性格の女性が、シリル様は好きなのかな。
「今となってはわたくしが殿下に想いを寄せるなんてないから、どれだけ仲睦まじくしようとしても勝手にすればいいわ。殿下が気移りしやすいことを早々に明らかにしてくれて、感謝している部分もあったのよ。でも、わたくしを突き落とそうとしてくれたお礼はしないとね」
エルザ様は嗤う。その美は損なうことなく、それでいて恐ろしさが増していた。
「醜い嫉妬でわたくしを突き落としたこと、殿下に知られたくないわよね」
突き落とすことに失敗した上、エルザ様の他にも貴族の女性が一人いる。罪を犯した罰を受けることは構わなかったが、シリル様に知られることを思うと、胸がずきずきと耐えがたいほどに痛む。
「大切なご両親もさぞ悲しむでしょうね」
「どうすれば、いいのですか」
貴族が大半の学園にだてに通っていない。これは取引だ。問題は対価をどれほど支払えばいいのか。
「これまでと同じように過ごしなさい。学園にいる間は、罰を先延ばしにしてあげる」
「それだけ、ですか?」
「そうよ。それだけでいいの。それより貴方は、罰を引き延ばすだけで満足なのね」
「私に拒否権はありませんよね」
「ええ。分を弁えるようになったわね」
私がシリル様と睦まじくしていたときのことを言っているのだろう。何も言い返すことができない身分が悔しい。
それでもシリル様と共に過ごすことはできないにしろ、遠くから眺めることはできる。エルザ様に想いを寄せている姿を見るのは苦しいが、貴族を突き落とそうとした罰により死んで、一生眺められなくなるよりましだ。
後悔が残らないようその日までシリル様を見て、気持ちに整理をつけよう。
両親にもこれまで育ててくれた感謝と、親不孝者だった謝罪をしよう。
「さあ、一緒に最期の学園生活を楽しみましょう?」
だが、その考えは甘かったかもしれない。エルザ様がこれから心底楽しみだ、と言わんばかりに嗤っている。
氷漬けにされたように体が固まる。どのように弄ばれることになるのだろう。弄ばれることを前提にして、わたくしは考える。庶民の私相手ならいくらでも方法がある。ありありと想像できてしまった。
私はそれをなすがまま受け入れて、学園に通い続けないといけない。
つまり、逃げることはできないのだ。私は何かしなくてもいい。その必要なく、エルザ様が何かしてくるのだから。
ばくばくと心臓がうるさく高鳴り始める。何がそれだけですか、だ。
私はようやく事態を把握し、身を震わせる。シリル様がいないのに、耐えられるのかな。眺めるだけで、堪えられるのかな。
それでも堪えなければならない。取引をしてしまったからには、どんなことをされてでも学園に通い続けなければならない。できなかったら最期、私の死だけでなく周りにも災いがもたらされてしまう。
息抜きで別の小説を一瞬書いてきます。
あと、冬休みが無情にも終わっていますので、また更に更新が遅れぎみになるかもです。
詳しくはツイッター覗くといいかもしれないです。ここより気軽に何か言ってます。
@amai_mio




