プロローグ
一冊の本を、幼女は行儀よく椅子に座って読んでいる。
本は分厚く細かい文字で埋め尽くしており、とても子ども向けではない。それを幼女は難なく読んでみせて、だが重たさには負けたようで本を開いたまま机に置く。
「つまんない」
分量はともかく理解しやすい物語なのだが、お気に召さなかったらしい。小さく柔らかな手が、戯れに紙をめくる。流し読みはするようだ。
「俺の本はおもしろかったか?」
「お兄様はおもしろいと思ったの?」
いかにも不機嫌だと問い返してくる妹に、俺は苦笑する。暫く様子を見ていたが、予想以上に苛立っている。
俺は妹とそれほど年が離れていないが、先に始めている教育の賜物により感情のコントロールはできる方である。かわいらしいよりも無愛想で辛辣が色濃い妹を宥めにかかる。
「大衆向けであるから、俺ら貴族に合わないところはあるが」
「はっきり『ださく』って言えばいいのに。虐められている女をどこから聞き付けたかも分からない王子様が都合よく助けにくるし、女も女でその境遇に耐えるだけでどうにかしようと行動しないのよ」
覚えたての言葉を直ぐに使ってみたかったのだろうか。
微妙に呂律が回っていない『駄作』に俺は和む。それでいて宥めに全く靡きもしない幼女に、意地悪な言い回しをする。
「まるで女が主人公みたいな物言いだな。確か王子が主人公だったと記憶しているが、俺の認識違いだったか?」
「……合っているわ」
一貫して王子に視点をあてている物語である。口では辛口評価をしていた妹であるが、女に入れ込むほどには夢中らしい。
「女に憧れたとかではないから。その女の立場はよいとは思うけど」
妹はムスッと拗ねて、俺の考えを否定する。
「女の立場…………助けられる立場か?」
「からかわないで。さっき批判したばかりでしょ」
「咄嗟にそれ以外には思いつかなかった。で、答えはなんだ?」
「もう…………この方と結ばれる立場のことよ。見て」
指差すのは挿絵だ。白と黒で描かれた王子が描かれている。
「とっても素敵でしょう?」
妹はうっとりと、夢見心地の表情で語る。
「この王子様の容姿に、武力と知を兼ね備えた優秀さもいいわよね。堂々とした振る舞いは人を惹きつけて、導いていくものであるし――――これこそ理想の王子様よ。所詮、創作物なのだから、現実にこんな人いないでしょうけど」
おかげで現実的になって読むのに集中できなかった、と文句を付け加えているが、夢中になっていることは分かりきったことだった。物語の登場人物である王子の設定に。恋と同然の想いを抱いている。
そんな妹の想いはものの数年のうちに叶えられる。自国の王子との婚約だ。
王子は大層優秀で、物語のような理想の王子ほどでは流石にないにしろ、妹が十分妥協できる域にあった。自国の王子に理想を重ねつつ、その隣に立つのに相応しい婚約者を務める。
そんな妹の強すぎる想いが、王子には負担だったらしい。その優秀さを活かして不満を漏らすことなく我慢を続けていたことで、綻びが見えた頃にようやく気づく。そしてその頃には王子は婚約破棄を決心しており、悲痛な事件が起こった。