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金木犀

作者: 千日紅

 金木犀のこぼれる塀の角を曲がって、電信柱の彼岸花を左、鉄条網に囲まれた細い畑の間の道を抜けると、田んぼが広がっている。

 高い青空のもと、重たく穂を垂れた稲が、刈り取りを今か今かと待っている。

 春から夏はすぐに移り、夏から秋になれば、さらに時は早さを増す。

 朝晩の冷え込みが強くなれば、あっという間に冬だ。

 乾いた風を受けて、枯れた畝の間を走り抜ける。

 白くなる息と、せわしなく上下する胸の鼓動。





「……なんで、だめなんですか!」


 児童養護施設『なのはな園』の職員室に響き渡った若い女の悲鳴は、課長を務める百瀬の眠気を一瞬で吹き飛ばした。


 見れば、今年この施設に入職したばかりの植村が、古参の職員である米田に食ってかかっている。

 二人は孫と祖母ほどに年が離れている。といっても、彼らの間に流れている空気は、親愛の情とはほど遠い。

 やれやれ、また何を喧嘩しているのか。

 仲裁をしようと百瀬が、立ち上がったところで、植村がドアを開け放って職員室を走り出ていった。


 児童養護施設の夜は早く訪れる。子供たちは早く寝るようにしつけられているし、起きていてもすることがないからだ。

 子供の声のしない施設は、がらんとして暗い。非常灯の緑の光の周りに、闇がわだかまっている。


 植村は、百瀬は職員室と居室の間にある階段の一段目に、小さくなって座っていた。

 植村の茶色いポニーテールも、今は萎れて見える。

「どうぞ」

 缶コーヒーを渡すと、植村は泣きはらした顔を上げた。

 百瀬は壁にもたれて、もう一本のコーヒーの蓋を開けた。半分ほどのみ押したところで、植村が弱々しく言った。

「……すいません」

 缶コーヒーを握る植村の手のあどけなさが、百瀬の舌を刺した。

 米田はずっと施設勤めをしてきたベテラン中のベテランだ。慢性的な人材不足のこの施設で、いつも夜勤を務めてくれるありがたい存在だから、波風は立てたくない。

 かといって、植村のような若手を辞めさせたくない。福祉の仕事はとにかく職員が定着しない。福祉とひと括りにできないくらい、児童養護施設の仕事は重く、難しい。

 百瀬は、志を持った若者が、何人も辞めていくのを見てきていた。




 植村は、毎朝、幼稚園組の子供たちを送り届ける係だ。

 朝、出勤するとすぐ、子供たちを受け取って、他の職員と一緒に両手に連れて幼稚園に向かう。


 米田が夜勤をした次の朝は、子供たちはいつもより早く起こされる。

 布団から問答無用で出され、米田の準備が早すぎるせいで冷え切ったパンとジャムとフルーツの朝食を取り、施設の外に出される。

『早く早く』が米田の口癖だ。彼女の言うことを聞かなければ、子供たちは押し入れに入れられてしまうのだから、子供たちはみな急いで玄関を出る。


 昨日の朝、いつものように出勤し、申し送りを受けたばかりの植村は、子供たちに遅れ、慌ててスニーカーの踵を踏みながら外に出た。

 靴をはき直そうと、掴んだ子供の手を離して、塀に手をついたところで、ふと、植村は塀の上を見上げた。

 そこには金木犀の花が咲いていた。

 なぜだが、金木犀の花から、目が離せなくなった。途端に芳香が鼻腔を満たした。こんなに強い香りに、どうして気がつかなかったのだろうと、不思議になるくらい、強烈で甘い香りだった。

 においに当てられてか、先生、と子供に呼ばれ、くらくらと頭をめぐらした植村は、車道を挟んだ向こうに、幼稚園の制服を着た女の子を見つけた。

 女の子は母親らしき女性と手をつないでいた。細い首と小さな肩に、大きなカバン。

 丸い頭に、丸い額。

 前髪はきちんと眉のところで揃い、髪は二つに分けて、花の飾りのついたゴムで結わえられていた。

 先生、再び呼ばれて、植村は自分の手を引く子供を見た。

 ブラシで梳かしただけの、もつれの残る長い髪。あどけない頬に、寝癖のついた髪がジャムと一緒になってくっついていた。




 日勤と夜勤が交代する時間は慌ただしい。特に米田は、自分の仕事をさっさと終えて早く帰りたいから、無駄なことはしたくないと常日頃から言っていた。

 




「髪の毛を結んであげるくらい、いいじゃないですか……」

 蛍光灯が、ジジッと震える。かすかにリン、リンと虫の声がしていて、夏が終わったのだと教えてくれる。


 なんで、そんな時間がかかることわざわざやんなきゃいけないの、あんたが早く来てやんなさいよ。何人いると思ってんの。全員やるつもりなの。あの子たち、ちっともおとなしくしてないんだから。

 

 児童養護施設に生活する子供たちには、それぞれの事情がある。それぞれ事情があって、それぞれ足りないものが多すぎる。

 大人に逆らう子供もたくさんいて、子供は、天使でも弱々しい愛玩物でもないと、早々に思い知らされる。

 決して埋め切れぬ、小さくて深い穴。つぶらな二つの黒い目で、子供たちは大人を見上げる。

「小さいとき、うらやましかったの思い出したんです。いっつも、あの子は、髪の毛をきれいに結んでもらってて、いいなって」

 植村の手から缶を取って、百瀬は開けてやった。

「ほれ。

 思いつきで仕事を増やしちゃさ。職員一人で施設が回ってるわけじゃないんだからさ」

「そんなつもりじゃないです」

「自分がいいなって思ってたものをさ、与えてあげられるのが、大人なんだろうけど、大人は大きな駄々っ子じゃないんだ」

「でも、子供が喜ぶと思うんです」

「きれいに髪の毛を結んでもらえてるから、愛されてるってわけじゃないだろ?」

 百瀬が言うと、もう植村はそれ以上言えなくなって、黙り込んでしまった。



「はあ、しかし、金木犀か」

 百瀬が子供の頃はあたりに田んぼや畑がたくさんあって、季節ごとに違う姿を見せてくれた。

 金木犀、彼岸花、鬼灯、白粉花、つつじ、サルビア、木蓮、泰山木。

 グミを摘んで、ヘビイチゴを踏んで、れんげの蜜を吸った。

 目を閉じれば、一面のれんげの花が浮かぶ。いちめんの春。いちめんの花。においも、手触りも、確かにそこにあったはずなのに。


 子供の顔を見ることを忘れていないか。

 目の前にいる小さな存在が、どうしたら笑ってくれるのか、百瀬も若い頃はそんなことばかりを、考えていたのではなかったか。

 見せてやりたい。今まで見た、美しいものをすべて。


 春のけぶった空の下、れんげの花がどこまでも咲いている。

 堅く細い茎の緑や、あの蜜の甘さ、ミツバチの羽音。


 美しさは憧憬とともにあり、ひとを惑わしたり、忘れていたことを思い出させたりする。

 誰の心にもあると信じていたい。

 あの子の髪に咲いていた花のかわいさ、幼い日に握った手のぬくもり、抱きしめられていっぱいに吸い込んだ懐かしいにおい。あたえてやれれば。


 願いがかなうなら、どんなにいいか。悲しい記憶を全部、やさしい思い出に塗り替えてあげられれば、どんなにいいか。






「米田先生、植村先生のこと、若いのにしては頑張ってるって褒めてたよ」

「嘘だあ」

 勤務を間違えて無断欠勤をかましたり、書類の提出期限を破ったり、植村もまだまだ未熟だ。

 けれども、子供のことを思って怒ったり泣いたりできる大人なのだ。

「発想としては悪くない。勢いだけで言うんじゃなくて、必要なら必要な理由と、合理的なやり方を考えよう。言葉にして、相手に伝える」

 植村はうんうんと頷いて、コーヒーを持ったまま、べそべそと泣き出した。

 米田もやり方が古いだけで、悪意があるわけでない。世代の溝を埋めつつ、お互い理解し合うためにどう持って行けば良いか。

「結局さ、誰かのためにって言いながら、自分のためなんだよな。でもさ、仕事なんて、そんなもんだよ、な」

 セクハラか、一抹の不安よぎりつつ、百瀬は植村の頭を撫でた。




 冷たい冬の空気の冷たさを、肺が覚えている。

 喉に張り付く痛みも。

 めぐる季節めがけ、子供は広い田んぼをどこまでも駆けていく。

 鼓動が止まるまで、日々は続く。



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