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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

孤室

作者: 蒼尻 兎織

一章



 何者。愛しちゃったかもしれないってどういう意味?君はどうしてボクの目を見ると泣きそうになるの?ボクは生きている、けど本当の意味で生きれているのか。幸せと不幸せの意味がわからない。眼から溢れる液体の意味がわからない。身体のあれこれの意味がわからない。君がボクといる意味がわからない。でも、愛しちゃった、だけ知りたい。教えてほしい。ボクが何者かになれる気がするんだ。


 踊っている。腕が羽根と化したみたいに滑らかに曲げて伸ばしてを繰り返し、小さく円を描いて歩き回り舞っている。アルビノのような純白な肌が神秘的だということをボクは知らない。肌という存在はこの色が当たり前でそれ以外はない。頬に血色を感じないそれはこの世のものとは思えない白さだ。身体を捻るようにして腕を舞わせ、片足でバランスをとり、細目で指先を見据えて光を感じる。膝を草むらの地面につけて額もゆっくり地面へ下ろしていく。腕は羽根のように舞い上げたまま。

 鼻から深く息を吸って口からゆっくり吐きながら腕を下ろした。身体の中心あたりが低い音を鳴らす。食べたい。何かないか。

 フサッ。

 林の奥で音が聞こえた。口から透明な液体を垂らしながら音の方へゆっくりゆっくり近づいていく。野生という二文字が人間に似合っていいものだろうか、四足歩行で動く純白なそれは美しい架空の生き物のようだ。黒い何かがいる。鼠だ。鼠の死体だ。ああ、口から透明な液体が溢れる。食べたい。この膨らんだ部分をかじりたい。鼠の頭と尻を掴んで腹を食いちぎった。真っ白のキャンバスに真っ赤なインクが飛び散る。肉を噛み、血を吸い、骨だけ残して食べ尽くした。

「アウグア...ウウ」

 満たされる。川へ行き顔を突っ込み水を飲む。赤いインクが流れ真っ白の顔に戻った。頭を左右に振って濡れた髪や顔を乾かす。


「まるで野生の犬だな」


 目が覚めたのは午前十二時頃だった。白いふかふかの枕によだれの跡を作っていた。袖で口元を拭い、上半身を起こす。眠気が消えない細い目で周りを見渡す。見飽きた景色はおもちゃや本に囲まれた場所。僕の部屋だ。今年の秋で十四歳になる男の子。

「もうすぐ十四回目のお誕生日か...」

 冷房が効いた部屋がどこか寂しくなる。夏の終わりを見ているからかな、寒い。ぼうっとしているとスマホが鳴った。母さんからのメッセージだ。

『昼食できたわよ、着替えて降りてらっしゃい』

 僕の家は広いと思う。母さんと父さん以外見たことないしわからないけど、三階まであって大きい扉もいくつもある。わざわざ呼びに来て知らせるのも大変なのかもしれない。パジャマを脱いで白いシャツと黒いハーフパンツに着替え、冷房を消して一階のリビングへ降りる。

「おはよう母さん」

「おはよう、もうお昼よ」

 十人用の大きいテーブルの端に僕の昼食が置いてある。母さんは反対の三つ離れた椅子に座って、珈琲を飲みながらタブレットの画面を見ている。僕と目を合わせない。

 母さんは専業主婦でずっと家にいるけど僕と一緒に過ごす時間はほとんどない。お食事中にこうして座っていることはよくあるけど、隣に座ってくれることはない。母さんの匂いってどんなだっけな。

「ねえ母さん...たまにはさ」

「早く食べちゃいなさい」

 遮るように言われた。タブレットから目を離さず表情も変えない。母さんの笑顔ってどんなだっけな。ケチャップ多めのオムライスを頬張った。僕の好物はよく作ってくれる。でもさ、オムライスが好きだったのってもう六年も前の話だよ母さん。今の好物って何か知ってる?必要最低限の会話だけになったのはいつからかな。

「ケチャップ付いてるわよ」

 母さんが立ち上がった。もしかして、と期待したのが馬鹿だった。拭ってくれることなんてあるはずがなく、テッシュ箱だけ置いてリビングを出て行った。

「うん...」

 広い部屋に幼い声だけが残った。指で拭った手は血を触ったみたいに見えた、見たことないくせに。気持ち悪い。

 部屋に戻ると、また独りだということを実感する。大きな鏡の前に立ってみる。僕は何のために生きてるんだろうか。反転した世界にいる僕と指先で触れ合ってみたけど、無表情の彼は何も教えてくれない。冷たいだけ。鏡に映る僕と、母さんと父さん以外に唯一他人を実感できる存在は本だった。そこで生きる登場人物たちはいろんな人間と関わり、生き甲斐や意味をもって太陽を見てる。もちろん僕は太陽ってどんなものか知らないし、風景や建物の描写があっても想像できない。何も知らないから。母さんと父さんが許さないんだ、僕が外の世界を知ることを。外へ出ると危険だから、それしか言わない。人間は愚かだ、喰われるぞ。それが父さんが僕に教える外の世界。きっと外には怪物がいるんだと思う。怪物って何か知らないけど。

「入るわよ」

 母さんが紙袋を持ってドアを開けた。

「これ、昨日父さんが成海にって買ってきた本よ。ここ置いとくから好きに読みなさい」

 それだけ言ってまたすぐどこかへ行った。鏡越しに母さんを見ただけで、また目も合わさず会話が終わった。僕はまだ何も言ってないけど、母さんは僕の返事はどうでもいいみたい。母さんの熱を感じない。愛も感じない。

 紙袋を除くと五冊小説が入っていた。その中に『怪物』というタイトルの本を見つけた。これを読めば父さんが言っていたことが少しわかるかもしれない。その本だけ持ってベッドへ身を沈めた。仰向けになって物語の一行目を読みはじめる。

 殺人犯が狂ったように残酷で無惨な殺しをしたという内容で、結局よくある推理小説みたいに最後は無事解決して終わり。まるで怪物だ、と探偵が言ったセリフから抜き取ったタイトルみたいだ。怪物という概念が作者や物語によって違うせいで結局何かわからない。時間を忘れて一気に読み切ったら夜になっていた。この部屋には窓もないから日の光で朝と夜を判断できない。

『父さん帰ってきたわよ、降りてらっしゃい。時間よ、身体のチェック』

 母さんからのメッセージ。今日もこの時間がきた。部屋の明かりを消して父さんの書籍へ降りて行く。ドアを開けると父さんは椅子に座って、母さんは隣に立ってノートとペンを持っている。

「早くしなさい、父さんも暇じゃないんだ」

 生まれて物心がついた時からこの習慣は変わらない。これは健康状態を確認するために大事なことだと父さんも母さんも言う。

「父さん、もう脱ぎたくないです...」

「何を言っている」

「僕ももう今年で十四歳になる、裸になるの、恥ずかしいです...」

 昨日、本を読んで知った。思春期という年頃が人間にはあって、いろんなことに恥ずかしくなるものだと。最近身体チェックの時に顔が熱くなる感覚があったのを覚えている。

「誰でも子供のうちは親に見てもらうものなんだ、いいから早く脱ぎなさい」

「そうよ成海、あなたのためよ」

 父さんの眉間に皺が寄ったのを見逃さず、渋々僕は素っ裸になった。頭から足のつま先まで隅々までじっくり観察され、母さんはノートに何か書いている。あのノートを僕には決して見せてくれない。勝手に触ろうとしたらひどく叱られたことがある。腕を上げ、両脚を開き、口を開け、お尻を開き、性器を動かされ、足の裏を見せ、一連の流れを終えてようやく服を着れる。

「戻っていいぞ、早く寝なさい」

 また僕は独りの部屋に戻り、ベッドに身を沈める。


 木影で眠っていた。風に揺れる葉の音で目を覚ました。あくびをしながら身体を伸ばして、固まった筋肉が解れていくのを感じる。寝起きは川へ水浴びをするのが習慣みたいなもの。足から入り肩まで川に沈める。緩やかな波に流される心配もなく、優雅な朝だ。大きく息を吸い込み、顔を沈める。水の中で目を開けると魚を見つけた。気配を消して泳ぐ尾鰭を追う。止めていた息が口から泡となって溢れてしまい、魚が逃げた。食べるものを逃してしまった。


 水面から上がった真っ白の身体は水滴が光を反射させて輝いていた。美しい。これぞ人間の美だ。この子が俺の最後の生き甲斐だ。

 千隼明人は全国でも有名な研究者であり、教授でもある。普段は大学へ出向き教授の顔で過ごすことが多いが、ある場所では明らかに研究者でしかないのだ。あれを見つめる彼の狂ったような眼が物語っている。


「あなた、昨日の成海のチェックノート見ました?」

「ああ、まだだ。昨日はあの後すぐ寝てしまってね」

 土曜の朝、夫はリビングの広いテーブルで妻が淹れた珈琲を片手にスマホを見ている。妻は朝食を作りながら夫と話している。野菜を切る包丁の音。この広いリビングにはやはり音が騒がしく聞こえる。

「最近は仕事ばかりで私をベッドへ誘ってくれないわね」

 一定の間隔で響く包丁の音が遅くなり、寂しそうに言う。

「佐恵子、何度も言っただろ。もう無理だと」

「......ええ」

 珈琲を啜る音、包丁の音、四十代の男と女の低い声。誰が聞いても安らぐ夫婦の空気ではなくなっている。息子も感じとっているかもしれない。あの子は良い子に育ってくれている。昨日の夜を除いて、滅多に反抗もしないし素直で良い子。

「もう行くよ」

 いたたまれなくなったのか夫はビジネスバッグを片手に席を立った。

「今日は仕事はお休みでは?」

「教え子と少し用事があってね」

 料理の手を止め、夫の背中を見た。猫背になったもう若くはない夫。

「またですか...」

「浮気じゃないよ、そんな愚かなことはしない。安心しなさい」

 そういうことを心配しているんじゃないのよ。私たち夫婦はもっと深く愛し合っていたはずよ。いつから寝室も分けるようになったのかしら。例え若い女と会っていても、浮気の一つや二つ見逃すわ。それであなたがまた私を見てくれるのなら、知らない女の膣を知ったペニスでも大目に見るわ。


 母さんからのメッセージを見てリビングへ降りてきた。今日も変わらず白いシャツに青いハーフパンツ。この服以外違うデザインの服はない。下着も一種類しかない。真っ白のブリーフパンツ。どれもいつも新品みたいに綺麗なものがクローゼットに掛かっている。汗で黄ばめば買い直し、青が汚れれば買い直し、ブリーフもお股が黄ばめば買い直し、どれもすぐ新品になる。うちはお金に困ってないのだろう。優しい母さんが僕のために買ってくれる。そう、優しいから、母さん。

 リビングの扉を開けようとしたら勝手に開いた。父さんだ。

「おはよう、父さん」

「ああ」

 一度立ち止まり、僕の顔から足先まで見下ろしてから素気なく挨拶した。それだけ言うと父さんは出て行った。父さんと頻繁に会うことがないから、たまに見られると心臓が縮んだように感じる。父さんは僕と会うとちゃんと見てくれる。最近母さんとは目が合わないけど。

「おはよう、母さん。父さんどこか行くの?」

 包丁を持って、切り掛けていた野菜の残りを切っていく。

「知らないわ」

「そう...」

 それ以上何も話さず、朝食の完成を待った。今日も一番端の席で。髪の長い母さんの目が見えない。父さんと何を話したの?僕には言えないこと?僕がもっと幼い頃はよく家族集まって団欒したのに、広いテーブルが更に広くなったのはいつからだろう。今日は何して遊ぶの?って、何が欲しいの?って朝はよく母さんが話しかけてくれてた。これが欲しいって言えば次の日には枕元に置いてあった。甘えれなくなった僕が悪いのかな。

「...ありがとう」

 できた朝食を母さんは無言で僕の前に並べた。ああ、熱を感じない。箸を取った手がまたさらに白くなった気がする。母さんや父さんはこんなに白くないのに。


 四足歩行のそれは木々を避け、水溜りを飛び、走り回っていた。手足は泥が跳ねて汚れながら、瞬きもせずに息を乱して急いでいる。数百メートル移動した時近くで足音のようなものが聞こえて立ち止まった。動物の匂いがする。また鼠の死体だ、三匹。貪るように皮膚や肉を食いちぎり飲み込んでいく。少しの肉の欠片も残さず食べ尽くし骨だけとなった。

 食事を終えて木影で睡眠していると、腹痛に襲われ目を覚ました。

「ウウ...グア..ア」

 土の上に仰向けでお腹を抑えてのたうち回る。雑草を握り潰し、土を蹴り、嗚咽をあげて苦しむ。四つん這いで這いずり回り、液体のように柔らかく熱い汚物をお尻から溢れさせた。痕跡を残すようにして川へ這いずり、月明かりが照らす波へ嘔吐した。こんな姿でさえ、闇に在る少年は月から降りた何者かのように照らされ、美しく輝いていた。


 生き物がありのまま生き物である、自然体の美しさ。それを目にした男は、思春期の頃に女の子の裸を見たみたいに興味津々だった。


 夜、夫の寝室。

「あなたの夢に、私、いつまで付き合えばいいの?」

 夫はベッドで寝ている。もしくは寝たふりなのか、私に背を向けて顔が見れない。何年か前はこの寝室には私の居場所もあったはず。一人で寝るには贅沢な広さのベッド、あなたは私の身体を思い出すことはないのかしら。もはや今はそんなことは後回しに考えるべきだ。あの時、あなたが泣きながら夢を打ち明けた時、私がどれだけ唇を噛み締めたかわかる?拒絶や離婚よりも、あなたが離れることへの恐怖が私を呪ったの。あなたを側で支えられるならと、助手の道を選んだけれど、もうあれか何年経ったかしら。実の息子である成海の世界を閉ざし、あなたの物であるかのように見ている。あの子は何も知らないのよ。もしも全てを知ってしまった暁には、あの子はどうなってしまうか、想像もしたくない。

「......おやすみなさい」


 深夜二時を回った。僕は不思議な夢を見て目を覚ました。背中にひどい汗。つけっぱなしの冷房に身体が冷える。汗を吸ったシーツがまだ小さい背中を見せた。少し息が荒い。

 僕と同じくらいの裸の男の子が、変なことしてくるんだ。僕と指を絡ませたり、唇と唇をくっつけにきたり、お尻を触ったり。暴れても抵抗してもその子は力が強くて離れない。気持ち悪い、嫌だ。嫌だ嫌だ。抵抗すればするほど彼の息は荒くなり、よだれを垂らして何か言っている。何を喋ってるかわからない。動きを止めたかと覚えば歯を剥き出して首に噛みつこうとしてきた。大声で叫んだ瞬間に目が覚めて今に至る。

 もう一度寝ようとするとまたあいつが脳裏にチラつく。目が冴えてしまい、脳が起きてきて尿意が脚を動かせた。廊下に出ると下の階からドアが開く音がした。もう父さんも母さんも寝ている時間のはず、誰だ。トイレに行くことも忘れて階段をゆっくり降りていく。体重の乗せ方に全力の集中力を注ぎ込み、一段ずつ息を殺して踏み降りる。三階から二階に到着すると、父さんの寝室のドアが閉まりきっていない。トイレにでも行ったのかもしれない、少し待ってみよう。階段にしゃがみ、身を潜める。自分も部屋を出た用事を思い出してお股がむずむずする。さっきの音は聞き間違えだったのか、隙間風で何か物が音をたてただけなのか、数分経っても何も音がしない。もう戻るか。階段を二段ほど上がった時。

「なにしてるの?」

 振り向くと暗闇に微かに浮かび上がる母さんが立っている。ホラー映画の中に飛び込んでしまったかと思わせた。あまりの驚きに腰の力が抜けて尻餅をついた。トイレに行っておけば良かったと思っても遅い、水気が暗闇でもわかるくらいピシャリ、と響いた。温かい感触がパジャマを伝って広がっていく。

「あ...ご、ごめん、母さ...」

「成海?」

 眩しい。母さんが階段の明かりをつけた。僕を見るなり、なにしてるの?ともう一度聞いた。下半身が濡れていることへは触れずに。

「いや、これはあの、おトイレに...行こうとしたら...」

「まぁいいわ、すぐ部屋へ戻りなさい。私が片付けてあげるから、脱いでここへ置いて部屋行きなさい」

 パジャマとブリーフを置き、大事なとこは両手で隠して階段を小走りで上がった。階段の途中で母さんが何か呟いた。

「こんなとこあの人に見つかったら...」

 小声で聞き取りにくかったが、振り向いて聞き返すことはせず恥ずかしさのあまり急いで部屋に戻った。恥ずかしかったはずなんだけど、何故か少し嬉しかった。母さんが母さんらしいことをしてくれた気がしたというか、失敗したことだけど、甘えれた気がした。部屋のドアに背中を預けて小さい頃を少し思い出した。


 千隼成海、六歳。この頃は母さんと毎日よく話していた。

「お野菜も残さず食べれてえらいわね」

 夕食を母さんと隣の椅子に座って並んで食べていた。

「うん、かあさんのご飯おいしい」

 この頃から父さんは家にいないことが増えた。お仕事だから仕方ないのよって母さんによく言い聞かされてた。でも父さんがいつ帰ってきてもいいように、ご飯は父さんの分も作ってあってラップで覆われてテーブルに置かれていた。母さんは優しかった。僕の知ってる母さんはこの頃の母さんだ。今の母さんも好きだけど、笑ってない。何処を見ているかわからない。

「母さんね、今日は午後から用事があっていないの、いい子でお留守番しててね?」

 頭を撫でてくれながらそう言った。母さんに頭を撫でてもらうの好きだ。安心する。帰ってきたらまた撫でてもらえばいい。いい子でいなくちゃ。

「うん、わかった」

 地下室で待っている夫の元へ行く。今日は大事な話があると言っていた。ようやくお前に話す時がきた、と。

 夫は毎日大学の教授と研究で忙しい。彼と結婚する時、お前を幸せにするとは言わなかった。俺の夢を側で支えてほしいと言った。俺を幸せにしてくれ、と捉えられるようなプロポーズをする男性が彼以外にいますか。正直当時は呆れたけど、私も彼と居たいという気持ちは一緒だった。

 薄暗く細い階段を降りて行き、突き当たりにある黒いドアを軽くノックしてから開ける。

「お待たせ、話ってなに?」

 何十個ものモニターの前に置かれた椅子に腰掛けている夫の後ろ姿。グラスの中の赤ワインを揺らしている。

「ようやく...ようやく生まれたよ...」

 何も言い返せなかった。まだその姿は見ていないけれど、何かは知っていた。彼の夢だ。恐る恐る夫の背後へ歩いて行き、何十個ものモニターを一つずつ確認していく。森の中が映されている。一体どれくらいの広さなんだろう。目を凝らしていると、一つのモニターに白い生き物がいた。それは見覚えのある形をしていたけれど、明らかにこの世のものとは思えない美しさだった。驚愕した。呼吸の仕方を忘れてしまうほど、息を殺してそれを凝視した。夫を見下ろすと、涙を流していた。あの子を産んだ日よりも。

 耐えられなかった、私の涙も言うことを聞かない。鼻を啜らず早歩きで研究室を出た。あの子を、あの子を、成海をなんだと思ってるのよ。私しかいない、私があの子を守らないと。




二章


 

「母さん...?泣いてるの...?」

 朝食ができた、といういつもくるはずの母さんからのメッセージが一時間経っても二時間経ってもこなかった。変に思った僕はリビングまで降りていくと、母さんがキッチンの下でゴミ箱を前に蹲っていた。

「あ...成海...」

「どう、したの...?」

 何か持っていた物を焦るようにしてポケットにしまった。ビニールの音だ。

「ううん...なんでもないの...」

 顔を見せないけど明らかに泣いている人の声だ。母さんのこんな声はじめて聞いた。きっと僕がここに立っている限りそこから動けないんだろう。母さん優しいから、僕に心配かけたくないんだ。きっとそうだ、なら僕は。

「そっか......ご飯、待ってるね。母さんの美味しいご飯」

 母さんがエプロンを強く握りしめた。震えてる。堪えてるんだ。僕、なにか嫌なこと言っちゃったかな。それ以上何も言えなかった。今日はキッチンに背を向けて座ろう。いつもは端の席で、料理する母さんが見えるようにそこに座っていたけど。

「ごめんね、もうちょっと待って...」


 朝、まだ成海が降りてこない時間。夫が珍しくキッチンに入ってきた。

「佐恵子、今日からこっちの薬を使ってくれ。今までのじゃ効果が薄い、待ってられない」

 小分けされた粉薬が大量に入ったダンボールを床に置いた。

「お前も知ってるだろ、あの美しい白い肌を。成海はまだまだだ」

 私が唖然としていると、もう仕事に行くから、とリビングを出ていった。やっぱりあの人は成海を愛していないんだわ。夢に囚われてそれだけを生き甲斐に生きている。

 夫に言われた通り、私は成海が食べるものに薬を混ぜて食べさせている。夫が作った肌全体の色素を抜いていく薬。それは尋常性白斑のそれとは違い、自然な形で全体的に白くなっていく。もう既に数年前より明らかに白くなっている成海の身体。身体チェックの時間に見るたびに驚く。毎日少しずつ、あの化け物みたいになっていく。

 床に置かれたダンボールは隠し、新しく用意された薬をスープに混ぜようとする。でも手が動かない。封を切って入れて混ぜるだけ、それだけ。いつもやってること。おかしいな、震えて封を切れない。あれ、手に雫が。視界がぼやける。さらに進行が早くなったら、あの子が何かに気づいたらどうしよう。ああ、力が抜けて立っていられない。早くご飯作らないと、早く涙を止めないと。

「母さん...?泣いてるの...?」

 あれ...いつの間にそこにいたの。足音にも気づかないなんて、どれくらいここで泣いてたのかしら。こんな物ゴミ箱に捨ててしまえばいいのに、父さんから見離されるのも怖くてそれもできない。

「あ...成海...」

 こんなぐしゃぐしゃに泣いてる顔見せられない。できるだけ普段通りの声で喋ろうとするけど震えてしまう。

「どう、したの...?」

「ううん...なんでもないの...」

 急いで薬をポケットに押し込む。こんな物見つかってはなんて説明すればいいか。あの子には普通に、普通に、普通の生活を送らせなきゃ。学校にも行かせず外も見せず、よく普通なんて言えるなと思われると思うけど、これ以上異常な目に合わせたくない。

「そっか......ご飯、待ってるね。母さんの美味しいご飯」

 ああ、ごめんね。ごめんね。普通のご飯作ってあげられなくて、ごめんね。できるだけ美味しいご飯作るから、薬、ごめんね。成海はいい子に育ってくれてる。きっと私達は上手く騙せてるのね、この家の中だけが当たり前の現実。外の世界はあの子にとって空想の世界。

「ごめんね、もうちょっと待って...」

 白い粉薬がスープに溶けていく。


 その日の夜。昼寝をしていたら寝過ぎて夜になっていた。デジタル時計の青く光った数字が二十時を表していた。僕が唯一夜だとわかる物。とりあえず部屋の明かりをつけよう。お腹すいた。僕が夕ご飯の時に寝ていると、ラップだけかけてテーブルに置いてくれてる。それをレンジで温めて食べる。よくあることだ。また母さんと隣でご飯食べたいな。もう大きくなったから駄目かな。まだ起ききれてない頭を動かして部屋を出ようとした時、誰かが鏡に写っている。

「え......なに、これ...」

 そこに見えるのは僕と同じ動きをする、白い顔と手。視線を下に落とすと白い裸足。僕だ。ベビーパウダーを体全体に塗したような、それくらいの白さに見える。恐る恐る鏡の前で服を脱いでいく。乳首が際立つ胸、生えきっていない陰毛も際立ち、それ以外がすべて白くなった肌。異常に感じるそれに、何故か目が離せなかった。自分の裸でしかないはずなのに、綺麗だった。たしかに最近肌が白くなったなとは思っていたけど、僕が外に出たことがないからだと普通に思っていた。太陽を浴びると肌が焼けて黒くなるらしい、それは本で知っていた。でも昨日と今日でこれだけ変わるものなのかな。とりあえず服を着てリビングに行こう。お昼も食べていないからお腹が空いて倒れそうだ。このことは母さんに聞けばいい。

「母さーん」

 リビングには居ない。一階の廊下に出てもう一度母さんと呼んでみたけど返事はない。母さんの寝室は二階にある、もしかしたらそこにいるのかもしれない。もう寝ているのかもしれないし先にご飯を食べよう。ラップに包まれた夕食は唐揚げに白ご飯、サラダにオニオンスープ。

「いただきます」


 川で水浴びをしている。光る水滴がさらに身体を美しく魅せる。何かを食べている時は野生の獣そのものだが、こうして自然の中で生きているそれは本当に美しい。その野生らしさも全てが尊いのだが、日の光と月の光を浴びると神秘的な輝きを魅せる。以前の這いずり回る脱糞姿も自然ならでは芸術。真っ白のふんわり柔らかそうな美しいお尻が、生きているという証の自然な排泄、それで滴り落ちる汚れなど芸術そのもの。世の人間はこれを汚いと言う。この子はこんなとこで育ちながら、少し人間らしいとこがある。水浴びで身体を洗うのだが、その姿は人間がシャワーを浴びているように手の平で優しく肌を擦る。脇や性器、肛門もしっかり洗っている。何も教育してないのに、親の姿を見たわけでもないのに、自ら学んで生きる術を身につけた。素晴らしい。まだまだ成長していくだろう。


「ごちそうさまでした...」

 唖然とした。オニオンスープの底の方に溶けきっていない謎の白い粉が沈んでいた。塩や胡椒が残っているだけだと思ったけど、一口それだけを掬って舐めると変な味がした。飲んでいる時は混ざって気づかなかったけど、なんだこれ。

 後ろから何かが落ちる音が聞こえた。知ってはいけない事を目の当たりにしている気がして、焦って振り返ると母さんが鞄を落としている。僕を見つめて立ち尽くしていた。

「......成海」

 久しぶりに目が合った母さんは、怯えるように青ざめた顔だった。

「母さん、見てよ、起きたらからだが白くなってたんだ」

「うそ......」

 覚束ない危なっかしい歩き方で近寄り、僕の前で膝をついた。瞬きも忘れているその目の中に白い僕がいる。温かい母さんの手が僕の頬を包む。久しぶりの母さんの体温を肌で感じれたのに、怖い顔をしている。

「なに、僕、病気なの...?」

 僕の声はどこへも届いてないみたいに消えた。

「成海!」

 父さんがリビングに入ってくるなりいきなり僕の名前を叫んだ。叱るような声ではなく、歓喜の声に聞こえた。ビジネスバッグを床に乱暴に置き、父さんも僕へ駆け寄ってくる。母さんを左手で跳ね除けて僕の肩を掴み、上から下までまじまじを見つめる。

「おお...素晴らしい...」

「母さん!」

 床へ転がった母さんはそのまま起き上がろうとしない。全身の力が抜けきったようにうつ伏せになり泣いている。

「成海、今すぐこっちへ来なさい」

「え、なに父さん、痛い」

 力強い手で腕を掴まれ別の部屋へ引っ張られて行く。書籍だ、この部屋にくると何かわかる。きっと脱ぐんだ。

「身体を見せなさい」

 やっぱりそうだ。

「やだ...」

「成海、お前は父さんに逆らう権利などない。早くしなさい」

 誰だ、この人。まるで別人だ。父さんの顔ってこんなだっけ。少し荒い呼吸、前のめりの姿勢、怖い。この白い肌と何か関係あるの?と聞いてもまともに答えない。抵抗を続けていると無理やり服を掴まれた、その時。

「やめて!」

 ドアを力強く開けて叫んだのは母さんだった。父さんの手と服を引き離し、僕を抱きしめて遠ざけた。母さんの中、久しぶりだ。強張っていた緊張が少し解れていく。抱き枕や布団を母さんの代わりにして寝ていた、あんな偽物とは違う。最近は僕と目も合わせなかったけど、やっぱり母さんの中は暖かい。

「佐恵子、何をしてる...お前が邪魔をしてどうするんだ」

「もう...見てられない......限界...」

 さらに強く抱きしめてくれた。また母さん泣いてる...母さん...母さん、母さんを。

「母さんを泣かせるな!」

 初めて親に叫んだ。

「今朝、母さん泣いてた。その時も泣かせたの父さんだろ!」

「もういいの!やめて!」

 母さんが僕の口を手で覆った。強く、固く、抱きしめた、何かを押し殺したいみたいに。

「成海、まだ気づいてないのか。お前を白い身体にしたのは母さんだぞ」

「......え?」

 え...なんで...母さんが。母さんの手が解けていく。もはや母さんか父さんかよりも、何の目的かわからない。力が抜けたその手が、僕の白さを強調した。

「佐恵子、よくやった」

 もう僕に触れることもなく、俯いて壁に身を寄せている。

 僕は逃げた。もう何もかも怖くなった。いつか昔みたいに家族関係が戻ると信じていたのに。父さんはずっと前から愛想がなかったし、母さんのことをもう愛していない人なんだと思っていた。母さんの体温はたしかに暖かったけど、胸の奥に届く熱い感情は感じなかった。火傷するくらいの愛が欲しい。自分の部屋に駆け込み、ドアの前に机やカラーボックス、椅子を置き、ベッドも移動させ即席鍵を造った。僕の部屋に元々鍵が付いてるわけもなく、大人の力でも難しいくらいに大きい物をとにかく雑に押し詰めて隠れ家にした。部屋の角に腰が抜けたようにしゃがみ、周りにあったおもちゃなどの小物もドアに向かって投げつけた。閉じこもってすぐは父さんがドア開けようとしたり叩いたりしていたけど、一切反応を見せないでいると諦めたのか音はなくなった。月と太陽を見たことがない孤独感に息ができなくなりそうだ。


 十月。秋という季節らしい。外には綺麗な紅葉が人を魅了するんだとか、僕からすれば幻想だけど。部屋に閉じこもった九月中旬。あれから相変わらず今も引きこもり、食事は母さんがドアの前に置いてくれたご飯を食べて、食べ終わった皿だけドアの前に出してまた家具で閉める。そんな生活を送ってもうすぐ一ヵ月が経つけれど、親からの声をほぼ聞かない。唯一母さんからのメッセージが一件スマホに届いただけ。

『ごめんなさい』

 デジタル時計の青い光だけが部屋を照らしている。ぐしゃぐしゃだ。散らばった物で足の踏み場も探さないといけない。このパジャマもどれくらい洗濯してないのかわからない。でも自分の匂いが染みついた、誰が嗅いでも洗っていないような匂いが嫌いじゃない。むしろ好きで、袖を鼻に押し当てて深呼吸をすると安らぐ。自分が自分の味方でいるんだと、自分の存在を確認できるからかもしれない。身体は深夜、親が寝たであろう時間にこっそりシャワーを浴びて綺麗にしているから清潔は保てている。浴槽の横にある縦長の鏡に自分の裸が写るたびに白いな、と口から溢れる。こんな生活をして、あと二時間で日付が変わり十四歳になる。誕生日、今年も大して祝福はないんだろうな。何年か前、母さんがまだ僕に優しかった頃は一緒にホールケーキを切り分けずに食べたけど、もう五回も誕生日を一緒に過ごしてない。今ではただ広いテーブルにホールケーキが置かれていて、誕生日おめでとうとだけ書かれた手紙があるだけ。バースデーカードのような紙ではなく、白紙のメモ用紙を一枚千切って書いただけのもの。もう今では慣れたし、きっと年齢を重ねるとこうなるのが普通なんだと言い聞かせてきた。もういいんだ、思い出だけで何度も鮮明に蘇る。何度も読み返せばもう一度その世界に入り込める本のように。

 お腹すいた。きっともう用意されてるであろうホールケーキを冷蔵庫に取りに行こう。部屋を明るくして歩ける場所を探しながら物を飛び越えて、家具を退けドアを開けた。静かな廊下を音を立てずに裸足でぺたぺたと蛙が歩くように慎重に動く。一段づつ階段を降りきると、正面にリビングのドアが見える。普段と何も変わりないはずの光景に違和感を感じた。壁が......ずれている。階段の壁にしゃがみ、目を凝らしてみると、薔薇の花柄模様の茎が千切れていることに気づいた。いや、それだけじゃない。奥にずれているんだ。そう、入り口のように見える。気になり一歩踏み出そうとした瞬間足音が近づいてきた。

「それじゃあ、また連絡待ってるわ」

 知らない女の人だ。

「ああ、いつもすまない。送るよ」

 父さんもいる。誰なんだ、あの人。赤いドレスのような服装の髪の短い女性。ずれていた壁が何もなかったかのように綺麗に元に戻り、二人は玄関の方へ向かった。二人とも外へ出ていったようだ。母さんは寝ている。父さんは知らない人と何処かへ行った。しばらく帰ってこないだろう。空腹感も忘れ、心臓だけが忙しく動いている。あの先に何があるのか知りたい、好奇心で頭がいっぱいになった。


 壁を押すとギシギシという壁らしい音はなく機械的な音で簡単に開いた。隠しドアになっている部分が奥へ下がり、右へ引くと薄暗い下り階段が続く道が現れた。足音が響く地下階段、誰かに聞こえてるんじゃないかと緊張感が一歩降りるたびに増していく。鼓動の速さと反対に脚は重く遅くなっているのがわかる。僕にとって家の中以外を見るのは全てはじめてのことで、恐怖も混じり焦りが汗になって不快なことこの上ない。一番下に辿り着くと黒いドアだけ、天井にぶら下がった小さな暖色の電球に照らされていた。埃っぽい空気に鼻がむずむずする。ここまできて、このドアの奥に誰かいたらどうしようと今更考えはじめ、出来るだけ音を立てないように力加減を意識して手の全神経に集中しながら恐る恐る開ける。中には誰も居なかったことに安堵し、見たことない機械だらけで眩しい。何十個ものモニターにはほとんど動かない映像が映されていて、反対には薬品や大きい冷蔵庫が並んでいる。決して広くはない部屋は機械や物で溢れていて狭くなっている。奥へ歩き進めると、ベッドやサイドテーブル、何か食べたあとのお皿、大量のノート、壁に貼られたルーズリーフ、ここでも生活されていることがわかる物が置かれている。でも結局ここは何をする場所なのかさっぱりわからない。誰かと出くわさないようにもう戻ろうかと思った時、奥のラックに隠れたドアがあることに気づいた。破れたノートや書類が乱暴に置かれたラックを退けて、ドアのぶを握り思いきって押し開けた。そこは僕が憧れた景色が広がっていた。外だ。自然だ。森だ。知らない匂いだ。裸足のまま土や草を踏み歩いて、空を見上げて深く息を吸い込んだ。これが外の空気。もう外は夜で暗くなっているが、月明かりが眩しいくらいに自然界を照らしていて木や葉の色が微かにわかる。ああ、綺麗だ。さっきまでの不安や緊張感は消し飛んで、高揚感や好奇心だけが心を満たし、思わず走り出した。はじめて感じる土や草を踏む感触、柔らかい地面。面白い。横切る太い木々に指先で触れながら辺りを駆け回った。感情と思考がぐちゃぐちゃに混ざり合って、笑い声を上げながら涙が止まらい。なんで泣いてるんだろう、なんて今はどうでもよかった。ただこの瞬間が尊く気持ちがいい。一瞬の瞬きも勿体ない。普段運動しない身体を急に動かしたせいか脚がもつれて転んでしまった。そのまま起き上がろうとはせず、上がった息を落ち着かせるため枝や葉の隙間を覗く夜空を眺めた。

「綺麗......」

 初めて見るそれは三日月だった。冷たい土に沈むように呼吸が落ち着き、いつまでも見ていたかった。このままその光で溶かされてしまうか、吸い上げられて異世界へ救ってほしいとさえ思ってしまうほど。

 睡魔が襲い、ここまま眠ってしまいたいと思った矢先、足音が邪魔をした。反射的に音の方へ振り向くと、月明かりを反射するほど白く美しい裸の人がいる。川に膝まで入り、水浴びをしたり月を見上げたりしている。

(あ、男の子だ...)

 体を横に捻らせた時に揺れたのだ、男の子の証が。遠くからだけど、自分以外のそれを見たのははじめてで頬が熱くなる。でもそんな熱は一瞬で冷めることになった。天を仰ぐその顔は、紛れもなく僕の顔だったのだ。似ているという言葉では的外れなほどそっくりで同じなのだ。よく見ると身体つきや身長まで同じに見える。そして、白い肌。僕の肌が変わったあの夜の時のように、彼の白い肌からも目が離せなかった。指先から腕を滑らかに瞳が追い、背中からお尻へと曲線美に見惚れ、腿から足先までゆっくり視線を落とし再び見上げると、揺れる性器を見つめてしまった。自分の裸と同じはずなのに、こんなにも美しい。

「あ...」

 彼と目が合った。

「え、なに?」

 何か言っているみたいに口が動いている。

「アアグ...ウアァ」

 何を喋ってるかわからない。鳴き声みたいだ。

 裸の彼と見つめ合いながら、勃起した思春期の性器に気づかないまま僕は十四歳になった。

 

「奥さんとはあれからどうなの?」

「特に変わりないさ」

 送るよ、と言って玄関を出てすぐ朱美を助手席に乗せた。音楽は流さず車のノイズだけで夜道を走る。横に座る女に恋愛感情などないが、夜遅くに女ひとりで駅まで歩かせるには気が引けた。暗い所が苦手なこいつの性格をよく知る分余計だ。

「あまり関係を曖昧にしすぎても後で困るんじゃない?」

 適当に愛想笑いだけ返してやり過ごした。余計なお世話だ、今はもう仕事だけの付き合いの人間にとやかく言われたくない。言われるまでもなくとっくに俺ら夫婦は曖昧だよ。佐恵子の昔の顔を思い浮かべ、子供の顔は生まれた当時の赤ん坊の頃だけ浮かんだ。成海の顔、今はどんな目してるんだろうな。あいつの感情に興味などないが。

「駅まででいいわよ?」

 窓から視線をこちらに向け、道が違うことに気づいたらしい。

「いいよ、家まで送る」

 昔の記憶を無理やり引っこ抜かれた気がして、まだ暗闇に身を預けたい気持ちになった。嫌味な女だ、まったく。

 成海が無事産まれたと聞いて、確かに当時の俺は心から喜んだ。半分は夢のため、半分は父親として。複雑な気持ちではあったが、母子共に健康ですと背景に聞こえる声は霞んでいき、産まれたばかりの成海の顔を見た光景、今でもそれだけは記憶から消えない。いくら研究に命を捧げたとしても、この子があれのベースとなるのだと歓喜しても、消えない。佐恵子が俺に向けたあの軽蔑する目、成海を何だと思ってるのと言われた時は怒りが湧いた。もちろん息子だという存在には変わりないし、何しろ佐恵子は俺の夢を支えると言って結婚したのだ。それを忘れたのかと叫びそうになることが多々ある。

「明人、もうここでいいわよ。ありがとう」

 気づけばもうそんなとこまで走らせていた。朱美の声で我に帰る。

「ああ、じゃ、気をつけてな」

 改めてありがとう、と軽く会釈してドアを閉めた。車の窓越しに女の後ろ姿を見送るなんて佐恵子の若い頃以来かな、今日は変なことばかり思い出す。帰ろう。

 

 千隼明人、十七歳の夏。

「ねぇ...ここ、反応しない?」

 エアコンが壊れ、扇風機だけで暑さを凌ぐ八月の夏休み。両親が外へ出ていることを良いことに、部屋へ来た恋人の朱美が下着姿で上にのしかかり俺の股間を指でなぞりながら、寂しげにそう言った。

「だから、何度も言ってるだろ。人の体を見ても興奮しないって」

 天井だけを視界に入れ、暑苦しいとしか思えない状況に脱力している。

「もう付き合って二ヶ月も経つのに、チューしかしてくれないじゃん」

「チューしてるじゃん、愛情表現だろそれも」

「そうじゃなくてさ...」

 正直誰かと唇を重ねることも嫌だった。けれど恋人という形になった以上、それくらいはと使命感でしていた。他人の身体など、何も感じないし愛せない。

「女の子が目の前で下着姿だよ?しかも彼女だよ?男の子ってもっとがっついてくるもんじゃないの?」

 膨らんだ胸を押し当て抱きつきながら縋ってくる。暑苦しい。女体はやけにひっつく。

「知ってるだろ...俺、自分の身体にしか反応しないって...」

 付き合う前から言ってあるはずだ。俺は自分の身体に性的感情を抱き、鏡の前でしか達したことがない。自分を愛している。誰にも奪われないし裏切らない。自分の癖や形、誰よりも知り尽くしているし、誰よりも魅力的。何故他の人がそうならないのか理解し難いほどだ。恋人が浮気をしただの怪しいだの、自分だけを愛せばそんな不安はないのに。

「うん......でも、いつかはって思ってた...」

 ごめんな、なんて突き放した気がして言えなかった。紙屑をゴミ箱に放り投げるようなものだ、酷すぎる。


 唾液に溺れそうだ。荒い息遣い、乱暴に回る舌、溢れる唾液に息をするのが精一杯。苦しいのに、甘い......脳内まで唾液でびちゃびちゃに浸ってしまったような快感が、気持ちいい。同じ形の舌に同じ形の唇、何もかも同じなはずなのに味が違う。頬の内側に舌をねじ込まれ、溢れた唾液がやらしい音を響かせて唇から耳の下へ垂れていく。冷たく乾きはじめる唾液がそよぐ風を涼しく感じさせるが、熱を帯びた体を夜のせいにしたい僕らは、今夜を熱帯夜と呼んだ。



三章



 眠りから覚めた。照りつける太陽の日差しに手をかざし、指の間から溢れる光に瞼が抵抗する。

(たいよう...)

 こんなにも眩しい。あんなに夜を萎びやかにした月は嘘みたいに見えなくなり、別世界へと変貌した。木々や雑草の緑も鮮やかに視界一面に広がっている。夜では気づかなかった。白色の蝶々も飛び回っている。腕を空へ伸ばしながら欠伸をした。空気が美味しい。隣を見下ろすと、すやすや眠っている裸の少年がいる。頭痛と共に昨日の記憶が蘇った。

 見つめ合った僕らは数秒間動かず、お互いの様子を窺っていた。相手は人間であるとわかっていながら、下手に動けば殺されてしまうと何かを察した。それは野生という二文字が心のどこかで浮かんだからかもしれない。だが先に動いたのは彼の方だった。両手を地面につき、猫みたいに四足歩行でこちらへ近づいてくる。その姿を見て確信した。野生だと。僕の目から視線を逸らさない。まっすぐ見つめる彼の、夜の深い碧さを秘めた眼に吸い込まれそうになった。逃げようとしてみるが、恐怖に腰が抜けて力が入らない。もうすぐ側まで来た彼は、よだれを垂らして僕の唇に視線を落とした。

「なに......な、」

 濡れた唇に声を塞がれた。キス。口づけ。チュー。それらを連想する言葉が次々と頭を満たした。荒い息遣い、乱暴に押し倒れられる。性の欲に理性を飛ばし、口から離れない。暴れている、と表現したくなるようなそれはまたしても、野生だった。股関節に硬いものが触れている。雌だと勘違いしているのか、欲情しているのだ。僕は男女の性行為など見たことがあるはずもなく、形でそれと認識するのは難しいはずなのに、本から得た知識でそれの一つなんだとわかった。薄目を開けると、目を瞑った僕の顔がある。長い夢を見ているんだろうか。思い返せば父さんや母さんが僕のことをここまで呼びに来ない。僕は勝手に侵入しているんだ、怒られてもおかしくないはずなのに。長いキスに意識が朦朧とし、そこから記憶はない。

 彼も目を覚ました。上目遣いで僕と目を合わせ、敵意がないとわかったのか身体を起こしてどこかへ歩き始めた。やっぱり四足歩行なんだ。

 彼はここで何をしてるんだろう。何故ここで生きてるんだろう。聞きたいことは山ほどあったが、昨日の記憶では言葉が通じなかった。何より得体の知れない生態すぎて怖さが勝つ。僕にとって人間というのは家族の他に、あの知らない女の人とこの裸の彼のみなのだ。そのうちの一人は自分と全く同じ容姿ともなれば、人間の生態すらほぼ知らないようなもの。でもそんな僕だからこそ、犬や猫みたいな野生の人間の彼に対しても受け入れる要領が頭に残っているのかもしれない。

 一定の距離を空けてついて行った先には川があった。最初に彼を見た時と一緒の川だった。猫みたいに頭だけ下げて水を飲んでいる。朝になり明るくなってからというもの、目線のやり場に困ってしまう。猫みたいなそのポーズも、四つん這いでいるせいでお尻の穴や性器が見えてしまうから、状況だけ確認すると目を逸らした。僕も昨日の夜から何も飲んでいない、喉がからからだ。少し距離を空けて川へ行き、両手で水を掬い上げて啜るように飲んだ。

「美味しい...」

 森に流れる水だからか、水道水のような味とは違った。横から視線を感じる。僕の行動を不思議そうに見ている。

(彼は手を器用に使えないのかな)

 猫と仮定するとたしかに出来なくても不思議じゃない。けど僕と同じ身体なんだ、その腕は脚にしちゃ勿体ない。その興味を逸らさないように、両手で水を掬って捨て、掬って捨てを何回も繰り返し見せてみた。すると彼は、膝で体重支え自らの手の平を眺め、不器用に作った手の器で水を掬って見せたが、少ししか平に残らない。不服そうにこちらを睨みつけた。その顔が可愛らしく見えて、きゃははっと黄色く笑った。


 朱美を送り、帰宅してすぐに研究室へ向かった。佐恵子はあれ以来、ほとんど顔を合わせなくなった。わざわざ自ら会話を弾ませようとしていない自分も人のこと言えないが、このままでもいいと放置して楽している自分もいる。

 壁の隠しドアが開いている...どういうことだ。佐恵子が来たのか、だがあいつはもう寝ているはずだ。早歩きになり急いで階段を下り研究室に入ると、ラックが移動していることにも違和感を覚えたが何より驚いたのが、モニターに二人映っている。成海が、いる。モニターの映像を拡大すると、二人が隣り合わせで眠っているではないか。

「なぜ......ここがわかった...」

 ただの壁に見えるように完璧な細工をしたはずだ。心臓が暴れ出し汗が溢れる。何より驚いたことが、成海を敵視していないことだ。与えている食べ物はほとんど動物であって、獲物と認識するものだと思っていた。奴は人間を見たことがないはず。いつか人間を目の前に与えたらどういう反応するのか検証しようとしていた。手間が減ったと言えば良く聞こえるが、成海が自らここに入ろうと思うとは夢にも思わなかった。拡大され荒くなった映像を目に焼き付けながら、過去にフラッシュバックした。


「明人がよく言ってる夢って、何のことなの?」

 自分の身体にか反応しないと言った十七歳の夏休み。下着姿のまま俺の上に乗り、会話を続けた。

「うーん...俺が、もう一人この世に産まれることかな...」

「なにそれ」

 朱美は呆れたように言った。お互いの汗がシャツ越しに染み合って気持ち悪い。

「さっきも言ったけどさ、俺、自分の身体にしか反応しないんだよ。だから、もう一人隣に自分が居たらなって夢見るんだ」

 天井に未来を思い描いてみるが、あまりに非現実的すぎて程遠い。この為に猛勉強して研究も独学で学び、いつかはって未だに夢見てる。

「そしたら私の存在はどうなるのよ」

 どうなるかな。そんなこと、正直どうでもよかった。ただ唯一誰にも渡したくない朱美の魅力が一つある。透き通るような真っ白の肌。性的興奮はないが、芸術を感じるし憧れた。

「俺の夢、背中に文字なぞるから当ててみて」

 赤いブラジャーが際立つ白い背中に、人差し指で夢をなぞった。初めて誰かに打ち明ける名前。

「ミラー...セックス...?」

「正解」

 そう、鏡みたいにもう一人の自分とセックスすること。性欲が盛んな思春期の頃から、自慰行為をするなら大きな鏡の前だった。そっちの反転世界から出てきてくれよ、と何回願ったかわからない。鏡越しに指先をくっつけ合い、鏡越しに唇をくっつけ合い、冷たく固い感触しか伝わらない寂しさに涙した夜も数えきれない。


 ああ、ついに。ついに、ここまできたんだ。  

 研究を進め実現した時にはすでに歳をとってしまった。あの青い美しさがもう自分にはないのだと、再び鏡の前で絶望した。老いた肌に褐色肌。自分で自分を愛していたし、それ以外の恋愛は自分にとってあり得ない。それは変わらないが、俺の芸術が許さなかった。ようやく夢を叶えられる技術が備わったんだ、それだけでは勿体ないと考えはじめ、美貌の女を探し求めた。自分の息子を中性的で整った美しい容姿で産むため、努力を惜しまなかった。仮に産まれてきた赤ん坊が娘だった場合、息子が産まれるまで子作りしただろう。その為なら何度でもセックスしたくなるような理想の夫を演じてみせる自信もあった。

 佐恵子との間に産まれた成海は、物心がつく頃には美少年だとわかる顔立ちになっていた。その顔や身体と全く同じ人間を造り、俺の夢を息子で叶えようと決めた。

 二十年以上の時を経て、ついに夢は形を変えてここまで辿り着いたのだ。


 川を離れると、茂みの奥へと入っていった。落ちた枝や転がる大きな石で足元が悪く歩きづらい。素手に素足でよく怪我せず歩けるなと感心してしまう。ここへ来るとき靴を履いてこなかったせいで僕も素足だけど、踏み場所を少し間違えると痛い。軽い足取りで変わらず四足歩行な彼は素早く先へ行ってしまう。彼が止まった目の前に大きな葉は何枚か重ねて置いてある。彼はそのまま猫みたいにうずくまり、瞼を閉じた。こんな場所にずっといるはずなのに髪も肌も綺麗なまま。風に靡く黒髪、長いまつ毛、女の子みたいだ。自分も他人からはこう映っているのか。こうしてじっくり見てみると不思議な気分だ。幽体離脱している気分になる。

 隣に寝転んでどれくらい時間が経っただろう。うとうとしていると、何かが落ちる音が聞こえて瞬時に飛び上がった。彼は落ち着いた様子で落ちてきた物を探った。転がっているのは生肉と袋に入ったクリームパン。袋を掃いのけ、生肉だけ食い千切りだした。その姿は虎や狼のような凶暴さで少し後退りしてしまう。加工も何もされてないそれを貪った口の周りは血だらけになり、今までの美女のような顔からは想像もつかない表情をしていた。彼は一体何者なんだろう。その光景に吐き気を催してしまう。

 食べ終わった彼はクリームパンを無視して、元来た道を戻り始めた。見捨てられたクリームパンを拾ってついて行く。

「これは...食べないの?」

 伝わらないだろうとわかりながらも話しかけてみた。真っ赤な口元で振り向き、表情を変えずまた前を向いた。いらないってことか。僕も彼から視線を逸らし、封を開けてクリームパンを食べた。やっぱり目のやり場に困る。

 川まで戻ってくると血を洗い流し、水を飲んでいる。パンで失った水分を僕も補給した。両手で水を掬う僕を見て、また彼は真似して掬っている。

「こうやって器を作ると掬いやすいよ」

 彼の手に重ねて教えようと触れた瞬間、水飛沫をあげて離れた。急に体温を感じて驚いたのか、四つん這いでお尻を高く上げて威嚇した。やっぱり猫みたいだ。

「あ、ご、ごめん...」

 それ以上動かない僕の身体を隈なく見て敵意がないと感じたのか、ゆっくりお尻を下げていった。

「きみ、手冷たいね」

 手の動きでなんとか伝えようと試みるが、首を傾げただけだった。

「て、つめたいね」

 手の平に指差してもう一度試みた。

「......テ」

「そう!て!」

 はじめて言葉で伝わった。胸の奥でじんわり熱が広がっていくのを感じる。父さんや母さんの方がずっと長くいるのに、ずっとこの感覚を忘れていた気がする。誰かと心が繋がる暖かさ、眠りを深くするおまじない。

「もう一回、触ってみる?」

 握手みたいに手を差し伸べて、彼の目の奥を見つめた。

「テ...」

 指先と指先が触れ合う。不思議な感触だ。もう片方の自分の指を触ってるみたいに身に覚えのある感触なのに、それは確かに自分ではない。きっと彼も同じことを思ったのだろう。絡み合った指を不思議そうに見ている。複雑な絡ませを繰り返して、気づけば恋人繋ぎをして二人はお互いの白い手をしばらく見つめ合っていた。


「素晴らしい...」

 研究室に引き篭もり、モニターと睨めっこ状態。大量の冷凍食品のゴミが散乱し、空き缶や空のペットボトルも床に転がっている。佐恵子は精神的に病みはじめ、料理も全く作らなくなった。正直リビングまで食事をしに行く時間すら勿体ないから冷凍食品の方が楽でいい。食料を買いに出掛けることもなく、全てネット通販で購入し届けてもらう。そんな生活が続いている。最初のうちは佐恵子の方から話しかけてきたこともあったが、研究室へ入ってくるなりモニターを見て泣きながら崩れ落ちた。裸の少年と成海が隣にいる事、それを止めずにずっと眺めている事、荒れていく夫の私生活の事、全てが一気に降り注ぎ佐恵子は鬱になり引き篭もった。

 モニターの向こうで彼ら二人は素晴らしい発展を遂げている。生憎見えるのは映像のみで音声は拾ってくれない。だが二人の関係性が変わっていってることはよくわかる。一定の距離を置いていた二人が、気づけば手を繋ぐことまでしている。成海は自分の弟かのようにいろいろ教えている。今の自分の気持ちは果たして親としてなのか、研究者としてなのか、自分でもよくわからなくなっている。学校にも行かせてこなかったあの子の人生からすると、裸の彼との出会いは大きいだろう。はじめての友人関係になるのだから。


 夕方、日が沈んでいき赤い夕暮れが彼の肌を赤いグラデーションに染める。白い肌だからこそ何色にでも綺麗に染まる。何度見ても見惚れてしまうのは、彼が自分だからではなく、生まれたままの姿で堂々と生きるからかもしれない。夕日と影が織りなす赤と黒の彼の身体に魅せられ、ただ惹きつけられる。

 さっきから葉を千切っては木を転々としてる彼。大きな葉を集めては気に入らないものを適当に撒き散らしている。ある程度集めると、葉を蔦で結び合わせて何かを作っている。まだ手先は器用じゃないから雑な結び目だけど、何かを作るその様は普通の人間みたいだった。

「それ、何作ってるの?」

 わかりやすく人差し指で示して聞く。すると彼も同じように人差し指を僕に向けた。ただ真似をしているのだろうか。葉と蔦で作り上げたそれに頭と腕を通して、身につけた。そしてもう一度僕を人差し指で指す。

「......服?」

 裾を摘み彼に見せると、頭を縦に振った。

「そっか...ずっと裸だもんね」

 でも葉で作った服なんてすぐ解けて落ちてしまう。落ちなくても風で靡けばほぼ裸も同然。それなら、僕が。

「ほら...これで、一緒」

 着ている服を全部地面に脱ぎ捨て、性器だけ両手で隠した。彼は目を見開いて僕の髪から足まで隈なく見た。自分と同じ姿であることに驚いたのだろうか。鏡はなくとも水面に反射する自分の姿は見たことがあるに違いない。彼も葉を掃いのけ、同じ姿で近寄ってくる。鏡じゃないのに鏡みたいな存在が違う動きをしている、不思議だ。

(それ......)

 また獣みたいによだれを垂らして僕を見る。膝立ちで僕と目線を合わせた彼の、あそこが、大きくなっていた。痛いくらい波打った心臓が記憶を蘇らせる。熱帯夜。口の中で記憶が暴れ出し、唾液が期待している。熱帯夜。熱く息苦しい夜と交差する。熱帯夜。

「ちんちん...変...」

 生まれて今までずっと家で過ごし、親からの性教育もなく、スマホやタブレットも貸してもらえずにいた僕は精通もしていない。

「きみも、僕も...」

 彼は僕のそれを興味津々に見つめ、指先で産毛を撫でるような柔らかさで触れた。電気が流れたように身体の芯が震える、初めての快感。

「なんか...変...」

 息遣いやよだれで興奮しているとわかるけれど、きっと彼はただ好奇心で触れているのだろう。ただ、その目が怖い。息が怖い。どうなるかわからないという恐怖。身体が感じている快感への興味と恐怖。はじめて、が怖い。硬いそれを指先で示し、上目遣いで僕に訴えかける。

「それ...?ちんちん...?」

「チン、チン......」

 また一つ、言葉を覚えた。手とちんちん。頬が熱くなっていくのがわかる。恥ずかしさが勝つのに、誰かと触れ合える嬉しさ、人の体温を感じる嬉しさに時間に身を預けてみる。きっと全ては通るべき運命で、何かが動き始める波動に愛という言葉で受け止めてみたい。

「あ...あっ、」

 皮が捲れ、初めて体外へ出た桜桃色は微風すらあまりに甘美で、彼の吐息は僕を絶頂へと愛撫した。白い肌へ飛んだ精液ごと、夕日が染めて視界を夢みたいに溶かしていく。

 腕についた僕の液を舐めとっている。その姿は僕が僕の液を舐めている姿にしか映らない。鏡にならない分、僕がしない動きをしているとこを見ると恥ずかしくなる。ここには君と僕しかいないからいいけど。

 まだ落ち着かない息が、数分前の事を脳にへばり付かせる。力が抜けて膝から落ち、お尻も土に落とした。

(裸になるってこういうことなんだ)

 お尻に感じる冷たい土が、裸という認識を強くさせる。布か便座か手しか触れないような部位で自然に触れている感触は、気持ちよかった。

「生きてるって感じする...」

 無意識だった独り言を取りこぼさないように、彼は僕の首筋を甘噛みした。口内の熱には、今まで感じたことのない信頼があった。きっと君は牙を剥かないよね。撫でた黒髪、もう獣だなんて思えない。誰がなんと言おうと彼は人間だ。


 月と川。月明かりに照らされる川に君がいると、初めて出会った夜を思い出す。

 朝と夜に水浴びをする彼。元々夜にしかお風呂に入らなかった僕からすると変な感じだ。夜の水浴びは一緒に入るのが好き。月の明かりにしか頼らない暗闇の中で、彼から離れると迷ってしまいそうで怖い。彼は四つん這いで首まで入り、身体のあちこちを手で擦って洗っている。僕は彼から目を離さないようにして、水の冷たさに震えながら手で掬って各部位を流す。もちろんここにはトイレも紙もないから、水浴びの時に丁寧に肛門を洗う。

 水浴びを終えると寝床へ向かう。僕が作った寝床だ。水浴びのあと身体を拭くものなく、乾かないうちにそのまま寝ていた彼を見て、柔らかい土を積み大きな葉を集めて自然の即席ベッドを作ってあげた。濡れたまま横になるから土や草がくっついて洗っても汚れてしまっていたからだ。気に入ったのかそれ以来ずっとそこで眠ってくれている。葉の上に座ると、毛繕いみたいに腕や脚を舐めている。当たり前のように裸でいる二人が揃うとほんとに野良猫みたいだ。

 月夜を見上げて現実逃避。何かがおかしい事は気づいている。あの夜、無我夢中で忘れていたけれど、僕は一階から階段を降りてここへ辿り着いたのだ。地下であるはずなんだ。太陽や月なんかあるはずないんだ。おかしいことはわかっている。わかっているけれど、気づかないふりをしていたい。隣で気持ち良さそうに眠るこの子も何か理由があってここにいるに違いない。その容姿も含めて。ただ、ただ幸せなんだ。新しい世界を知れたことが。友達ができたことが。僕に触れてくれる人がいることが。心地良くて、幻想だったと知りたくない。

「きみは僕から離れないでね...」

 静かに眠る顔を見ていると癒される。何も怖くないって証明してくれているみたい。彼の手を握って向かい合ったまま、白い二人は朝を迎えに行く。


 翌る日、液に反射した眩しい光で目を覚ました。よだれを垂らしながらまだ眠る彼の寝顔。手は握ったままだった。身体を起こし、腕を伸ばして太陽と空気を浴びながら欠伸をした。彼を起こさないように歩いて川に向かう。裸足で歩くことにも慣れてきた。水を口いっぱいに含み、喉を鳴らして飲み込んだ。顔を洗って手で拭い、彼の元へ戻ろうとした時、後方から素早い足音が聞こえ振り向いた。彼がもう起きているのか。

「おーい、もう起きてるー?」

 こういう時に名前を知らないのは不便だと思った。怯えながら震える足を半歩ずつ前に進める。草木は擦れる音はだんだん近くなる。足は勝手に止まり、影の奥を凝らして見た。生い茂った緑の影から飛び出してきたのは、恐らく野良であろう凶暴な犬だった。僕を見つけるなり吠え、牙を剥いて呻いている。身体から熱が引いて冷や汗が出る。逃げないと。早く逃げないと、敵わない。本能的にそう察した。逃げなければと思うほど、力が入らない。尻餅をついたその視線の高さに凶暴犬の顔がある。大して背が高くない僕からすると相当大きい。着実に近寄ってくる牙。噛まれる、そう思った瞬間大口を開けて飛び込んできた犬に、白いものが視界を横切り犬ごと転げていった。彼だ。仰向けになった犬に伸し掛かり、顎を抑え牙を出させないようにしていた。彼も犬の呻き声のような声で牙を剥いて威嚇している。その表情は森で生きてきたことを物語っていた。獲物を捕らえるために備わった狩猟本能なのだろう。暴れる犬の首に噛みつき、何度も噛みつき、皮ごと肉を噛みちぎり顔を赤く染めた。息の根が止まるまで急所である部位を歯で抑え込み、犬はぐったりとした。赤い唾を地面に吐き捨て、彼も仰向けにぐったり倒れた。

「大丈夫?」

 血生臭い匂いに嗚咽しながら、彼の顔を覗き込んだ。

「ダイ、ジョ、ブ」

 きっと意味はわかってないと思うけど。

「ありがとう」

 伝わらないかもしれないけど。

「ア、リガト...」

 僕が笑うと、彼も笑った。初めて見る彼の笑顔に心臓が五月蝿くなる。だってそれ、僕の笑顔だから。僕、いつから笑ってないかわからないから。自分の笑顔なんて忘れてた。

「もっと笑って...」

 彼の顔の血が一筋、また一筋と流れていく。何故か涙が溢れて止まない。僕笑ってるはずなのに、彼の頬が濡れていく。

「アリガ、ト、ダイジョ、ブ」

「うん......うん......」

 親指で血を拭ってあげる。

「アリガト、ダイジョブ、アリガト、ダイジョブ!」

 下手くそな言葉が何よりも心を満たすのが上手で、覚えたての言葉をただ使っているだけなのに僕が喜ぶから、何度も何度も繰り返し伝えてくれた。だから僕も返すんだ。

「ありがとう......さ、起きて。顔洗いに行こ」

 立ち上がって彼の手を引っ張って上体を起こした。

「チンチン」

「ちんちんはそんな言わなくていいの...」

 僕のそれを指差して面白おかしく笑っている。こういう時は弟でもできたように感じる。でもそれでもいい、もっと笑ってくれたらそれでいい。

「それ、食べる?」

 横たわった犬を指差して聞いた。起きてすぐ駆け寄ってきてくれたわけだし、きっとお腹空いてるだろう。無言で頷いてすぐに走っていき勢いよく食べている。最初は驚いたけど、彼にとってこれが普通なんだ。今はもう慣れている。

 僕は食べ物が落ちてくるあの場所に向かった。生肉は彼しか食べられないし、僕用の食料もちゃんと落としてくれる。今朝はラップに包まれたサンドイッチとサラダだった。彼の隣に持って行き、一緒に食事をした。先に食べ終わった彼は川へ行き、顔を洗っている。あんな小さい背中が僕を守ってくれたんだ。僕ってあんなに小さいんだ。

「ねぇ」

 綺麗に白くなった顔がこっちを振り向く。

「きみの名前、決めようよ」

「キミ、ンナ、キメウヨ...?」

 僕の言った言葉をよく真似するようになった。

「そう、名前。ぼくは、なるみ」

 自分の顔に指差して名前を連呼してみる。

「ナ、ル、ミ」

「そう!成海!」

 呼んでもらえた。彼が初めて口にした言葉から五つ目、やっと名前を呼んでもらえた。それがちゃんと理解できているのかはわからないけど。

 彼の名前はどうしよう。喋れないってことは名前を与える存在もいなかったに違いない。僕が名付け親になる。僕と同じ容姿をしているから、僕の名前から取るか。いや、彼を初めて見たあの夜を名付けたい。

「ツキヨ、きみの名前は、ツキヨ」

 あの夜見た彼は月に照らされ天使のようだった。初めて何かを美しいと思ったのも彼だった。あの瞬間を忘れないように、月夜、から始まり、僕の世界を変えてくれた君へ、月世、と名付けた。

「ツキヨ...ツキヨ...」

「そう、月世」

 自分の両手を見て、胸に手を置いて、目を閉じた彼から。

「ナルミ」

「月世」

 感情のままに抱きつき、月世の体温が少し上がっていることに気づいた。僕らは二人で一人なのかもしれない。だってこんなに身体がぴったり重なる。


 月世が名前を呼び合うことを覚えてから、昼から夕方まで泥で作った玉を投げ合って、名前を呼び合いながらキャッチボールをした。時の流れ方なんて気にもせず、それが楽しくてひたすら投げ合い呼び合った。辺りが暗くなりもう玉も見えづらくなってきた頃、僕の顔にぶつかり泥まみれになった。それもまた楽しくて笑い合った。

「ナルミ!ナルミ!」

 その三文字を言うと僕が反応してくれることが嬉しいのか、何かあるたびに呼んでくれる。僕の前まで駆け寄ってくると、顔に水をかけられた。もう上手に両手で掬えるんだ。

「アハハッ、ナルミ」

 水で落ちていく泥を指差してまた笑った。ほら、この子にだってちゃんと人間らしい一面があるじゃないか。可愛い。

「月世、川行こ」

 月世の手を掴んで一緒に走った。川に飛び込み、お互いの身体を洗い合った。自分と同じ形をしているし、くすぐったい所も知ってる。弱点をくすぐりあっては水飛沫を上げてまたはしゃいだ。絡み合う指や脚、ふいに触れ合う肩や背中、弾むお尻、僕らの存在を確かめ合っているみたいでこういう時間が尊い。

 暗闇の中手を繋いで走り回り、身体に残る水滴を乾かした。大きな葉の上にぐったり脱力して仰向けになり、二人の上がった息が交互に聞こえる。手汗も気にせず、眠り落ちるまでずっと繋いでいた。けど僕だけ眠れずにいる。月世はどうかな、最近僕は顔が近づくと鼓動が早くなる。わからないふりをしているけれど、いつの日か読んだ本に恋や愛という文字が頻繁に出てくるお話があったのを覚えている。そこには『大好き』や『愛してる』と言い合う人がいた。それがどういう意味で、どういう時に使う言葉かあまり理解できずに読んでいた。でもこんな描写があったのも覚えている。『心臓が五月蝿い』というセリフがあったこと。さっきから月世の寝顔を近くで見ていると、心臓が早く動くし耳に響くんだ。これのことを言っていたのだろうか。まだわからないでいいのかもしれないけど、君はすぐ寝ちゃうから僕だけなのかもしれない。


 もう今が何月何日で何曜日なのか、わからなくなっている。ここには時計も存在しないから時間感覚もない。明るくなったら朝、暗くなったら夜、それだけの判断だったけれどそれが僕にとっては感動的なことで、明るくなったら起きるという幸せ、暗くなったら夜を感じて、たったこれだけのことが夢だった。外が存在することは知っていたけれど、外へ出ることは許されなかったし、窓もない家で暮らしていたから時計がないと感覚が狂うという逆の世界だったことに気づく。月世はまだ一つの世界でしか生きていないんだと、自分と重ねて考えていた。さっきからそこで背中を向けて座っている月世を見て。

「おはよう、何してるの?」

 寝起きの頭でそんな事を少し考え、ようやく声をかけた。

「ナルミ、ダイジョブ、アリガト」

 会話は成り立っていないけれど、僕にはなんとなく伝わった。きっとあの犬の一件があったから僕を守ろうとしてくれているんだ。あの時覚えた言葉で、あの時の事を表しているんだと思う。

「ふふ...ありがとう」

「ダイジョブ」

 それにしても何故急にあんな凶暴な犬が僕らの前に現れたのだろう。月世はあの後お腹いっぱい食べられたから満足そうにしていたけれど、僕は怖くて何も出来なかった。そして月世は今まで何匹もあんな風に戦ってきたんだなって、思い出すと泣きそうになった。孤独の冷たさは痛いほどわかるから。

 そよぐ風が奏でる草木が揺れる音に浸っていると、蛙みたいなポーズで座っている月世がそこで便を捻り出した。

「ちょっと月世!こんなとこでうんちしないで!」

 月世からすれば何がおかしいのか、何故僕が声を荒げているのか理解できず、首を傾げている。

「隠れて、見えないとこで出して、うんち」

 月世と同じポーズをして、腕でバッテンを作り仕草で伝えようとする。確かに月世は僕と出会うまでは何処でもそうしていたんだ。トイレなんて知らないに決まってるんだから。わかってはいたはずなんだけど、さすがに目の前でされては目を背けるし注意してしまう。

「ナルミ、ウン、チ」

「言葉は覚えなくてもいいから、あっちで、お願い...」

 意思疎通ができたのか、手で土を掘り便の上へ被せた。人間の暮らしをしてこなかった月世にあれこれ教えるのは難しいけれど、こうやって何かを教えて、伝わって、その一つずつが思い出として過去になっていく。面倒臭いなんて思ったことは一度もない。

 排泄を終え戻ってきた月世と少し気まずい雰囲気になってしまった。見てしまった恥ずかしさに目を背ける僕と、注意されて落ち込んでいる月世。この空気、ちょっと懐かしい。最初の頃は距離をとっていてずっと気まずかった気がする。あの時は名前を付けるなんて夢にも思わなかった。

「もういいよ、ごめんね強く言って」

 戻ってきてからずっと土を掘って反省している月世を止めた。手についた砂を掃ってあげながら、もっと近くに寄ってと胸の裡で囁く。

「ナルミ、アリガト」

 相変わらず違和感のある日本語が心地いい。

「ねぇ月世、おしり、こっち向けて」

 言葉で、というより手の動きで伝わった月世は素直に四つん這いになりお尻を突き出した。

「このままじゃ痒くなるでしょ?」

 近くに落ちていた葉を拾い、肛門を拭ってあげた。野生のままじゃなくて、僕が全部教えてあげる。僕がここに来た意味を僕自身で月世に捧げるんだ。お尻に添えた左手も、拭う右手も、知っている感触だから僕の指の動きや肌の触れ方も、一緒になれる。拭いては捨て、拭いては捨て、葉越しに感じる月世の肛門。皺までもがきっと僕と同じだけれど、それは確かに月世のものだ。括約筋が反応しているのがわかる。

「月世...ぼく...」

 気づいていた。疼いている自分のそれに。

「ナルミ...?」

 月世の寝顔を近くで見つめている時も本当は気づいていた。熱く硬いそれに。

「月世......繋がりたい...月世の、ここ......」

 立膝になり、顕になった桜桃色の先端が液を零し、月世のお菊に擦れている。

「わかる...?僕がしたいこと、わかる......?」

 心臓が五月蝿い。もう黙らすことなんてできないほど、僕の呼吸につられるように月世の息も荒くなっていく。

「ナル、ミ...チンチン...ナルミ...」

 震えて、やっと振り絞った声。わかる、と言ったみたいにお尻を突き出し僕のそれを擦った。

「じゃあ...するね、」

 零れた液はお菊を纏い、滑るように奥まで性器を飲み込んだ。

「ああ、うっ...」

「ンアッ...」

 自分の熱さなのか、月世の中の熱さなのか、初めての肉圧と体温に火傷しそうなほど月世の命を感じた。もっと、もっと月世を感じたい。もっと僕を包み込んで。もっとちんちん押し出して。月世の奥までこの気持ち、届けるから。

「月世、あつ...きもち、い...」

 排泄しているみたいにお尻が僕を押し出してくる。

「ナル...ンッ...アア、アッ」

 僕は中に押し込む。月世、僕、月世、僕。交互にお互いを感じている。押し出され、押し込み、押し出され、押し込む。中で溢れ続ける透明な液が性の音を鳴らし、体内と体内が絡み合う。

「月世、また、あれ...出そう...」

 あれが何かわからないけれど、いつの日か月世にかけてしまったあの白い液。二人の漏れる声がこの瞬間を尊く導いていく。

「ナルミ...」

 腰を捻らせ僕に目線で訴えかける。いいよ。さらに恥部は熱を持ち、力強く月世のお尻に打ちつけ、頭の中がだんだん真っ白にぼやけていく。

「ああっ、で、あ...」

 自分の意思とは関係なく勢いのまま溢れ出した白い液は月世の中に流れ込んでいき、お菊が締まり僕を離さない。最後の一滴まで、月世の中から離れない。

「ナルミ、ナルミ...ナルミ...」

 膝で立っていられなくり、ぬるっとお尻から性器は抜け、月世はお菊から白い液を垂らしながら僕を呼び続けている。それ以上の表現の仕方を知らないから、それが精一杯の言葉なのだろう。僕はその続きの言葉を自分なりに言い表したい。

 お菊から垂れるそれが落ちないように舐めとり、唇で蓋をした。

「月世、うんち...」

 さっき覚えたであろうその三文字を言うと、月世は排泄するみたいに力み、僕は唇を離さず吸い込み、口内にねっとり流れてくる甘味を感じながら、月世の続きの言葉を心の中で復唱した。成海、成海...成海...愛してる。

 

 月世が普通に言葉を話せたら、僕らはどんな会話をしていたかな。そんな世界線では月世のことを好きになっていないかな。そもそもその名前すら違ったはずだ。そう思うと今生きてるこの世界が僕にとっては最高の世界線かな。

 ねぇ、どう思う?父さん。父さんは母さんと結婚して良かったって心から思ってるのかな。僕の全てだった父さんと母さんにこんな疑問を抱けるようになったのも、月世の存在がそうさせたのかな。もう何となく気づいているよ。何処かで見てるんでしょ。僕に体重を預けて眠る月世の匂いが幸福感を彷彿させながら、空を見上げる。どっからどう見ても空なそれはきっと天井で、あの日勇気を出して入った部屋に置かれていたモニターで僕らを見ているに違いない。

「母さん」

 息だけで呟いた独り言は虚しくさせるだけだった。

「ン、ナルミ...」

「あ、ごめん起こしちゃった?」

 僕の顔の横に両手をついて起き上がった。

「もうすぐ暗くなるよ」

 寝ぼけた顔でうとうとしている。

 僕と同じ容姿のこの子がいることも、こんな場所で生きさせた意味も、わからないまま父さんが創り上げたであろう世界に僕はいるけど、父さんは満足しているのだろうか。

「お腹、空いてない?」

 平たいお腹に指差して伝えると、月世のお腹がぐうっと鳴って笑った。

「んははっ、見に行こ」

 夕暮れ、食べ物が落ちてくる時間は空の色を見て判断している。そろそろいつもの場所に落ちているはずだ。背中に着いた土を掃い落としながら歩いた。月世は猫みたいに走って先を行く。

 もう歩き慣れた場所は雑草が踏み倒されて足跡が残り、道になっている。危ない大きめな石や枝を拾って歩きやすくしたこともあった。些細な記憶が全部思い出になってる。

 先に行った月世が立ち止まって周りを見渡している。

「月世、どうしたの?」

 振り返った目を見ると、何か異変を訴えかけていることに気づいた。早歩きで側へ寄り、落ちてくるはずの大きな葉を敷き詰めた場所を見てみると、空っぽだった。

「あれ...ないね、いつもならもうあるはずなのに」

 たまたま今夜は忘れているのかもしれない。食べ物を落としているのは父さんに決まってる。何か急用でも入ったか寝てしまっているか、よく考えてみれば毎日ほぼ同じタイミングである方が不自然かもしれない。父さんも仕事はあるだろうし、母さんはこの事を知っているのかも僕は知らない。

「どうしよう......ここって他に食べれるものないのかな、例えば木の実とかそういうの」

 離れすぎないように木を見上げながら近くを歩いてみたけれど、それっぽいものは見当たらない。植物の知識なんてないし、見たところで何が食べられるのかわからない。

「月世?」

 遠くを見据えるその横顔があまりにも美しいから、声を掛けたのに振り向かないでも良いと思えてしまう。

「今日は我慢しよっか、また明日食べればいいよ」

 手を握って引っ張り、来た道を戻っていく。お腹は空いていたけれど、家の中に戻ってあの生活はしたくない。

 たまに夢に出てくる、本やおもちゃに囲まれた部屋。物が溢れかえり、足の踏み場もなくなった空間で壁が押し寄せてきて潰されそうになる悪夢を何度も見た。目覚めると汗だくになっているけれど、隣で眠る月世の顔を見ればすぐに落ち着く。二人で生きてたいって、その度に思うんだ。

 


四章



 あれ、今、何処にいるんだっけ。薄暗い水面が見える。身体が浮いてるみたいだ。海に沈んでいる。溺れているのかな。呼吸も曖昧だ。海なんて見たことあったっけ。僕は何も知らない人間じゃなかったっけ。あれ、誰か泳いでいる。白くて綺麗。青い海がよく似合う。

「...ミ」

 天使みたいな誰かが何か喋ってる。水面が光りだしてキラキラしてる。波が羽根みたいで、ほんとに天使みたいだ。

「...ルミ」

 声が、聞こえる。誰か呼んでる。僕?僕と同じ声が聞こえる。天使は僕の声で呼びかけている。天使が僕なのか、僕が天使なのか。

「...ルミ!」

 海じゃない...あれは川の水面みたい。あれ...僕は、どこに。

「ナルミ!」

 ずぶ濡れになっている月世の顔が近い。髪から落ちる水滴が頬を叩く。肩を痛いほど掴む手に揺さぶられている。口に流れてくる水が酸っぱい。

「つき、よ...?」

「ナルミ!」

 夢の中だったみたいだ。身体を起こそうと手を着くと地面が沈んだ。辺りは大雨で土が柔らかくなっていた。それどころか洪水状態にあり、足の甲までなら浸るくらいまで降り続いている。それにも気づかず深い眠りに落ちていたらしい。

「え、なに、これ...これが、雨...?」

 頭上を見上げて瞼も唇を開けたまま灰色の未知に吸い寄せられてしまう。これが、雨の匂い。

「ナルミ?」

「あ、ごめん。月世は大丈夫?」

 頭に手を乗せてやると頷いた。

 雨なんて初めてだ。そもそも天気が悪くなることなんて今までなかった。それも豪雨なんて。月世の慌てた素振りを見る限り、初めては僕だけじゃないらしい。

「おかしいよね、これ」

 次第に風も強くなり、嵐になった。作った寝床も崩れ、木はしなり、落ちる雨粒は大きくだんだんと水面は上がっていく。

「ナルミ!」

 目が着いてきてと言っている。視線で通じ合い頷き、四足歩行で走る月世について行く。肌に打ち付ける雨水はすでに体温をかなり奪っている。

 荒れた足元の中辿り着いた場所は、二人がギリギリ入れる大きさの洞窟穴だった。

「冷たくなってる、大丈夫?」

 月世の肌と密着した。嵐の音に声が響かない。耳元まで近寄って聞いた。

「ダイジョブ」

 月世も真似して耳元で伝えてくれる。耳にかかる吐息がくすぐったくて腕に抱きついた。濡れた肌の感触が官能的にさせる。

 雨は降り続ける一方でとうとう洞窟の地面にも浸水した。また足とお尻から体温を奪っていく。

「ナルミ」

 月世が窮屈の中仰向けで寝転び、お腹を二回軽く叩いて僕の目を見た。

「え、できないよ、そんなこと」

 自分の上に乗れと言っているのだ。冷たい水に震えているのを、密着した肌から感じとったのだろう。だから足とお尻が浸からないように自分に乗れと言っているのだ。

「ナルミ!」

 またお腹を二回叩いた。月世のこんな真剣な目、初めて見た。胸の奥がきゅっと締まる。僕は月世に守られてばかりだ。

「...わかった」

 左足から右足へと、ゆっくり慎重に体重を預けていく。両足を乗せた後、出来るだけ軽くなるように両手を地面についた。足の裏で感じるとわかるお腹の柔らかさ。

「苦しくない?重くない?」

 首を縦に振った。言葉が通じているように感じることがたまにある。きっと僕の表情で察しているだけだろうけど。

(月世、かっこいい...)

 ずっと腹筋に力を入れて耐えてくれてる、僕のために。見下ろしてるのは僕なのに、僕の方が照れてしまっている。冷えるばかりなのに、月世を感じていられるだけで火照ってくる気がする。

「ねえ月世、唇...くっつけていい...?」

 目を逸らしながら言った。ツキヨ以外知らない言葉ばかり並べてしまって後悔している。両手が塞がれている状態で仕草も使えず、きっと伝わらない。月世は狭い中で首を傾げた。やっぱり伝わってない。ただ恥ずかしい。

「いや、だから、その...」

 意を決して、唇だけを尖らせて見せた。照れてしまって目が合わせられない。すると月世も真似をした。頬を色っぽく染めて。肘を曲げて顔を落とし、ゆっくり唇をくっつけた。重なった唇は冷たかったけれど、吐息は甘く、心臓から伝って全身が火照っていくようだった。激しい雨音が呼吸を掻き消し、瞼の裏には熱帯夜の記憶がはっきり蘇った。あの時は野生の性欲に身を任した月世が感情のままに僕を襲ったけれど、今は大切な人として重なり合っている。あんなに乱暴に舌を入れてきたくせに、今は唇だけがくっつくだけ。きっと気持ちが変わった分恥ずかしいのだ。それは僕も同じ。

 離れた顔はお互いの眼の奥を見ていた。月世とした。きっとこれはキスっていう行為。間近くで相手の匂いを感じながら、言葉っていう重い刃物が排泄される繊細な部位を塞ぎ合い、信頼を伝え合う。これがキスなんだって、大好きな顔を見ながら噛み締めた。

 甘美な時間は嘘みたいに奪われた。さらに上がった水面は波を押し寄せ、月世の顔を覆った。咳き込む月世から急いで降り、起き上がらせた。

「大丈夫?」

 水面を見てもう限界だと思った。これ以上待っても溺れてしまう未来しか見えない。最初ここへ来た時の記憶を頼りに、出入り口の場所を思い出す。

「月世、もう駄目だ。このままじゃ二人とも死んじゃう」

 手を引っ張り洞窟から抜け出した。水面はすでに膝上までに達していた。

「僕に着いてきて」

 重い脚を必死に動かし先導して目的地へ向かう。後ろを振り返ると月世は二足歩行で歩いていた。水面がこんなに上がってしまっては仕方ないのかもしれないけれど、月世が二足歩行で歩いていることに感動した。もちろん人間なのだけれど、それは紛れもなく人間に見えた。今更ながら僕の後ろに僕が着いてきている、という不思議な感覚になった。

 流れてくる折れた木や石に脚を止められながらも、必死に歩き続ける。昨日の昼から何も食べていない身体は力が入らず、何度も転んだ。でもその度に月世が支えてくれた。二人の白い肌は泥に塗れ汚れてしまっているけれど、それでも美しかった。僕らは美しく在りながら命を燃やして、何とか出入り口まで辿り着いた。

 倒れ込むようにドアにもたれ掛かり、朦朧とする視界でドアノブを探し開けようと試みたが、何処にもドアノブは見当たらない。ドアの隙間もなく指を入れて無理やり抉じ開けることもできない。

「なんで、これどうやって開けるの?」

 押したり叩いたり、いろいろ試したが微動だにしない。月世も手伝ってくれたが何も変わらない。とうとう身体が限界を迎えて膝から落ちた。

「なんで......なんで開かないの!」

 隣で月世もぐったり脱力している。きっと月世の限界なんだ。僕よりもずっと限界だったに違いない。僕を何度も支えながら何も食べずにここまできたんだ。

「月世...きて」

「ナルミ...」

 微かな力で抱きしめ合い、またキスをした。鼻水を啜り、小刻みに息を吸い、涙を流した。お互いの味を忘れないように必死に舌を押し込んで絡め合い、一寸の隙間もなくなるまで身を寄せ合った。乳首もお臍も性器も腿も、潰れ合うように抱きしめる。勃起しない性器が本音を溢している。怖いんだ。諦めるしかないとわかっていても、月世をもっと、もっと、あい......

 太い木々が折れはじめ、勢いよく迫る波と共に流れ込んできた木が僕らの身体ごと叩き、ドアを壊した。勢いよく流れ出る水と一緒に僕らも研究室に流れ出された。咳き込みながら月世の元へ這いずり寄った。

「大丈夫?月世!」

「ダイジョブ、ナルミ」

 流れ出た水に浸水した研究室を見渡すと、あの日の光景とは変わり果てていた。浮いたペットボトルや食べ物の残骸、紙や薬品、破れた試験管の破片。ゴミに溢れ酷い状態だった。

「どうなってるの、これ...」

 折角見つけた食べ物はラップに包まれすでに腐っていた。途中で落ちてこなくなったそれは用意はされていたらしい。ただ酷い悪臭だ。さらに辺りを探ると、絶句した。椅子に座っている人が机に顔を突っ伏して動かないでいる。浸水した床を脚を引きずって近寄ると悪臭が増した。

「あの...大丈夫、ですか...?」

 確かめるために動かして顔を確認すると、吐き気を催した。変わり果てた父さんだった。

「父、さん...ねえしっかりしてよ、父さん!」

 微動だにしない父さんは冷たくなり息をしていなかった。死んでいる。父さんが、目の前で死んでいる。その場に尻餅をついて言葉を失った。

「パパ......」

 今の声は、月世?今、なんて言ったんだ。僕が教えていないはずの言葉が聞こえた。

「月世、今...なんて」

 僕の言葉を無視して動かない父さんに近寄っていく。

「パパ......ア...グレア、グレア!グレア!」

 月世が父さんの身体を揺さぶり、力強く何かを言っている。日本語でもない言葉まで言っている。どういうことか全くわからない。

「月世、どうしたの?何を言ってるの?」

 死んでいるとわかった月世は父さんを離し、僕の隣に跪いた。空な眼をしたまま呆然としている。急な展開に頭が追いつかない。でもこのままじっとしていても餓死に繋がってしまう。折角出れたのに何も出来ないでいたら状況は一緒だ。

 辺りを見回して立ち上がった月世が、あるガラス張りの箱に駆け寄り立ち尽くした。ガラスに両手をつき何かに縋るように目を丸くしている。その箱を見てみると、シルバーのネームプレートで『被検体A/グレア』と書かれていた。その隣に並んで『被検体B/グレム』と書かれてある。

「これは、なに...?」

 月世は何も言わず、涙を流している。

 椅子のタイヤが動き、水飛沫と激しい音が響き父さんが床に倒れた。突っ伏していた腕が機械から離れ、森の中の嵐は止まった。


 まだ成海くんが月世くんと出会っていない頃。

 明人からの電話に出ると、急用があるから会いたいと言われ車で迎えが来た。

「どうしたの急用って」

 車内は音楽もかけずに退屈な景色を走らせている。

「朱美に渡しておきたい物がある」

 真剣な眼差しで運転する彼の横顔。私にはわかる、この表情をした時は只事じゃないことが。

「嫌な予感がするんだけど...」

「なに、大したことじゃないさ」

 私、伊達にあなたのこと見てきてないわよと言いそうになったが我慢した。元恋人である私がそんなこと言っては、まだ好きでいる事がバレてしまいそうだったから。

 千隼家に着くと寄り道せずに研究室を開けた。相変わらず書類は雑に置かれていて薬品の匂いがする。何度も出入りしているのに慣れないな。

「朱美、これを渡しておきたい。グレムの事が書かれている。一応、グレムのことも」

 渡された封筒の中身はびっしり書かれた書類の束だった。今まで被検体を観察し記録してきた、明人にとって命にも変え難い宝そのもの。

「こんな大事なもの、なんで私に?」

 ポケットに手を入れてモニターを見つめながら、低い声でこう言った。

「俺にもしもの事があったら、二人を朱美に託したい」

 何かを悟ったとうな面持ちに心臓が跳ねる。

「なんで、私なの?親ですらないのよ?それに成海くんと面識ないし」

「成海はそうかもしれないが、グレムは朱美が母親みたいなもんだ。あいつの肌の白さは朱美の細胞から作っているんだから」

 確かにそうだけれど、子育てもしたことない私に任せるのもどうかと思った。

「朱美しか信頼できない。妻も自分さえも、信頼できない...」

 付き合っていた頃からよく言ってくれた。お前は俺の夢を馬鹿にしないし付き添ってくれたし支えられたと。別れた後もずっと好きだったし今も好きなんだから、隣に居たいのはこっちのエゴだと思っていた。だからそんな言われ方されちゃ、私は。

「わかったわ...」

 こう言うしかなかった。その代わり、最後に一つだけお願いを聞いてほしいと縋った。一回でいいから、キスさせてほしいと言った。明人は黙って私を抱き寄せ下手くそにキスをしてくれた。こんな強引なこと、慣れてないくせに。

「それじゃあ、また連絡待ってるわ」

 もう連絡は来ないとわかっていながらも、そんなことを言ってしまった。封筒と鍵と警報ブザーを渡され、研究室を出た。

「ああ、いつもすまない。送るよ」


 僕らの身体はもう少しも動かすことができなかった。壁にもたれて座り、月世の手を握ったまま瞼は重くなっていく。意識は朦朧とし、月世と肩を預け合い時間に身を任せる。もう何もできない。僕らの世界は崩れ、家も崩壊していて絶望しかなかった。ただ二人の冷え切った肌を感じるしかない。

「あなたたち!生きてる!?」

 勢いよくドアが開かれ、薄目でぼやけた視界にいつか見た知らない女の人が立っていた。


 知らない匂いだ。ふわふわ浮いているみたい。また夢を見ているのかな。真っ暗な世界で何も見えない。何か音が聞こえる。知らない音だ。身体に感覚がない。目だけ生きている感覚だ。死んでしまったのかな。真っ暗だ。いや、呼吸音が聞こえる。誰の息を感じているのだろう。

「グレムーグレアー、調子はどうだ?」

 瞼が開き視界が広がった。籠った声で聞こえてくるその声は父さんだ。ガラス越しにこちらを覗いている。ここは何処?それに、その名前。

「グレムは今日も美しい」

 僕のことを見ている。

「はぁ...」

 視線が動き横を見ると、ガラス越しに誰かが見える。真っ白の物体。あれは、人間なのか。頭と身体を見る限り人間に見える。その真っ白の物体がこちらに振り向き......目を合わせる......それは、人間というにはあまりにも難しい、目や鼻、口のどれもが溶けたように爛れ、輪郭は膨れ上がっていた。あれは、人間というより、エイリ...ア...あれ、視界が滲んでいく。涙が、勝手に、ああああああ、奇声で脳が壊れそうだ。

 はっ。身体が濡れて気持ち悪い。尋常じゃない汗をかいている。何か張り付いている。布が、これは、服だ。いつぶりかの服に身体が違和感を感じる。身体を起こすとじっとりした身体に不快感を覚え、身体が浮くこの感覚が懐かしかった。下を見ると自分は上下の服を着てベッドにいる。知らない服に知らない光景。

「あ、よかった目を覚ましたのね」

 デスクの上のパソコンから手を離しこちらに振り向いた。あの時見た髪の短い知らない女の人。

「あ、えっと...」

 恐らく一人暮らしの部屋はとても綺麗に整頓されてあり、とても広かった。

「私は朱美、あなたのお父さんの友人よ。お父さんから頼まれて二人を引き取らせてもらったの」

「二人...あ、月世!」

 焦って動こうとすると右手に触れた、月世の腕。服を着て隣で眠っていた。

「つきよ...?グレムのこと?」

「グレム?」

「その子の名前よ、あなたのお父さんが付けたのよ」

 月世の本名。あのネームプレートに書かれていたのは、月世の名前だったんだ。あのガラス張りの箱も、もしかして月世が。

「僕は、彼に月世って名付けたんだ」

 隣で眠るその手を握り、安心した。ちゃんと熱を持ってる。死んでない。僕も。

「でも、なんで僕らのことわかったんですか?」

 あの状況で、家族でもない人が何故気づいて助けてくれたのか不思議だった。浸水した研究室にある機械は水で壊れてしまっていたに違いない。父さんも、動かなくなっていたし。

「お父さんから警報ブザーを預かっていたの。あのドアは内側から開けられないようになっていたと思うけど、もしそのドアが壊れた場合にこのブザーが教えてくれる仕組みなの。そうじゃなくても鍵も預かっているけど」

 そうなんですか、とそれだけ呟くことしか出来なかった。いろんなことに頭がついて行かない。けど、月世がまだ隣に居てくれてよかった。

「あ、そうだ。成海くん、お父さんから手紙預かってるわよ。もちろん私も見てないから安心して」

 受け取った手紙はただの白い紙が二つに折られているだけのシンプルなものだった。

『成海、自分を愛せ。俺には成せなかった。自分を愛し、何よりも愛し、相手と繋がれ。愛した自分に欲情し、相手と繋がれ。お前は鏡のない世界でグレムを美しいと思っただろ。愛おしいと心から想っただろ。たがその姿はお前自身だ。お前はもう自分を愛せるはずだ。俺には成せなかった。愛してくれた者が、俺の根底にあるものを見てくれなかった。最後に交わしたキスがそう思わせた。成海、父さんらしいことを何一つしてやれなかったな。すまなかった。こんな父親の我儘を聞いてくれ。自分を愛して、幸せになれ。すまなかった』

 ずるい。父さんはずるい。こんな、こんな手紙なのに、涙が溢れて苦しい。嗚咽し鼻水を啜り、破れそうなほど手紙を握りしめて泣いた。ふざけるなよ父さん。愛したと言って結婚したはずの母さんは何処へやった。もう気づいている。もう居ないのだと。もう、死んでしまっているのだと。この朱美っていう女の人も何も言わないけれど、そうに決まってる。父さんが動かないのを見たら母さんは放っておくような人じゃない。母さんが先に、動かなくなったんだ。ふざけるな、ふざけるな。でも結果的に内側から出れなかった僕も、月世といる時に戻ろうとしなかった。そんな僕も、父さんのことを責める権利はない。悔しさ、やるせなさ、怒り、悲しみ、そして共感してしまっている自分が許せなくて吐きそうなほど泣き狂った。ああ、僕は父さんの子なんだ。

「ナルミ、ダイジョブ?」

 止まった。嘘みたいに止まった。愛おしい安心する声が、いつも救ってくれる。大丈夫、大丈夫。下手くそな言葉が何度も繰り返し脳内を満たす。ダイジョブ、ダイジョブ。

「うん...大丈夫」

 見慣れない、月世の服を着た姿。いつにも増して愛おしい。

「朱美さん、一つ聞いてもいいですか?」

「なに?」

 さっきまでとは違う、優しい口調で話してくれた。

「その、グレアって子のこと...」

 朱美さんと月世が目を合わせて頷いた。

「あなたが名付けた月世くんは、元々グレムという名前で、その前に造られた最初の子がグレアって名前なの。初めて人間を造ろうとした時に生まれたグレアは、悲惨だったわ......未完成のまま終わったの。その次に造られたグレムは見事完成して、成海くんそっくりに綺麗に生まれたわ。だからグレムにとってグレアはお兄ちゃんみたいな存在ね」

 夢で見たあれは、月世の記憶だったのかもしれない。月世は造られた人間って自覚はあるのだろうか。グレアの記憶があるということは、そういうことか。

「そうだったんですか...」

 僕と全く同じ容姿の人間が、僕と全く違う過去があり、人格がある。不思議な感覚だけれど、違うからこそ他人として見れるのかもしれない。鏡みたいな人間性ならきっと月世を好きになっていない。

「あの、朱美さん......その...」

 言いにくい、けど。

「あーはいはい、じゃあ私買い物行ってくるから」

 まだ何も言ってないけれど、察してくれた。まだ来たばかりの朱美さんの家、慣れない環境の中で過ごすのはもう慣れている。月世との出会いが全てを変えた。もうここには森の中の月明かりもなければ、思い出深い川もない。でもそれでもいい、死を覚悟したあの瞬間を生き抜いて今、目の前に月世がいる。どんな場所でも二人なら生きていける。そんな気がする。

「月世...ぼく」

 ベッドの上で手を握って月世の瞳を見つめる。僕の顔の中に僕の顔が映っている。そう思っていた頃が懐かしい。月世の瞳の中に、僕の顔が映っている。

「愛しちゃったかもしれない」

 熱くなる頬に耐えられず、抱きしめた。愛している。それは自分が、という意味だけじゃない。父さんは自分を愛せと言った。自分を愛して相手と繋がれと。その気持ちは嘘じゃない、わかる。だけど知ったんだ。いや、月世が教えてくれたんだ。美しさって綺麗ってことだけじゃない。美しさって、汚いと言われた中に隠れているんだ。白い肌が美しい僕らは、白いからこそ泥が際立ち、泥を美しいと思えた先に美しい白が輝いている。月世、きみは僕に世界を教えてくれた。月世を、心から愛している。

「月世、ありがとう」

「アリガト」


 何者。愛しちゃったかもしれないって言ってくれてありがとう。君はどうしてボクの目を見ると頬を赤くするの?ボクは生きている、けど成海がいなかった世界では生きていなかった。幸せと不幸せの意味が、今はわかる。眼から溢れる液体を涙って言うだ。お尻は成海と愛し合うために新しい意味を成した。君がボクといる意味は、一緒だ。だから、愛しちゃった、の先を聞かせて。ボクが何者かになれる気がするんだ。


 一年後。

「ねえ月世、覚えてる?」

 ベッドの上で裸になり、四つん這いになった月世のお尻に桜桃色を擦りながら話しかけた。

「んっ...なに?」

 敏感になったお菊は擦れるだけで吐息を漏らすようになった。

「僕らが初めてセックスした日」

「もちろん覚えてるよ、忘れるはずない」

「ふーん、じゃあセックスする前に月世が僕の前でしたことも?」

 意地悪な煽り口調で、反応するお菊を焦らす。溢れた愛液でお互いの恥部を愛で、汗も忘れるくらい興奮している。

「もお、忘れてよ...」

 耳を赤くした月世が愛おしすぎて食べてしまいたい。

「忘れるわけないでしょ、全部、全部愛した時間なんだから」

 性器に指を添えてゆっくり挿入した。あの時と変わらない肉圧が愛情深く包み込んでくれる。僕らのセックスは変わらない。月世が押し出し、僕が押し込む。排泄と挿入の繰り返し。この感覚が、全て愛おしかったあの時に戻してくれる。

「月世、きもちいい?」

 まだ黄色く喘ぐ声が部屋に響いている。これから歳を取って声が変わっても一緒にあの時に戻ろうね。

「きもちいい...きもちいいよ、成海」

 上手になったね、言葉。五つしか言葉を知らなかった月世が、今じゃ流暢に喋り、普段は服を着て、箸でご飯を食べ、トイレを使い、ベッドで寝る。一つひとつ教えていくこの一年間も尊く愛おしい時間だった。

「もう、いきそう...」

「いいよ...出して」

 そんな言葉まで覚えちゃって。絶頂した身体は痙攣するように震え、月世の中に愛が流れていく。熱い、と喘ぐ月世は脱力し、性器が抜けた。お菊から漏れる白い液。

「月世、うんち...」

 お菊に唇を重ね、排泄した液を吸い込み口内に広がる味に脳が溶けていくように満たされる。初めてしたセックスと変わらない。生活は変わってもこれだけは変えない。

「愛してる」

「僕も、愛してる」


 母さんは言ってた、愛した人があんな狂ってると思わなかったって。父さんは言ってた、愛したのは自分でしかないから裏切らないって。そんなのおかしいよ。僕を産んだ愛し合ったはずの二人は、時を経て形が変われば愛してないと言い合った。そんなのおかしいよ。僕は言った、愛って何?って。僕は言った、孤独って知ってる?って。僕は孤独って知ってる。周りに人間はいても顔が全く見えないこと。心が見えないこと。裸が見えないこと。明日が見えないこと。愛してるって言えないこと。月世は言った、裸って何?って。ありのままが動くこと。恥ずかしいって思うこと。恥ずかしいから素直が見えること。感じられること。変わっていくこと。変わっていくけど生きてきた証ってこと。誰かが言った、全部生きてるってことって。

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