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階段を下りた先には、茫漠たる闇が広がっていた。
果てのない闇は、まるで生きているかのように、じわりと私たちに這い寄ってくるようで、えも言われぬ重苦しさを感じる。
階段は、やがて巨大な石造りの橋となる。
「──どうなってんの、これ?」
思わずつぶやいて、私は呆然とする。
闇を貫く橋は、私たちの渡るものだけではなかった。周囲には幾本もの橋が交錯しており──そのどれにも、あるべきはずの橋脚がないところを見るに、魔法の力によるものなのであろう──ずっと眺めていると、どちらが上で、どちらが下やら、それすらも判然としない騙し絵の世界に迷い込んでしまったようで、どうにも落ち着かない。
錯視のごとき違和感に気を取られながら歩いていると、不意に青が私の前に出る。
「御免」
言って、青は音もなく剣を振るう。
「──糸?」
青の一閃によって断たれた糸が揺れて、私は初めてその存在に気づく。橋には、行く手を阻むように、糸が張られていた。それは、まるでロレッタの魔糸のように存在感の希薄な不可視の糸で、私がすぐに気づけなかったのも──断じて負け惜しみではない──無理はないというもの。宙にたゆたう糸を目で追って、橋から身を乗り出して、遥か下方を見下ろす──と、そこには見るもおぞましい巨大な蜘蛛が巣食っていた。
蜘蛛は、幾本もの橋に糸を張って、巣となしている。見れば、その巣には糸にからめとられたと思しき幾人もの冒険者がとらわれており、蜘蛛は彼らを救わんとする冒険者と相対して、威嚇するように糸を吐き出している。
「お嬢、あれを」
青の視線の先に、蜘蛛の巣にとらわれた見覚えのある赤毛を認めて。
「青、飛ぶよ!」
言って、私は青の返事を待たず、疾風のごとく駆けて──飛ぶ。
フィーリの灯りに照らされて、蜘蛛の眼が不気味に光る。祖父に聞いたところによると、蜘蛛にはほとんどものが見えていないのだという。ただ、糸から糸に飛び移るような生態からであろうか、複数の眼で立体を知覚することには長けているというから、飛来する私の存在にも気づいてはいるのであろう。
『風よ!』
呼び出した風で、高所から飛びおりた衝撃を殺して、転がるようにして着地する。予想どおり、私に気づいていた蜘蛛は、威嚇するようにさらなる糸を放つが、私は怯まない。転がる勢いのまま疾風のごとく駆けて糸をかわし、四つ身に分身して、風の刃を放つ。四連の風撃は、それぞれに蜘蛛の巣を切り刻んで、とらわれていた冒険者を解放する。
「──お待たせ」
巣から落ちてきた一人──ロレッタを抱きとめて。
「遅いよ!」
涙ぐんで、それでも強がるロレッタを、安心させるように強く抱きしめる。
「野郎ども、撤退だ!」
灰色の髪を振り乱しながら叫んだのは、罪人と見紛うほど人相の悪い男──広場で見かけた傭兵団を率いるラウムであった。見れば、蜘蛛と相対するように陣を構えているのはラウム傭兵団の面々のようで、団長の命令を受けて、ためらうことなく脱兎のごとく駆け出す。
しかし、獲物の逃走を、みすみす見逃す蜘蛛ではなかった。蜘蛛は洪水のように糸を吐き出し、その奔流にからめとられた団員を瞬く間に引き寄せたかと思うと、無残にもそのまま頭からむさぼり喰らって──さらには、糸から逃れた団員をも捕食せんと、その巨体からは想像もつかぬほどの速さで突進する。
皆を守るようにして蜘蛛の前に立ちはだかり、その突進を正面から受け止め──そして、吹き飛んだのは鉄壁であった。鉄壁は私たちの頭上を越えて飛び、構えていた大盾は原形をとどめぬほどにひしゃげて転がる。
鉄壁の離脱をもって、戦線は崩壊した。蜘蛛の突進を止められるものはおらず、ラウム傭兵団は次々と糸にからめとられ、そして捕食されていく。
「お頭! お頭だけでも逃げてくだせえ!」
「ここは俺たちで足止めを!」
手練れの団員が前に出て、何とか凌いでいるが、それも長くはもたないであろう。
「ロレッタ、立てる?」
「もう大丈夫、ありがと」
私はロレッタを腕からおろして、ともに後方に退く。
「鉄壁、大丈夫?」
蜘蛛に吹き飛ばされた鉄壁に駆け寄って、抱き起こす。
「──やあ、かわいらしいお嬢さんの前で、みっともないところを見せてしまったね」
言って、鉄壁は私の助けを拒絶するように、自力で立ちあがる。ひしゃげた大盾の惨状を見るに、軽傷ではないだろうに、女の前であるというだけで平静を装っているのだから、やせ我慢もここまでくると感心する。
「フィーリ、あの盾を出して」
「よろしいのですか?」
「どうせ使わないんだから」
返して、フィーリから大盾を取り出して、鉄壁に渡す。
「これ、貸してあげる」
「これは──黒鉄の作かな?」
以前に、黒鉄の鍛えた魔鋼の盾を見たことがあるからであろう、鉄壁は即座に見抜いて、盾を構えてみせる。
「惚れぼれするような盾だね。いったいどんな素材でつくられているんだい?」
「古竜の鱗」
「──は?」
鉄壁の笑顔が凍りつく。
それは正真正銘、竜鱗の大盾であった。古竜の鱗が余ったから、と黒鉄が戯れに鍛えたものでありながら、黒鉄自身は「粘りのある魔鋼の盾の方が使い勝手がよい」と訳のわからぬことを言って──結局のところ、誰も使い手がおらず、旅具の中に死蔵していたものである。
「誰も使ってない盾だから、好きにして」
「好きにして──って」
鉄壁はためらうようなそぶりを見せる──が、そんなことを言っている場合ではないと思い直したのであろう。
「──ありがたく使わせてもらうよ」
言って、鉄壁は淑女にそうするように、大仰な辞儀をする。
「──貴様も道連れにしてやる!」
もはやこれまで、と覚悟を決めたのであろう。ラウムは撤退をあきらめて、二刀の曲刀を抜いて、蜘蛛を迎え撃たんとする。
蜘蛛は、足止めに徹していた手練れの団員たちを、いつのまにやら喰い散らかしていて、その味にも飽きてしまったものか、より活きのよい獲物を求めて──ラウムに向き直って突進する。蜘蛛はラウムの全身を粉々にする勢いで迫って、まさに跳ね飛ばさんとする──そのとき。
「──鉄壁!」
「待たせたね!」
ラウムの前に立ち、竜鱗の大盾を構えて、見事に蜘蛛の突進を阻んだのは鉄壁であった。蜘蛛の動きが止まったと見るや否や、ラウムは鉄壁に礼も言わずに、その脇を風のように駆け抜ける。
「青」
今こそ勝負どころであると直感して、その名を呼ぶ。
「御意」
私の意図を察したのであろう。短く答えて、私とロレッタを守るように傍らに控えていた青が剣を抜く。
ラウムは蜘蛛の脚の間をすり抜けるようにして二刀を振るい、その脚を落とす。蜘蛛は平衡を失ってよろめいて──瞬間、銀光がきらめく。
青が剣を鞘におさめる──と同時に、蜘蛛はその身を両断されて、息絶える。
蜘蛛の死骸を蹴りつけて、間違いなく死んでいることを確かめてから、ラウムは蜘蛛に喰われた団員の残骸を拾いあげ、一所に集めて──おもむろに火を放つ。死体を持ち帰ることもできず、かといって放置しても新たな魔物に喰われるだけであろうから、迷宮での弔いとしては上等の部類であろう、と思う。
私はフィーリから取り出した薪をくべる。果樹を用いてつくられたというのその薪は燃えると香りよく、せめてものなぐさめになれば、と惜しみなく火に放る。
「くっそ! 何て迷宮だよ!」
蜘蛛の死骸を蹴りつけながら、ラウムは悪態をつく。
「ラウム傭兵団が壊滅! 壊滅だと!?」
ラウムの悲痛な叫びに、鉄壁は真摯に向きあう。
「ラウム、傭兵団は壊滅していない──まだ、君が残っているじゃないか」
言って、鉄壁はなおも死骸を蹴り続けるラウムの肩をつかんで、やわらかく制止する。
「団長たる君が、団員の願いを汲まなくてどうする」
切々と語る鉄壁の言葉に、団長だけでも逃がそうと奮迅した団員たちの姿を思い起こしたのであろうか。
「騎士崩れらしい説教たれやがるな、お前は」
ラウムは訳知りに返しながら、鉄壁の手を振り払って。
「そんなこと──誰よりも俺がよくわかってんだよ」
つぶやいて、ラウムは再び蜘蛛の死骸を蹴りつけて──迷宮の奥へと歩み始める。




