8
暗い河のほとりで、どれほどの時を過ごしたのであろうか。
気がついたときには、私たちは滅びた漁村に立っていた。海に沈んでいたはずの漁村は、どういうわけであろうか、今や姿をあらわにしており、私たちの前にその残骸をさらしている。崩れ落ちた家々には、貝や海藻といった様々なものがこびりついており──あたりは、つい先ほどまで海に沈んでいたのではないか、と思えるほどに磯臭い。
私たちは、念のため、と次元回廊でアウスのいた空き家をのぞいてみる。空き家には、手紙はもちろんのこと、彼の亡骸も残っておらず──次元回廊にとらわれていたことさえ夢だったのではないかと思えるほどに、何の痕跡も見られない。ただ、アウィア婆の手にしたアウスの手紙だけが、あの悪夢のような出来事が、決して夢ではなかったのだと物語っている。
わずかに以前の痕跡を残すばかりの漁村を後にして、私たちはルトゥスに戻るべく歩き始める。今度は陸路で、アウィア婆にあわせて、緩やかに歩む。道中、私たちの旅の話を語って──嘘のような本当の話の数々に、アウィア婆は相好を崩して、けらけらと笑う。
そうこうして歩いているうちに、半日もかからず、私たちはルトゥスに帰り着く。時刻は夕暮れ、丘から見下ろす街並み、そして海の夕映えは、どこか懐かしく私たちを迎えて──生きて帰ることができたのだ、と感慨深く眺める。
「桟橋まで、送ってもらえるかしら」
言って、アウィア婆は港に向けて街を下り始める。漁村からルトゥスまで、それなりに歩いているというのに、その足取りに不安なところはなく、かくしゃくとしている。やがて、桟橋の端──いつもの定位置までたどりついて、彼女は海を眺めながら、ただいま、とつぶやく。
「おかえりなさい」
私が応えると、アウィア婆はおもむろにこちらに向き直って。
「マリオンちゃん、ありがとう!」
と、感極まったように、私に抱きつく。
「これで、本当に思い残すことがなくなってしまったわ!」
「ちょっと、お婆ちゃん、苦しい──」
老婆の力とは思えぬほどに強く抱きしめられて、さすがに払いのけるわけにもいかず、声をあげて抗議する。
「あら、ごめんなさい」
と、いくらか力を緩めて──それでも私を抱いたまま、彼女は喜びにあふれている。
「明日、桟橋に私の姿がなかったら、街のみんな、きっと私が死んだと思うわね」
言って、アウィア婆は、まるで童女のように、いたずらっぽく笑う。そんな冗談が言えるくらいなのだから、存外に長生きするのではないか、と思う。
「本当にありがとう。アウスの分も、お礼を言わせてもらうわ」
礼を述べて、私の頬に口づけまでして──アウィア婆は、アウスからの手紙を宝物のように大事そうに抱いて、何度も振り返って手を振りながら、夕暮れの街に去っていく。
結局、私たちはその手紙を読むことはなかった。手紙には何と書いてあったのであろうか。気にならないと言えば嘘になる──が、それはきっとアウィア婆だけが知っていればよいことなのだ、と私は彼女の背中を見送る。
次元回廊にとらわれたことを発端に、かれこれ数日は経っているはずであるというのに、灯台亭ではいまだに酒宴が続いているようだった。店主によると三日目の夜とのことで、本当に三日三晩飲み続けたのだなあ、と感心さえする。とはいえ、酒場は死屍累々、ほとんどの船乗りたちは、飲み疲れて床で眠っており──私たちは彼らを壁際に寄せて、空いたテーブルに陣取る。
「乾杯!」
と、かつてない脅威からの生還を祝って、私たちは酒杯をあわせる。
「生きて帰れるとは思わんかったのう」
言いながら、生きていることを実感しているのであろう、黒鉄は一息にエールを飲みほして、給仕におかわりを注文する。船長の奢りで。
「マリオンのおかげでもあるが──此度ばかりはロレッタのおかげでもあるのう」
黒鉄は、めずらしくロレッタを褒めて、ほれ、もっと飲め、と酒を勧める。
「あたしもびっくりだよ」
言って、ロレッタは黒鉄に応えるように酒杯を傾けて──抜き身のまま腰に留めていた長剣をテーブルに横たえる。
「短剣だったはずなのに、気づいたら長剣になってるんだもの」
「鞘をつくってやらんとのう」
興味深そうに長剣を手に取る黒鉄を眺めながら──私は、そういえば、と思い出す。
「フィーリ、赤剣って、何だったの?」
戦いの最中、フィーリは長剣と化した剣を認めて、それを「赤剣」と呼んだ。フィーリならば、不可思議な剣の秘密を知っているのではないか、と旅具に向けて問いかける。
「赤剣──グラド・ルブラ」
フィーリは、ぽつりとつぶやく。
「私の認識を阻害するほどの魔法がかかっている時点で気づくべきでした」
「どういうこと?」
思わせぶりな旅具の言葉に、疑問の声をあげる──と。
「マリオンにわかるように言うならば──その赤剣は、赤毛の勇者某の持つ神剣です」
「──は?」
思わぬ発言に間抜けな声をあげて──事情を呑み込めずにいる私をよそに、フィーリはロレッタに問いかける。
「ロレッタの父上の名前は『ルテリス・ウンド・ブルム』というのではありませんか?」
「親父の名前は、ブルムだけど──」
と、急に話を振られてとまどいながら、ロレッタは答える。
「間違いありません。ロレッタは、赤毛の勇者の──娘です」
「──は?」
今度は声だけでなく、相当に間抜けな顔をしていたであろう、と思う。
「ちょ、ちょっと、フィーリ先生──」
と、ロレッタは酒杯をテーブルに置いて、ちょっと待って、と続ける。
「あたしも赤毛の勇者については知ってるけど──でも、その勇者って、数百年も昔の英雄なんでしょ? フィーリ先生の言うことだから、嘘じゃないとは思いたいけど──」
ちょっと信じがたいかなあ、とロレッタは首を傾げてみせる。
「それについては、説明がつくのです。つまるところですね──」
「ちょっと待った!」
と、私は割って入って、フィーリの口をふさぐつもりで、胸もとの旅具を両手で覆う。
「フィーリが今から話そうとしてること、赤毛の勇者の冒険譚と、どのくらい関わりがあるの?」
「どのくらいも何も、物語の根幹ですが」
平然と返す旅具に、私は殺気を放つ。
「絶対! 話したら! だめ!」
私は、伯爵から借りた十数冊の本──赤毛の勇者の冒険譚を、まだ読み終えていないのである。読み終える時間は十分にあった。しかし、私はその冒険譚を大切に──本当に大切に読み進めており、いまだ三巻の途中までしかたどりついていないのである。
私にとって、読書は神聖なものであった。高級な宿に泊まった折、何かとうるさい黒鉄とロレッタを部屋から追い出して──二人は酒代を渡せば喜んで出ていく──何ものにも邪魔されずに楽しむもの、それが読書なのである。静かな部屋で、一人、頁をめくり──外には雨が降っていて、その雨音が、かすかに部屋に響いているなどすると、なおよい──ともあれ、私は赤毛の勇者の冒険譚の続きを何よりの楽しみとしており、物語の根幹に関する事柄など、絶対に聞きたくはないのである。
「フィーリ先生! あたしには教えてよ!」
「儂にも頼む。この長耳が、勇者の娘とは、聞き捨てならんわい」
「つまるところですね──」
私の制止もどこ吹く風──フィーリは二人に向けて語り始めて。
「聞こえない! 聞こえないんだから!」
私は胸もとの旅具をロレッタに向けて放り投げて──慌てて耳をふさぐのであった。
「海神」完/次話「幽霊」




