7
私は暗い河のほとりに立っていた。
天には星──いや、地にさえも星が瞬いており、星の世界にも河が流れているのだなあ、と私は何の疑問も抱かずに、その美しき流れに見惚れる。この世ならざる美しさに、もしかすると私はすでに死んでいて、死者が渡るという河の前に立っているのではないか、と思いをめぐらせる。
「なんじゃ、ここは?」
と、その考えを否定するかのように、野太い声があがる。
「黒鉄!」
暗がりの中、声のする方に駆け寄って、もじゃもじゃの髭に飛びつく。ちくちくと肌を刺す髭の感触さえ懐かしく、私は自らが生きていることを実感する。
見れば、黒鉄の傍らには、ロレッタとアウィア婆の姿もある。二人とも、先ほどまでの私と同様に、呆けたように河に見惚れている。
「──次元回廊が崩壊しているのです」
胸もとで、フィーリがつぶやく。
やがて、暗い河には、両腕で抱えられそうなくらいの小さな星が、次々と流れてくる。星は、まるで絵画のように世界を切り取っており──先ほどまで私たちのいた漁村の、ありとあらゆる事象が描かれているようにも思える。
「あの星の一つひとつが、海神によって次元回廊に閉じ込められ、繰り返し滅ぼされた世界なのです」
そう告げるフィーリの言葉の意味が呑み込めず、私は呆けたように星を眺める。
「この星──全部、が……?」
ロレッタがつぶやいて──私は我に返る。眼前に幾千──いや、幾万の星があるというのであろうか。海神は、それらすべてを繰り返し滅ぼして、いったいどれほどの絶望をむさぼり喰ったというのであろうか。海神のおぞましさに、今さらながらに身をすくませる。
「ああ!」
と、不意にアウィア婆が叫んで──彼女は制止する間もなく河に飛び込んで、流れる星の一つにすがりつく。
「お婆ちゃん!」
私は慌ててアウィア婆の後を追って、その肩を抱いて──彼女の抱きしめる星に描かれた世界をのぞき込む。
星のうちの世界では、アウスが手紙を書いている。それは、アウィア婆に宛てた手紙である。星々のうちにある、すべての世界で、何千通──いや、何万通と書かれたであろう、彼女に宛てた手紙である。アウィア婆は、食い入るようにアウスをみつめて、その瞳から大粒の涙をこぼしながら、うわごとのように夫の名をつぶやいていて──だから、私は、一通くらい彼女に届いてもよいではないか、と思ったのである。
「えい」
私はアウィア婆の代わりに、星に手を突っ込んで、アウスの書きあげた手紙を、むんずとつかんで奪い取る。
「マリオン!?」
胸もとでフィーリが驚愕の声をあげる。
「何てことを! 下手をすれば腕が失われるところですよ!」
「失われなかった」
返して、手にした手紙を、ひらひら、と躍らせる。
そして──奇跡が起こった。
星のうちの世界のアウスは、呆然としている──目の前で、書きあげた手紙が消えたのであるから、当然であろう──彼は手紙の消えた虚空をみつめて、何を思ったのであろうか、アウィア、と最愛の妻の名を呼ぶ。
「アウス! アウス!」
アウィア婆にも、その唇の動きがわかったのであろう。星の被膜に隔てられて声は届かないというのに、彼女は星にすがりついて、応えるように何度も彼の名を呼ぶ。
「あちらとこちらでは時の流れが異なるのです。見えているはずはないのですが……」
目の前の奇跡を信じられぬ様子で、フィーリがつぶやく──が、アウスには何も見えていないのであろう、と思う。妻に宛てた手紙が忽然と消えた。それならば、手紙の消えた先に、妻がいるのではないか──いや、妻がいたならいい、と願っているだけなのかもしれない。それは単なる偶然で、彼の気まぐれで──それでも、アウィア婆にとっては、まぎれもない奇跡だった。
アウスは何度も、アウィア、と唇を動かして──アウィア婆は、幾度となく呼ばれたであろう自らの名を噛みしめるように、彼の唇から目を離さない。
やがて、アウスの唇が、ありがとう、と動いて。
「──私の方こそ、ありがとう」
そして、もともと手紙を渡す際にそう伝えると決めていたのであろう、照れくさそうに、いつまでも愛している、と告げて──アウスは、優しく笑う。
「──私も、愛しているわ。ずっと、ずっと──今だって、あなたを愛しているのよ」
告げて、アウィア婆は、アウスに向けて、別れの手を振る。嗚咽をもらしながら、それでも無理やりに微笑もうとして──皺だらけの顔を、さらにくしゃくしゃにして、彼女はアウスを見送る。
アウィア婆の手を離れた星は、まるで二人の別れを待っていたかのように、再び暗い河を流れ始めて──そして、彼方へと消えた。




