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私たちは、そのときがくるまでの間、英気を養うために、宿代わりの空き家へと戻った。
家に入るなり、フィーリから取り出した食料、それに酒を、ところせましと床に並べて──隣の部屋で書き物をしている先客のアウスまでを呼び寄せて、私たちは壮行の酒宴を張る。
「やあ、こんなところで、こんな豪勢な食事にありつけるとは、思いもしませんでしたよ」
「アウス殿は運がよいのう」
黒鉄とアウスは、思いのほか気があうようで、語らいながら酒を酌み交わして──酔いのまわったアウスが、ロレッタのことを絶世の美女であると褒めそやしたときには、隣のアウィア婆の笑顔に肝が冷えたものであるが──私たちは、概ね和やかに酒宴を楽しむ。
やがて、夜も更けて──アウスは酒宴を辞して、部屋の隅で眠りにつく。そのアウスの寝顔を肴にして、アウィア婆は夫婦の挿話を語って──私は、その何気ない日常の物語に、焦がれるような郷愁を覚える──それは、もしかしたら、他の皆も同じだったのかもしれない。
「そろそろ──だね」
つぶやいて、私たちは酒宴を切りあげる。手早く片づけを済ませて──といっても、フィーリの中に、もろもろを放り込むだけであるが──戦いの準備を整えて、空き家を出ようとしたところで。
「──こんな夜更けにお出かけですか?」
「ええ、少し夜風にあたりに」
どうやら出立の準備でアウスを起こしてしまったようで──問いかける彼に、私はそう答える。
「お気をつけて」
あくびをしながら告げるアウスに、頷いて返して。
「──あなたも、お気をつけて」
と、割って入ったのはアウィア婆だった。アウスの手をとって、祈るように告げる。そんなことを願ったって、過去が変わることはない。それでも、そう願わずにはいられないのであろう、アウィア婆は涙をこらえながら、アウスをみつめる。
「え、ええ」
アウィア婆の切なる願いも、アウスにとっては突然の厚情にすぎず、彼はとまどいながら答えて。
「──では、いってきます」
私たちは、宿代わりの空き家から、決戦の地──海神の顕現する広場を目指す。
私たちは漁村の広場で、そのときを待つ。
アウィア婆を背後にかばうようにして、三人で前に立ち、広場の中心から視線を外さない──いや、外せない、という方が正確かもしれない。刻一刻と海神の神気は強まり、いずこからか滲み出たそれは、周囲の空気を重く、より濃密なものに変容させていく。やがて、神気にこらえられなくなったアウィア婆がうずくまる──が、彼女には申し訳ないが、まだフィーリに頼るわけにはいかない。
どろり、とした神気が、渦を巻くように集束して──そして、ついにそのときが訪れる。
「──くる」
つぶやく──と同時に、広場の中心に海神が顕現する。神気は、もはや洪水のように押し寄せており、私たちはその奔流に押し流されそうになって──。
「フィーリ!」
『──』
私の呼び声に応えるように、フィーリが何やら唱える──と、私たちの身体を薄く光る膜が覆って、それとともに海神に抱いていた押し潰されそうなほどの畏怖の念が、嘘のように消えていくのがわかる──どころか、その畏怖に取って代わって、海神何するものぞ、という奮起の念さえわいてくる。
「おおお!」
高揚した黒鉄が吼えて──私も自らを鼓舞するように、鬨の声をあげる。
海神め、目にもの見せてくれようぞ!
気を吐いて、海神をにらみつければ、どうやら奴は私たちなど眼中にはないらしく、絶望の捕食に夢中なようで──それはそれで好都合、と私は先陣を切って、疾風のごとく駆け出す。
『風よ!』
四つ身に分身して、三連の風撃を放って、触手を牽制しながら、海神の懐に飛び込む。風撃は、それぞれに奴の触手を穿って──どうやら、虫に刺された程度の痛みは感じてくれたようで、奴は嫌がるように三本の触手を退いて──私は、そのまま駆け抜けて、奴の背後にまわり、旅神の弓を構える。
『弓よ! 我が意に従いて、その力を示せ!』
旅神の弓の封印を解くために、フィーリから事前に教えられた力ある言葉を唱える──と、その瞬間、私の身体は、不可視の巨人に握り潰されるような、強烈な負荷に襲われる。
「マリオン!」
苦痛にうめく私を案じるように、胸もとのフィーリが声をあげる。なるほど、使い手の負担が大きいとはこういうことか、と封印解除の代償を思い知りながら──上等ではないか、と神に唾する。
「──死んでも、お前を射抜いてやる」
海神は、ようやく自らのまわりを飛びまわる羽虫の存在に気づいたようだった。いまだ傷ついていない残りの五本の触手を、羽虫を払うように振りまわして──そのうちの二本が、奴の背後にまわった私を襲う。
「うおおお!」
吼えて、私をかばうように割って入ったのは、黒鉄だった。右から襲いくる触手に向けて、古代の斧を両手で振るって──渾身の一撃は、触手の表皮をわずかに削る。海神は、そのわずかな傷をも嫌ったようで、触手を退いて──次いで、私を襲わんとしていたもう一本の触手を黒鉄に向ける。黒鉄は、襲いくる触手を受け止めるべく、魔鋼の盾を構えて──そのまま触手に振り払われて吹き飛び、広場のそばの家屋に突っ込んで──建物は黒鉄を呑み込んだまま倒壊する。触手は、倒壊した家屋の下敷きとなった黒鉄を、なおも警戒しているようで──不気味に蠢きながら、その場にとどまる。
『爆炎よ!』
他方で、別の触手がロレッタに襲いかかり、彼女はそれを爆炎で迎え撃つ。ロレッタの爆炎は、触手の表皮を覆う粘液を蒸発させる。粘膜を失った触手は、直接外気にさらされて──海神にはそれが不快だったようで、奴は触手を退いて、粘液を補充するかのように、触手を自らにからみつかせる。
残る触手は二本──二本を凌げば、星を穿つ一撃を放つことができる。しかし、たった二本の触手は──されど、絶望的な二本であった。
「うおおおおお!」
倒壊した家屋の瓦礫を押しのけて、黒鉄が立ちあがる。決死の覚悟であろう、再び私と海神との間に割って入って──まるで、すべてを受け止めようとでもするかのように両腕を広げて、襲いくる触手を迎える。
「黒鉄!」
逃げて、と叫ぶが──黒鉄は微動だにしなかった。自らを待ち受けていた触手と、新たに襲いくるもう一本の触手の連撃を、避けることなく、鎧の竜鱗で受け止めて──神の一撃の前に、さしもの古竜の鱗さえも砕け散り、黒鉄はその場に倒れ伏す。
『爆炎よ!』
倒れた黒鉄に駆け寄って、かばうように前に立って、ロレッタが唱える──が、彼女の腕から爆炎が放たれることはなかった。魔法は、発動しなかったのである。力ある言葉に誤りはなかった──とすれば、魔法を構成することができなかったということであろう。海神の威容を前にして、精神を安定させて魔法を構成するということが、どれほどの困難をともなうものか、私には理解できていなかったのかもしれない。しかも、荒事の苦手なロレッタなのである。むしろ、最初の爆炎を放ったことを、褒めてやるべきなのであろう。彼女を責める気にはならない。
黒鉄は倒れ伏し、ロレッタは立ち尽くし──それで、終わりだった。
もはや、触手に向けて打つ手はなく、私たちは無防備に海神の悪意にさらされて──やがて、海神の触手の最後の一本──海神の憎悪に怒張したそれが、私に襲いかかる。望むところである。私の命を懸けて──いや、私の命を賭けて、残りの全員の命を勝ち取ってみせる。そう決意して、私は迫る触手を避けることなく、死しても放すまいぞ、と旅神の弓を力強く握りしめる。
「うわああああああ!」
私の眼前に触手が迫り──叫んだのはロレッタだった。なけなしの勇気を振りしぼったのであろう、泣きべそをかきながら、いつぞやの赤い短剣を振りかざして、触手に向かって飛びかかって──絶望的な戦いの最中であるというのに、私は思わず微笑んでしまう。ロレッタの攻撃は無駄に終わるであろう。彼女にもそれがわかっている。それでも、飛びかからずにはいられなかった──そんな彼女と一緒なら、死出の旅路もわるくない、と私は胸を熱くする。
そのときだった。
ロレッタの裂帛の気合いに応えるように、短剣は紅く輝き──気づけば、彼女の手には、まるで最初からそうであったように真っ赤な長剣が握られている。
「赤剣!?」
胸もとでフィーリが驚愕の声をあげて。ロレッタの赤い長剣は、海神の触手を抵抗なく斬り裂いていき──ついには、私たちのいかなる攻撃をも受け止めてみせたその触手を、一刀のもとに斬り飛ばす。
『──!』
海神の叫びは、驚きの声だったように思う。奴は、失われた触手が、まだそこにあるかのように、その根元を動かして──斬り飛ばされた触手は、それに呼応するかのように、地面をのたうちまわる。
「今です!」
フィーリの合図に我に返って。
『弓よ! すべてを穿つ弓よ!』
封印の解けた弓に向かって、私は命ずる。
『古の盟約にもとづき、我が力となりて、天外を穿て!』
放たれた矢は──光だった。私は矢を放った反動で後方に吹き飛びながら、確かにその光を見た。光は海神を貫き、漁村を貫き、そして漁村と外界を隔てる被膜──次元回廊をも貫き、どこまでも直進して──次の瞬間、光の貫いたものすべてが、轟音とともに爆ぜる。
『──!』
海神が海鳴りのように咆哮して──言葉の意味はわからなくとも、それが苦悶の叫びであることは伝わる。
光の爆ぜた痕は──無だった。
そこには、最初から何も存在していなかったかのように、虚無の大穴があいている。海神にも、漁村にも──そして、次元回廊の境界にさえも。星を穿つ一撃には何ものも抗えなかったようで、すべてを貫く大穴があいていて、その穴を起点として──世界は崩壊を始める。
「マリオン! 海神が退きます! 風を!」
フィーリに命じられるまま、私は最後の力を振りしぼって、皆を守るように風を呼ぶ──と同時に、私たちは崩壊する次元回廊の渦に巻き込まれて──そのまま意識は闇にとける。




