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それは、寝入りばなのことだった。
広場の方からであろうか、海鳴りのような音が轟いて、私は目を覚ます。轟音は次第に小さくなっていくものの、鳴りやむことはなく──黒鉄、アウィア婆の順で目を覚まして、最後まで寝ているロレッタを叩き起こす。
「何なんじゃ、この音は」
黒鉄は、いまだかすかに響く音の正体を探ろうと耳に手をあてて──それでも判然とはしなかったようで、首をひねって私を見やる。
「確かめにいこう」
音の正体は、私にも判然としない──が、次元回廊に閉じ込められてから、これは最初の異変である。もしかすると脱出の糸口をつかむことができるかもしれない、と私は決断して──黒鉄とロレッタは神妙に頷いて、二人は出立の準備を始める。
「私は、どうすれば──」
と、アウィア婆は不安そうに問いかける。
「何が起こるかわからないから、お婆ちゃんも一緒に行動した方がいいと思う」
震えるアウィア婆の手をとって、ぎゅっと握る。
「私たちが必ず守るから」
「儂らのそばが、もっとも安全よ」
言って、黒鉄は胸を叩いて──剛勇を誇るドワーフの力強い断言に、いくらか安心したものか、アウィア婆は私の手を握り返す。
私たちは準備を整えて、顔を見あわせて、互いに頷いて──部屋の隅で眠るアウス起こさぬよう、そっと空き家の外に出る。
音の出どころ──広場に近づくにつれて、私の足取りは重くなる。まるで、何ものかの気配が濃密な霧となり、私の行く手を阻んでいるような、そんな錯覚さえ覚えて──私の本能が、この先に進むべきではない、と警鐘を鳴らしている。とはいえ、この先に待ち受けるものが、次元回廊をつくり出したものであるならば、脱出の交渉のためにも進まないわけにはいかず──私は、前進を拒否する本能を押し殺して、ようやく広場までたどりつく
「──何もないではないか」
黒鉄は、周囲を見まわして、そう告げる。
「もしかしたら、気のせいだったのかも」
ロレッタも、同意するようにつぶやく──が、今や海鳴りは遠雷のごとく響き、身体にまとわりつく、どろり、とした気配は、ますます濃くなっているのである。何もないはずがないということくらい、彼女にもわかっているであろうに──ロレッタは、何もなければよい、という自らの願望を信じ込もうとするかのように、気のせいだよ、と繰り返す。
「何もないなら、戻ろうか」
言って、ロレッタは踵を返して、すぐにでも広場から逃げ出したいという欲求のまま駆け出して──そして、石にでもなったかのように固まる。
眼前に──名状しがたい何かが顕現した。
何もなかったはずの広場の中心に、突如として何かが現れて──想像を絶する神気に圧倒されて、私はたまらず膝をつく。天を衝くような威容は、ぬらぬらと妖しく緑に光り、腕のようにも思えるいくつもの触手は、まるでそれ自体が個々の生き物であるかのように蠢いて──あまりのおぞましさに、私の理性はその存在を理解することを拒んでいる。
『──』
それの声を聞いて、私は戦慄する。それは神代の言葉であった。聞くものが誰であっても、その意味するところを理解できるという神々の言語──その誰にでも理解できるはずの言語を用いて、それは誰にも理解できないであろう「何か」をつぶやいているのである。
「マリオン、動けますか」
フィーリの声に我に返って──そして、身の毛もよだつような恐怖が、いくらかやわらいでいることに気づく。
「私の機能で、マリオンの精神を保護しています」
フィーリの言葉に、他の皆を見やる──と、旅具の保護のない皆は、惨憺たる有様だった。アウィア婆は倒れ伏して動かず──気を失っているだけならよいのであるが──黒鉄は呆けたように虚空をみつめて立ち尽くし、ロレッタに至ってはその場にへたり込んで失禁しているのである──とはいえ、彼女の失態を笑う気にはならない。それどころか、誰も発狂していないだけ幸運であった、と安堵の胸をなでおろす。
『──』
それは、再び理解できない「何か」をつぶやいて──唯一、正気をたもって相対する私を睥睨する。それは、微塵も敵意を放っておらず──いや、そもそも矮小な人間ごときに敵意を抱く必要などないのであろう──ただ、邪魔なものを払うがごとく、触手の一本を振るう。
『風よ!』
唱えて、風撃を放って、襲いくる触手を押し戻して──慌てて、それの間合いから逃れる。逃げた私に触手の追撃はなく──それにとっては、私など羽虫のようなものにすぎないのであろう、と悟る。私たちが羽虫を払う際に手を振るがごとく、羽虫がどこかに消えさえすれば、その羽虫の生死になど興味はないのである。故に、追撃の必要もない。
それは、私がそばから離れたことで、羽虫への興味を失ったようで──おもむろに海に向かって咆哮する。
『──』
それの呼び声に応えるように、さらなる海鳴りが轟いて──次いで、天まで届く津波が押し寄せる。それは比喩ではない。文字どおり、津波は天まで届き、曇天の空を覆い隠しているのである。あんなものに呑まれたら、我々など──いや、漁村など、ひとたまりもなく、海の藻屑と消えるであろう。
「マリオン! 風を!」
呆然と立ち尽くす私に、フィーリが叫んで──我に返って、慌てて皆を集める。
『風よ!』
唱えて、皆を守るように風を展開する──と同時に、津波が押し寄せて、すべてが呑み込まれる。
その瞬間、私は確かに見た。それが、漁村から何か黒いものを吸いあげて喰らうのを。そして、確かに聞いた。その──おぞましき嘲笑を。




