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三日三晩続けるという酒宴に、初日の夜に早々に飽きて、私は夜風にでもあたろうと思いたって、港に足を向ける。高台にある灯台亭から港まで、鼻歌まじりに街を下る。ずいぶんな夜更けであること──そして、宵っ張りの連中はこぞって灯台亭に集っていることもあって、街には誰も出歩いておらず、私は通りを独り占めして、踊るように飛び跳ねて歩く。やがて、港にたどりついて、大きく伸びをする──と、視界の隅に何かをとらえて、私は既視感を覚える。見れば、桟橋の端には、昼に見かけたときと変わらず、ぽつんと老婆が立っている。夜更けに老婆が一人、いったい桟橋で何をしているのであろうか。もしや妖の類ではあるまいか、と疑って──どれ、確かめてみよう、と私は老婆に声をかけてみる。
「お婆さん、こんな夜更けに、何をしてるんですか?」
私の発した声は、どうやら老婆に届いたようで、彼女はいぶかしげな顔で振り返る。
「お嬢さんこそ、こんな夜更けに何をしているの?」
私の身を案じるように返す老婆は、見るかぎり人間のように思える。
「私はともかく、お嬢さんみたいな娘さんがこんなところにいたら、危ないわ」
船乗りって気性が荒いから、と老婆は言いかけて──まわりに誰もいないことに気づいて、驚きの声をあげる。
「あら、めずらしい。今晩は、宵っ張りの船乗りたちがいないのね」
「灯台亭で酒宴の真っ最中なんです」
事情を話すと、老婆は、まあ、とあきれるように笑う。
「あなた、旅人さん?」
「──わかりますか?」
老婆の指摘に、はて、と首を傾げる。私の風体からすれば、旅人というよりは、街に出入りする近隣の狩人とでも思われそうなものなのであるが。
「街の人なら、私がここに立って海を眺めていても、声をかけたりはしないから」
老婆の答えに、なるほど、と頷く──と同時に、老婆は街の皆に知られるほどに、ずっとこの場に立っているのであろうことを思って、私は彼女の素性に興味を覚える。
「あら、失礼」
と、老婆はつぶやいて。
「私はアウィア。街のみんなからは、アウィア婆さん、って呼ばれてるわ」
そう名乗る老婆──アウィア婆は、その年輪のように深く刻まれた皺の割に、言動は若々しく、快活な人となりがうかがえる。
「私はマリオン」
名乗り返して──私はアウィア婆の隣に並んで、彼女の視線の先にある海を眺める。
「私は旅人なんで、尋ねてもいいですか?」
「──どうぞ」
アウィア婆は、何を尋ねられるか、わかっているのであろう。私に向き直って、微笑をたたえたまま、質問をうながす。
「こんな夜更けに、何をしてるんですか?」
「──私ね、孫が産まれたの」
ものすごくかわいいのよ、と力説するアウィア婆の言葉は、しかし質問の答えにはなっていない。
「娘がよい殿方に嫁いで、孫も産まれて──もう、いつ死んでもいい。思い残すことは何もない──って、そう思っていたんだけどね」
と、そこで言葉を区切って。
「一つだけ、心残りがあるの」
アウィア婆は、ぽつりとつぶやく。
「私ね、若い頃に夫を亡くしてるの」
アウィア婆の語るところによると、彼女の夫は商人であり、二人はルトゥスを拠点として、近隣から仕入れたものを売って、生計を立てていたのだという。
「露店から、あっという間に商店に──私たち夫婦の手腕は、なかなかのものだったのよ」
と、アウィア婆は誇らしげに笑う。
夫婦は仲睦まじく、いつも一緒に買いつけに出かけていたのであるが、そのときだけは事情が違ったのだという。
「私は娘を身ごもったばかりで身重でね」
と、アウィア婆は腹をさすりながら続ける。
身重の彼女をルトゥスに残して、単身買いつけに出かけた夫は、その帰りに滞在していた漁村で、不運にも津波に襲われて──村とともに海に沈み、帰らぬ人となったのだという。
「悲しいというわけではないのよ。もう、何十年も前のことだもの──でも、私にもそろそろお迎えがくるかもしれないって思ったら、急に彼のことが気になってしまって。今さらかもしれないけど、彼のことをちゃんと弔ってあげたいと思ってるの」
アウィア婆は、そう、話を結ぶ。
「でも、海底に沈んでしまった彼をみつけて、弔うなんてことはできないでしょう。だから──こうして、海に沈んだ漁村のあった方を眺めて、彼の死を悼んでいるのよ」
「そう──だったんですか」
アウィア婆の話を聞き終えて、しぼり出すように返す。気軽に聞いてよいことではなかった、と自らの好奇心による質問を後悔しながら──再び海を眺める彼女のその寂しい横顔に、どんな言葉をかければよいものか、と考えあぐねる。
やがて、その沈黙を破ったのは──しかし私ではなかった。
「運がよければ、弔うことができるかもしれませんよ」
と、勝手なことを言いだしたのは、胸もとの旅具──フィーリだった。
『風よ!』
フィーリに指示されたとおり、周囲に球状の風を維持するよう意識して、風神の指輪に命ずると、風は私たちを守るように海水を押しのけて──私たちは、あらわになった海底を歩くことさえできるようになる。
「へえ、こんな使い方もあるんだ!」
「──急に魔法が解けて、溺れ死ぬようなことはあるまいな?」
風神の指輪の新たな用途に感心するロレッタとは対照的に、黒鉄はおそるおそる海底に足を踏み出す。
アウィア婆と出会った翌朝のこと、私は黒鉄とロレッタを叩き起こして──どうやら昨晩はしこたま飲んだようで、起こすのには難儀した──二人を連れて桟橋に出向き、アウィア婆に私の仲間として紹介して──私たちは、海底を歩いて、海に沈んだ漁村を目指すこととあいなった。漁村の痕跡をみつけて、あわよくばアウィア婆の夫の遺品を持ち帰ろうという算段であるが、アウィア婆としてはそこまでのことを期待しているわけではなく、漁村で夫のことを偲ぶことができれば十分という心づもりらしい。
桟橋から、風に守られながら海底を歩き始めると、すぐに頭まで海に沈む──が、風神の指輪から無尽蔵に供給される風のおかげで、私たちは濡れることも、溺れることもなく──球状の風に包まれたまま、海底を行く。
「あなたたち、きっと高名な魔法使いなのね!」
アウィア婆は目を丸くして、自らを包む風の向こうに広がる海底の光景に見惚れる。
「いやあ、それほどでも」
なぜにロレッタが謙遜する。
「海に沈んだ漁村は、そんなに遠くはないはずよ。半島を迂回しながら歩いて半日かからないくらいだったから、海底を真っすぐに進めば、もっと早くに着くんじゃないかしら」
そう説明するアウィア婆に案内されて、私たちは海に沈んだ漁村を目指す。
海底は、それほど深いところではないからであろう、射し込む陽光のおかげで明るく、歩くのに不便はない。風の向こうは、海の中である。透きとおるような碧い海を、見たこともないような魚が泳いでおり、私たちは、それを好奇の眼差しで眺める──と、魚の方も、私たちをめずらしく思っているのであろうか、魚たちはいろいろな角度から私たちを眺めようとするかのように、海と風の境界をぐるぐるとまわり──その様が、まるで踊っているようにも思えて、私たちは、自然、笑顔になる。
「もうそろそろ、漁村のあったあたりに着くと思うのだけど──」
アウィア婆がそう告げて──私は風を操り、より大きな球状に広げて、皆で周囲の探索を始める。
「──ねえ、何か変なものがあるよ」
やがて、ロレッタが何かをみつけたようで、声をあげる。
「なんじゃ、これは?」
次いで、ロレッタのもとに駆けつけた黒鉄も、疑問の声をあげる。遅ればせながら、私もその変なものとやらを目にして──彼らの疑問も、もっともであろう、と納得する。目の前には、奇妙な灰色の膜があった。私たちを守る風を、より巨大にしたような球状の膜は、私たちの行く手を阻むように世界を覆っており──その表面は、まるで生き物のように、ゆらゆらとたゆたっている。
「なんだろ?」
私は疑問の声をあげながら、そっと膜に手を伸ばす。
「お待ちください!」
「──え?」
胸もとでフィーリが叫ぶ──と同時に、私の指先が灰色の膜に触れる。すると、膜の表面に、まるで水面のように波紋が生じて──やがて、それは渦を巻いて、私たちを呑み込む。




