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「わあ! 気持ちいい!」
船首に立って両腕を広げると、まるで自らの身一つで海を飛んでいるようにも思えて、疾風のブーツで駆けるように心地よい。
櫂船は、櫂で漕ぐ船という名のとおり、人力で進むのであろうと思っていたのであるが、船は帆に風を受けて、まさに順風満帆──素人目には帆船と遜色なく、白波を蹴たてて進む。南北の大陸に挟まれた内海であると聞かされていたのであるが、とてもそうは思えないほどに海原は広大で、陸を望むこともできない。
「よう、嬢ちゃん。初めての海はどうだい」
「最高!」
尋ねる船長に笑顔で答えて、私は船首をロレッタに譲る。
「そりゃよかった」
船長は無精髭をなでながら笑って──次いで、誰かを探すように甲板を見渡す。
「ドワーフの旦那は?」
「船室でうなってる」
私と代わって船首に立ったロレッタが、苦笑しながら答える。
彼女の言うとおり、黒鉄は船が出航するなり、人生で最悪の二日酔いを思い出す、と言い残して、船室にこもってしまったのである。酒にも酔わない黒鉄が、船には酔うというのだから、わからないものである。
「そりゃ残念だ。今日は絶好の航海日和だからな。旦那にも、船首にでも立ってもらえれば、よい船だって思ってもらえただろうによ」
言って、船長はロレッタに苦笑を返す。
どうやら船長は、黒鉄こそが船と漕ぎ手の雇い主であると思っているようであった。確かに、見た目には黒鉄は年長者に見えるであろうから──おそらく真の年長者はロレッタであるとにらんでいる──船長がそう判断するのも無理はない。とはいえ、私としても、嬢ちゃん、と軽んじられているくらいがちょうどよいから、わざわざ訂正することもない。
「そういえば──内海では風が吹かないから、櫂船じゃないと行き来は難しいって言ってなかったっけ?」
ついでとばかりに、私は船長をつかまえて問い詰める。事前の説明とは異なり、櫂船は風を受けて、船足も軽やかに進んでいて──よもや騙したのではあるまいな、といくらかきつめの口調になってしまう。
「厳密に言えば、風が吹かないとは言ってない。内海の風は難しいと言ったんだ」
船長は私の問いを涼しい顔で受け流す。
「このあたりでは、西向きの風は吹くんだが、東向きの風──西風はあまり吹かない。だから、東西を行き来するんであれば、西に行くのは風任せでも、東に戻る際には人力が必要になる。だから、多くの漕ぎ手を乗せた櫂船でないと行き来は難しいってわけだ」
嘘は言ってないぜ、と船長は悪びれる様子もない。
「ま、俺の船なら心配はいらねえから、嬢ちゃんたちは存分に船旅を楽しむといい」
ドワーフの旦那も楽しめるといいんだが、と言い残して──船長は船尾に向けて去っていく。
船長の背中を見送る──と、甲板には、私が乗船を許可した白髪の男の姿がある。
「あいつ、マリオンから見て、どうなの?」
甲板の手すりに寄りかかって風にあたる白髪の男──男はカニスと名乗った──その背中を顎で指して、ロレッタは尋ねる。
「悪人だよ」
断言すると、ロレッタは、それならどうして、と声を荒げる。
「あいつが他の船を探して、もしも運よく──いや、運悪くかな──船がみつかって、そしてその船で悪さをしたら、その船の人たちは困るかもしれない。最悪、死んでしまうかも。でも、私たちの乗る船で悪さをしても、私たちなら何とかできるでしょ」
「まあ、マリオンと黒鉄がいればね──でも、巻き込まれるあたしの身にもなってよ」
と、ロレッタは苦い顔で不平をもらす。
「何を言ってんの。ロレッタの魔法をこそ、頼りにしてるんだよ」
「はいはい」
いくらかおだてるつもりで発した私の言葉を──本当のところでもある──ロレッタは鷹揚に受け流す。とはいえ、どうやらまんざらでもなかったようで、彼女は鼻歌まじりに船首に向き直って、両腕を広げて風を堪能する。




