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エリアスに案内されて、再び──侵入までを数に入れるなら三度である──辺境伯の執務室に足を踏み入れる。
「何用だ」
辺境伯は、ぞんざいに告げる。来客にも、その用向きにも興味はないようで、書面に目を落としたまま、顔をあげようともしない。
「父上、子爵である私の権限において、こちらの少年の血讐を認めたいと思います」
言って、エリアスは傍らのティオの肩に手を置く。
「おいらを、覚えているか?」
ティオの問いに、辺境伯は答えない。ただ、渋々という様子で、顔をあげる。
「エリアス、お前まで情にほだされおったのか」
辺境伯は娘に失望するように大きな溜息をついて、次いで私に向き直る。
「なぜ、そやつのためにそこまでする?」
辺境伯は、心底わからない、という顔で、私に問いかける。
「民のため、その声を聞くのも巡察使の役目です。それほど不思議なことですか」
私には逆に、辺境伯の心持ちがわからない。首を傾げながら返す──と、その答えがたまらなくおかしかったようで、辺境伯は狂人のように笑う。
「国とは、王のためにあるものよ」
ひとしきり笑ったかと思うと、辺境伯は真顔で告げる。
「巡察使も、王のために尽くすもの。民の声を聞くのも、領主の行いを正すのも、すべては王のためよ」
言って、獰猛に私をにらみつける。
「それを、民のため、などと世迷言を。立場をわきまえるがよい!」
まさに、一喝であった。
窓を震わせるほどの辺境伯の怒声は、今までいかなる敵の怒号さえ受け止めてみせた私の心をも震わせる──ティオを助けたいという私の気持ちは間違っていないと直感しているというのに、辺境伯の主張は、その気持ちは間違っている、私の行いは国に仕えるものとして恥じるべき行為である、と強いてくる。その強制が不快で──しかし、なぜ不快であるのか、うまく言葉にすることができずに、腹がむかむかする。
「マリオン」
と、胸もとのフィーリが、私だけに聞こえるように、やわらかく名を呼ぶ。
「辺境伯の言葉に、納得がいかないのでしょう」
旅具の言葉に、小さく頷く。
「しかし、何に納得がいかないのかは、わからない」
小刻みに、何度も頷く。
「そうであれば、まずはマリオンの感情をぶつけてください。続きは、私が引き受けますから」
フィーリの言葉に、背中を押された。
「私は! 絶対に! 間違ってなんかいない!」
駄々っ子のように怒鳴り返して──それだけで、いくらか腹のむかむかがおさまる。誰が立場などわきまえてやるものか、と辺境伯をにらみつけて。
「フィーリ!」
あとは任せた、と旅具の名を呼ぶ。
「フィーリと申します。ここから先は、私が引き受けさせていただきます」
言ってやれ、言ってやれ、と煽るように続きをうながす。
「何奴!」
辺境伯は姿なき声に怒声で返すが、フィーリには取りつく島もない。
「国とは、王のためにある──結構なことです。そのような国もあることでしょう」
フィーリは、いきなり辺境伯を肯定するような言葉を口にして──おいおい、どちらの味方なのだ、と胸もとの旅具をにらみつける。
「そのような国では、民も、国のため、王のために尽くします。例えば、農民であれば、地代や賦役といった税が課されることでしょう。そして、領主は、その民の納める税をもとに、国に貢納や軍事的な奉仕をする。そうやって、国は維持されている。つまり、民とは、国を肥やすための家畜のようなもの。その家畜を無意味に屠殺することは──実際に謀反を起こしたというのならばともかく、謀反の疑いありとして、詮議もなく皆殺しにするというのは、国の利益を損なう愚かな行為でありましょう」
言うに事を欠いて、民を家畜とは。口がわるいにもほどがある──が、その言い分はもっともであり、指摘を受けた辺境伯は、むっつりと黙り込む。
「そして、さらにもう一つ」
と、フィーリは、さらに続ける。
「そもそも、そのような議論は、あなたが約束を違えたこととは、何の関係もありません」
どうやら旅具は血讐についても非難するつもりのようで、私は事のなりゆきを見守る。
「あなたが約束を違えたこと──血讐を反故にしたことは、国のため、ひいては王のためなのですか? 血讐で自らが殺されては、国の不利益になるとお考えですか?」
まさかそのようなことはありますまい、と自らの問いを自らで否定して、旅具は言葉を重ねる。
「あなたは、血讐で自らが殺されるなど、微塵も考えていないはず。約束を違えたのは、ただ単に──面倒だっただけでしょう」
違いますか、と旅具は辺境伯に迫る。
「どれほど正論を重ねようと、あなたの言葉は、おためごかしにすぎません。あなたは、国の不利益になるにもかかわらず、自らの欲望のままに村を滅ぼし、領内の法を執行する立場にもかかわらず、約束をないがしろにしている」
責めたてられて、辺境伯は忌々しそうに私を──責めたてているのは私ではないというのに──ねめつける。
「民のため、というのが世迷言であるとおっしゃるのならば、言い直しましょう。あなたのような領主の不義を正すことこそ、巡察使の役割と心得ております」
フィーリは、鼻息も荒く──鼻があるのであれば──言い捨てて、口をつぐむ。辺境伯は、苦虫でも噛み潰したような顔で、反論もなく黙り込んでおり──フィーリと口喧嘩するのだけはやめておこう、と心に誓う。
「──そこまで言うのならば、よかろう。血讐を受けようではないか」
長い沈黙の末、辺境伯は重々しく告げる。
「しかし、よいのか。その小僧が相手で」
言って、辺境伯は侮るような視線をティオに送る。
「お、おいらは、一人じゃない!」
ティオは胸を張って答える。
「妻です」
ティオの後ろから、その背に胸を押しつけるようにして、ロレッタが名乗り出る。
「義父じゃ」
次いで、ティオの肩に手を置いて、黒鉄がふてぶてしく笑う。
「はあ?」
辺境伯は、その威厳ある姿には似つかわしくない間の抜けた声をあげて、あんぐりと口を開ける。その顔を見られただけでも、青に一晩で古城まで駆けてもらったかいがあるというもの。
「いかさまじゃないよ」
言って、婚姻の届けと養子の届けを、これ見よがしに、ひらひら、と躍らせる。辺境伯は、届けをひったくるように奪い取り、その届けを認めた貴族の署名に目を走らせる。
「古城の伯爵──」
そう、届けには「古城の伯爵」と署名がある。真祖の名ではない──吸血鬼は名を教えない──「古城の伯爵」という、ただそれだけの署名と印章が、このリムステッラでは効力を持つのである。
「古城の伯爵を動かしおるとは。あんなもの、おとぎ話だと思っておったぞ」
辺境伯は、半ば本心から驚いたようにつぶやいて──届けを放り投げて、獰猛に笑う。
「よかろう。まとめて相手になってやろうではないか」




