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「マリオン、どうするの?」
「どうするって言われてもねえ」
尋ねるロレッタに、私は曖昧に返す。
いきなり、辺境伯を殺してほしい、と頼まれても、わかりましたとも言えぬ。エリアスには考える時間をもらって──さすがに、このような話、人の目のある酒場ではできぬであろうから、と我々は宿の部屋──私の部屋に集まって、膝をつきあわせて、密談している。
「坊主の血讐のこともある。ひとまず、エリアス殿の話が真実であるかどうか──思い違いでないかどうか、探ってみるのがよいのではないか」
言って、黒鉄は私のベッドに視線を向ける。ベッドでは、先ほどまで懸命に睡魔から逃れようと目を見開いていたティオが、小さな寝息をたてている。
「どうやって探るのよ?」
「それなんだよねえ」
ロレッタの疑問に、私は同意を返す。
私であれば、どこであろうと忍び込めるし、どのような情報であろうと探ることもたやすい、と自負している。とはいえ、事がエルラフィデスの式典に端を発するというのであれば、領都では調べようのないことであるし、辺境伯の人となりにしても、娘であるエリアス以上に知るものなどいないのである。結局、どこで何を探ろうとも、辺境伯が乱心しているかどうかの確証を得ることは難しい、ということになる。
「辺境伯の執務室を調べるというのはどうでしょう」
と、不意に会話に割って入ったのは、胸もとのフィーリだった。
「執務室って、辺境伯と対面した部屋のこと?」
私の問いに、旅具は肯定の声をあげて。
「執務室に、少々気になるものが置いてありましたので」
辺境伯の居城は、国境を守る城というだけのことはあって、攻めづらく、守りやすい、難攻不落の城砦と呼ばれている。とはいえ、その防備の最たるものは、都市を守るためにそびえている外壁であろうから、領都に足を踏み入れている時点で、私はその難関を突破していることになる。
厳重に警備されている城門を避けて、天然の防壁たる大河にまわる。エルラフィデスとの国境を流れる河は、仮に隣国が攻め入ってきたとしても、見落とすことなどないであろうほどに広大で──そうであればこそ、大河の側の守りに割く人員も少なかろうと踏んだのであるが、その判断に誤りはなかった。大河に面した城壁には、物見のために張り出した櫓のあたりにだけ、かがり火が焚かれており、見張りもそれほど多くはない。
そっと大河に足をつけると、水面に波紋が広がる。とはいえ、真夜中の闇に覆われた河面である。かがり火も届くことはなく──城壁の見張りに見とがめられることもない。河底に潜り、流れに逆らって泳いで、城壁のたもとを目指す。
城壁にたどりついて、真祖の外套を闇色に染めて、石壁の隙間に指をかける。指先がかかる程度のくぼみがあれば、壁をのぼるのに苦はない。するりと城壁をのぼりきり、辺境伯の執務室のある居館を見すえる。
「ロレッタ、居館に糸を渡して」
宿にいるロレッタに向けて──魔法で侵入を補助してもらう算段なのであるから、飲んだくれてはいないはずである──不可視の糸を通して、語りかける。
「渡したよ」
しばし待つと、ロレッタの声が返る。見れば、城壁と居館をつなぐように、可視の糸が伸びており──渡るつもりなのだから、不可視では困る──時折、月明りを受けて、薄くきらめいている。
「でも、細い糸で大丈夫なの?」
よりあわせて太くすることもできるけど、とロレッタは不安そうに問いかける。
「太くなったら、視認しやすくなって、みつかるかもしれないでしょ」
問題なし、と返して、私は糸を渡り始める。
「本棚の端の──そう、その本を取ってください」
執務室に忍び込み、本棚の前に立つなり、フィーリは私に指図する。指示された本を手に取って、外套のうちに入れる──と、フィーリは、それを自らのうちで咀嚼して、吐き出すように私の手に戻す。
「やはり、思ったとおり──エルラフィデスの国教の教義をまとめた本です。信徒からは聖典と呼ばれております」
「執務室に聖典があるってことは、辺境伯は信徒になったってこと?」
聖典とやらの頁を、ぱらぱらとめくりながら、フィーリに尋ねる。
「いえ、エルラフィデスでは、布教の価値ありと認めた相手には、聖典を渡します。聖典を持っているからといって、信徒になったとはかぎりません」
訳知り顔で──いや、顔はないのであるが──語るフィーリに、ある疑問がわく。
「フィーリは、エルラフィデスを知ってるの?」
「はい、エルディナ様と旅した頃より、かの国は存在しておりますので」
言って、フィーリは自らのうちから新たな本を取り出して、私に渡す。本は古代語で書かれており、中身を読むことはできないものの、ところどころの挿絵は、今しがた頁をめくって見たばかりのものと同じであり、自ずと本の正体が知れる。
「──聖典?」
「そうです。かつて、エルディナ様が授かった聖典です」
言って、フィーリは異なる時代の二冊の聖典を、並べてくらべてみるよう私にうながす。
「エルディナ様の授かった古代語の聖典と、辺境伯の授かった公用語の聖典とを見くらべてみると──少しずつ、ほんの少しずつ、教義が歪められていることがわかります」
フィーリの言に、それぞれの聖典を見くらべてみるものの、そもそも古代語を解さぬ私には、その差異を見抜くことはできない。
「教義が歪められてるって、どこが違うの?」
「エルラフィデスは、もとは原初の神を信仰の対象としておりましたが、この教義では──おそらく、その信仰の対象が異なる神にすり替わっているのではないかと思います」
それはいったいどういうことを意味するのか、フィーリに問おうとして──その言葉を呑み込む。
「誰かくる」
執務室の外──廊下の足音が、不意に向きを変えて、部屋に近づいてくるのを感じる。慌てて聖典をフィーリに預けて、窓を開け放つ──と同時に、執務室の扉が開く。
「何奴!」
誰何の声を背に受けながら、私は窓から飛び出した。




