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「うまくいくと思ったのになあ」
夜会から抜け出した、その翌日。私たちは、宿として借りた酒場の二階の部屋から、一階へと下りてきて、昼間からくだを巻いている。
「だから、何度も謝ってるじゃない」
言いながら、ロレッタは迎え酒をひっかけている。彼女によると、昨晩の失態は、男爵邸の葡萄酒がおいしくて飲みすぎてしまったことによるものとのことで──言葉のとおり、先ほどから謝罪の言葉を繰り返している。
「でも、私にとっては、一生の思い出になりましたよ」
黒鉄とロレッタの前に、エールと蜂蜜酒のおかわりを置いて、ルエラが微笑む。美しく着飾って夜会に参加したことで自信がついたものか、吃音はすっかり消えている。
「おい! 大変だ!」
と、酒場に飛び込んできた男が、店中に響く声をあげる。
「若様だ! 若様がいらっしゃるぞ!」
男は、どうやら先触れのつもりのようで、ウェヌス卿を迎える準備をせよ、と酒場の主人を急きたてる。
「本当に若様がいらっしゃるのか?」
「何で酒場なんかに?」
昼間から飲んだくれている常連たちは、口々に疑問の声をあげながらも、それぞれに居住まいを正し始める。
「あ、そういえば──」
と、思い至って、ルエラに視線を送ると、彼女は脅えるように頷く。
「わ、私、酒場の給仕だって、名乗っちゃいました……」
ウェヌス卿は酒場に入り、店内を見渡して──給仕姿のルエラを認めるや否や、喜び勇んで駆け寄る。
「探したよ」
彼が声をかけると、ルエラは恥ずかしそうにうつむいて──そこに事情の呑み込めぬ酒場の主人が割って入る。
「若様、うちの姪が何か悪さでもしでかしましたでしょうか」
主人は、うつむくルエラの頭を、さらに押さえつけるようにして、卑屈な面相で口を開く。
「ご主人、私はルエラを見初めて、彼女に会うために酒場にきたんだよ」
「まさか! 何かの間違いでしょう!」
ありえない、と否定して、彼はルエラの頭をいっそう押さえつける。
「私は、夜会でルエラと出会い、話し、そして歌を聴いた。間違えることなどありえないよ」
ウェヌス卿は、主人の誤解を解こうと言葉を重ねるのであるが。
「ルエラ! お前、夜会に行ったのか? 歌なんてうたえるのか?」
主人は聞く耳を持たず、責めるように声を荒げる。御前であるというのに、何とも無礼なことである。
「お前が夜会になんて行けるわけがないだろう! 嘘なんだろう! 歌えるというのなら、歌ってみせろ!」
「わ、私、歌えません……」
涙ながらにつぶやくルエラに、主人は、それ見たことか、と勝ち誇る。
「私は、もう湖の乙女を探してはいない」
ウェヌス卿は、ルエラを押さえつける酒場の主人の手を払って、彼女に真摯に向きあう。
「君を探していたんだよ、ルエラ」
「わ、私は──あ、あの夜会での私は、まやかしなんです」
しかし、彼の言葉も、身を縮めて脅えるルエラには届かない。
「ロ、ロレッタさんのおかげで、何とか見目を取り繕っただけで、あれは本当の私ではないんです」
言って、ルエラはロレッタにすがるような目を向けて──つられて、皆の視線が彼女に集まる。ロレッタは、その視線を真っ向から受け止めて、おもむろに立ちあがって、あきれるように口を開く。
「あんたらの目は節穴か?」
ロレッタは冷たく言い放って、皆のいぶかしげな視線を鼻で笑う。
『魔糸よ』
彼女は小さく唱えて、ルエラに再び夜会のドレスを編みあげる。きらびやかなドレスに身を包んだルエラを目にして、皆は一様に驚きの声をあげて──そして見惚れる。その様に、ロレッタはあきれるように溜息をもらして。
指を鳴らして──ドレスをかき消す。
「ルエラ──あなたはずっと、ルエラのまんま。化粧をしなくても、ドレスを着なくても、あたしにはずっときれいな女の子に見えてたよ」
ロレッタは、ルエラに近寄って、その頬の涙を指でぬぐう。
「あなたを放っておいた男たちは、見る目のない愚かものばかり」
ロレッタは、ルエラを縮こまらせていた男たちに、腹が立っていたのであろう。酒場の男たちを──ウェヌス卿を含む──見渡して、お前らのことだぞ、と暴言を吐き──さらには、特にあんた、と酒場の主人を名指しで罵る。
「だから、もううつむかないで」
ロレッタの言葉が、彼女の背を押した。うつむいていたルエラは、意を決したように顔をあげて──彼女の絶世の歌声が、酒場に響き渡る。
「あれでよかったの?」
シンダールを出立して、しばらくしたところで、ロレッタは何度目になるかわからない問いを発する。
「将来の男爵夫人になれたかもしれないのに」
「興味ありません」
答えて、私は少しでも早くシンダールを離れよう、と歩調を速める。ルエラとウェヌス卿が結ばれたことはめでたいとしても──それはそれとして、私は湖の妖精として、朝露のようにウェヌス卿の記憶から消えねばならぬのである。
「そういえば──」
と、シンダールでの滞在中、酒場で酒を飲んでいただけの黒鉄が口を開く。
「結局、湖の乙女はみつからんかったからの。酒場の噂では、湖には本当に妖精がおるということになっておったぞ」
「そうなの!?」
よかった、と歩調を緩めて──よい情報を提供してくれた黒鉄の頭をなでて、やめんか、と振り払われる。
後年、宮廷詩人に好んで歌われることになる、シンダールの恋物語。その冒頭に登場する美しき湖の精の正体が、どこにでもいる狩人の少女であることを知るものは──誰もいない。
「乙女」完/次話「血讐」




