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広間の外は、母屋から突き出したテラスになっており、いくつかのテーブルが並んでいる。本来であれば、庭園の草花を愛でながら、お茶を楽しむ場であるのかもしれないが──夜のテラスでは、そうもいかない。
「ルエラは、ここに座ってて」
私は椅子を引いて、彼女に座るようにうながして──自らは庭園に向き直る。
「フィーリ、庭園の方、灯りで照らせる?」
「お任せあれ」
言って、フィーリはいくつもの小さな灯りをつくり出して──魔法の灯火は、暗闇の中に、やわらかく草花を浮かびあがらせる。
「きれい……」
見惚れるようにつぶやいて、ルエラは溜息をもらす。陶然とする彼女の様に、こちらの準備は万端であろう、と判断して──しばらくの間、ウェヌス卿と二人きりになることを想定して、二人で模擬の問答を繰り返す。
やがて、ロレッタに連れられて、ウェヌス卿がテラスに現れる。見れば、ふらりふらり、と揺れながら歩いており──酔っているのであろうか──足取りはおぼつかない。彼はルエラに気づいたようで、遠間から、やあ、と声をかけて、ゆっくりと近づいてくる。
お膳立てが整ってしまえば、私もロレッタも不要であろう。
「がんばって」
ルエラに告げて、私は灯りの届かぬ闇にまぎれて、気配を消す。不測の事態に備えて、変わらず彼女のそばに控えてはいるものの、達人でもなければ、私の存在に気づくことはできまい。
「ごゆっくり」
ロレッタも告げて──ウェヌス卿の背を押して、ルエラに向けて器用に片目をつぶってみせる。
後で聞いたところによると、ロレッタは並みいる乙女たちをかきわけてウェヌス卿のもとにたどりつき、言葉巧みに──本人の談なので、実際のところはわからない──葡萄酒を飲ませて、仕上げに魔法の糸で足もとをおぼつかなくさせて、酔い覚ましに、と外に誘ったようで──何とも頼りになるハーフエルフである。
「君も、酔い覚ましかい?」
ウェヌス卿は、ルエラのそばまで歩み寄って、問いかける。
「ご一緒しても、いいかな?」
「──はい」
緊張しているのであろう、答えるルエラの表情は硬い。先ほどの模擬問答では、もっと魅力的に微笑むことができていたというのに──と、やきもきしながら、固唾をのんで、なりゆきを見守る。
「君のように美しい人が、男爵領にいたなんて。私としたことが、まったく知らなかったよ」
ウェヌス卿は、歯の浮くような台詞を口にしながら、ルエラの隣に腰をおろす。
「ルエラと申します」
彼女は自らの名を告げて。
「ご存じないのも、当然です」
と、続けて、その出自を語り出す。
「私は、シンダールの生まれではないのです。母が亡くなって、伯父を頼って、この街に身を寄せたものですから」
「どこの生まれなの?」
「ご存知かどうか──」
まさか詳しく尋ねられるとは思っていなかったのであろう、ルエラは困り顔で、首を傾げながら続ける。
「辺境伯領の北の、小さな村です。オルブスという──」
「──流行り病で多くの犠牲者を出して、今は滅んでしまった村だね」
ルエラの言葉を遮って、ウェヌス卿は悲しい面持ちで告げる。
「ご存知なのですか?」
「私の乳母がオルブスの出身でね。幼い頃、ぐずる私に、よくオルブスに伝わる古い歌をうたってくれたんだ」
ウェヌス卿は、懐かしそうに語って、夜空を見あげる。
「あれは何という歌だったか。歌の名も、詩も覚えていない。おぼろげながら記憶にあるのは、かすかな旋律のみでね」
言って、ふんふん、と鼻歌を口ずさみ始める──が、お世辞にも上手とは言えず、いまいち旋律は伝わらない。
「それは、きっとこんな歌でしょう──」
ところが、ルエラには伝わったようで──共通の話題があること、ウェヌス卿の求めに応じられることに浮かれてしまったようで、彼女は歌さえ口ずさみ始める。
その歌声といったら!
小鳥のさえずりのよう、と思っていたルエラの声は、まるで繊細な楽器のように──張り詰めた弦を優しくつまびくかのように、歌を奏でる。私は息をするのも忘れて──いや、呼吸する音さえ妨げになるように思えて、息を殺して彼女の歌に耳を澄ます。
しばしの間、歌に聴き入って──私は我に返って、疾風のごとく──は、ブーツを履いていないので無理であった──広間に飛び込み、気だるそうに演奏している楽士たちの肩を押して、無理やりに屋外に連れ出す。テラスに押し出された楽士たちは、最初こそ、何をするのだ、と不平をもらしていたものの、ルエラの歌声を聴いて、すべてを察したようで──先ほどまでとは打って変わって、心地よさそうに楽器を奏で始める。ルエラの歌声と楽士の演奏は見事に調和して、まるで天上の音のように、耳に心地よい。
ウェヌス卿は、一言も発することはなかった。ルエラに見惚れて、彼女から視線を外すことができないようで──私は初めて、人が恋に落ちる瞬間を目の当たりにした。
「──おしまい」
童女のようにかわいらしくつぶやいて、ルエラの歌は終わる──と同時に、楽士たちも息をあわせて演奏を終えて──私は姿を隠すのも忘れて拍手を送る。
「──君が、湖の乙女なのかい?」
ウェヌス卿は、ルエラに見惚れたまま、そう尋ねる。
「──いいえ、違います」
彼の視線を真っ向から受け止めて、ゆっくりと首を振って。
「私は、ただの酒場の給仕です」
ルエラは、胸を張って、凛と答える。
不覚。何という不覚。ルエラに夜会に参加してもらうことばかりに気を取られて、我こそは湖の乙女である、と自称するよう念を押すのを忘れていた──いや、しかし、そもそも乙女を探す夜会に参加しているのだから、わざわざ念を押されなくとも、自らが乙女であると称してくれてもよさそうなものであるのだが──ともあれ、ルエラは見事にウェヌス卿の関心を勝ち取り、そして放棄してしまったのである。
「君は──」
ウェヌス卿は、いくらか逡巡して、やがて意を決したように口を開く。
そのときだった。
「──あ」
突然、ルエラが声をあげて──見れば、ドレスは青白い光を帯びて、次第に薄くなっており、服地を透して、彼女の華奢な身体の線がのぞく。ルエラは、あらわになり始めた肌着を隠すように身をよじって、その場にしゃがみ込む。
「失礼」
言って、私は自らの上着を脱いで、ルエラの肩にかけて──そのまま彼女を抱きあげる。
「お客様のご気分が優れないようですので、寛げる場所にお連れしてまいります」
「あ、おい! 君!」
呼びとめるウェヌス卿の声を無視して、急いで広間に戻る。
魔法で編みあげたドレスが薄くなるということは、その魔法の主であるロレッタに何らかの異変が生じているということに他ならない。
「ロレッタ!」
彼女の身を案じて、名を呼びながら広間に飛び込む。
「お、マリオン」
と、間の抜けた声とともに私を出迎えたのは、何とも行儀わるく長椅子に横になって寛いでいるロレッタであった。どうやらしこたま酔っ払っているようで、これでは魔法の制御がおぼつかないのも無理はない。見れば、彼女のドレスもみるみる薄くなっており、その下に身に着けている竜革の鎧が──もう脱がない、という言葉に嘘はないんだな──透けてのぞいている。
「ほら、出るよ」
化けの皮がはがれないうちに、とロレッタを急かすのであるが。
「ええ、まだ飲み足りないのに」
彼女は、往生際わるく葡萄酒に手を伸ばす。それならば、と素直に酒杯を手渡して──ロレッタが感謝とともに口をつけたところで、ほれ、と手を添えて酒杯を傾け、無理やりに葡萄酒を流し込む。
「あは」
その一杯が最後の一押しになったのであろう。ルエラに加えて、酔いつぶれたロレッタをも抱きかかえて──私は逃げるように夜会を抜け出した。




