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「星を穿つもの?」
何のことやらわからず、黒竜の言葉を繰り返す。
『知らずに使っておるのか。おそろしい小娘め』
黒竜は吐き捨てるように言って、うなり声をあげる。旅神の弓から目を離さず、脅えるように後ずさる黒竜に、弓をおろして、害意のないことを示してみせる。
『旦那の浮気に悋気を起こした女神が、星を穿ったのを知らんのか』
知らんのか、と問われても、星を穿つような物騒な夫婦神の話など聞いたことも──。
「あ──もしかして、夫婦月?」
思いついて口にすると、黒竜は重々しく頷いてみせる。
「フィーリ、知ってる?」
胸もとの旅具を叩いて、説明を求める。
「夫婦月のうち、欠けている月が雄月、雄月を追いかけるようにめぐる月が雌月と呼ばれております。雄月と雌月では、空をめぐる周期が異なりまして、空に雌月のおらぬ間に、雄月は他の星と懇ろとなり──あとは黒竜様のおっしゃるとおり、嫉妬に狂った雌月の化身である女神が、雄月を弓で射抜き、あのような欠けた月になったと聞き及んでおります」
夫婦月にそんな逸話があろうとは。空を見あげて、欠けた雄月を見るたびに、あわれな顛末を思い出して笑ってしまいそうで──頬が緩んで、いくらか緊張がほぐれる。
「旅神の弓って、雄月を穿った弓なの?」
「そうです」
言ってませんでしたっけ、と旅具は軽い調子で続ける。
「とはいえ、今は封印が施されておりますので、ご安心を」
何を安心すればよいのか、と困惑しながら、旅神の弓を見やる。弓が真に星を穿つというのであれば、いくら黒竜の鱗が硬かろうと意味をなさない。永遠とも思える時を生きる黒竜であればこそ、自らの死を思わせる弓に、露骨な嫌悪を示すのであろう。
『旅具か』
フィーリに向けて、黒竜は声をかける。
「フィーリと申します」
『主の教育くらいしておけ。我にそのようなものを向けるなど、大罪ぞ』
「主の教育には苦心しておりまして、申し訳ございません」
主をよそに、旅具は黒竜と勝手な会話を続ける。
『我が住処に何用かは知らぬが、とにかくその弓だけは我に向けてくれるなよ。鱗の一枚くらいならくれてやるからに』
言って、黒竜は胸もとの鱗を爪先で弾く。鱗は思ったよりも簡単にはがれ落ちて、轟音とともに地を震わせる。巨大な鱗である。見れば、鱗の裏側には、一緒にはがれたのであろう皮膚に加えて、血まで付着しており──見るものがみれば、宝の山のようにも思えることであろう、と驚嘆する。
「とんでもないのう」
いつのまにやら隣に並んだ黒鉄は──やはり無事だった──見惚れるようにつぶやく。
「しかるべきところに持っていけば、素材のまま売ったとしても、一生遊んで暮らせるほどの金が手に入るじゃろうて」
価値のわかるもの──黒鉄は、垂涎の眼差しを向ける。
「黒鉄なら加工できるんじゃないの?」
凄腕の鍛冶師である黒鉄であればあるいは、と考えて尋ねる。
「無茶を言うでない。故郷に戻れば何とかなるかもしれんが、リムステッラの技術では加工できまいよ。単なる竜の鱗でも荷が重いというのに、何と言っても黒竜──古竜の鱗なんじゃからな」
黒鉄は嘆息をもらしながら答える。言われてみれば、黒鉄の古代の斧も、ロレッタの爆炎も、すべての攻撃を弾き返す黒竜の鱗を加工することなど、そう簡単にできようはずもない。むしろ、故郷に帰れば加工できるかもしれないという発言にこそ、驚くべきなのかもしれない。
『加工なんぞ、我の鱗をも貫く、その忌々しい矢を用いればよいではないか』
黒竜の言に、確かに、と納得して、旅神の矢筒から矢を取り出して、黒鉄に渡す。黒鉄は、半信半疑といった様子で、旅神の矢じりを竜鱗に突きたてる。
「できる──これならば加工できるぞ!」
矢じりは竜鱗を貫き、黒鉄は驚喜の声をあげる。
「儂に加工させてくれい! 必ずや満足のいくものをつくりあげてみせる!」
「そんなの、こっちから、お願いしたいくらいだよ」
黒鉄の懇願に、私は快諾を返して──ね、とロレッタに声をかけると、彼女も同意するように頷く。そもそも、黒鉄に加工できないのであれば、私の知るかぎり、古竜の素材を加工できるものなどいないのである。黒鉄の手に委ねることに、否やなどあろうはずもない。
「それでは、ひとまずは私がお預かりしておきます。特に血は生ものですから」
言って、フィーリは黒竜の鱗を、皮と血ともども、いそいそと自身の中に取り込む。そういえば、竜の血は処方によっては薬にもなると言っていたような気もする──はて、何の薬になるのであろうか。
『他に望みはあるか』
あるなら早く言え、と黒竜は急かす。どうやら、旅神の弓を持つ私たちを、早く帰してしまいたいようで──偉大なる古竜の焦燥する様など、滅多に見られるものではない。
「この地の石を掘らせてほしい」
黒竜の問いに、黒鉄は本願を申し出る。
『そんなことでよいのか』
黒鉄の望みに、黒竜は安心するように返して──早く済ませて早く帰れと言わんばかりに、ぞんざいに続ける。
『我の住処を汚さぬならば、石くらい好きに掘るがよい』
黒竜の許しを得て、洞窟の奥──竜の住処の採掘を始める。潔癖の竜の機嫌を損ねぬよう、採掘する黒鉄の隣に私が控えて、塵が舞うたびに胸もとのフィーリが吸い込むことで、住処を汚さぬように配慮する。
黒鉄は、掘り出した鉱石を割って、含有物を目視する。
「──あった!」
歓喜の声をあげて。
「魔鉱じゃ。十分な量が含まれておる──が、熟成が足らんかもしれん」
次いで、やや落胆するように続ける。
「鉄の大部分は魔鉱に変じておる──変じてはおるのだが、どうにも色が薄い。鉄を魔鉱へと変ずる何か、竜の持つ何かが十分に定着しておらん。時間をかけて寝かせて、熟成させなければ、十全たる魔鋼となすことはできんであろう」
「どのくらい熟成すればいいの?」
熟成しなければならないのであれば、熟成すればよいではないか、と軽く尋ねる。
「──百年では足りんだろうな」
しぼり出すように、黒鉄は告げる。
「まあ、仕方あるまいよ。魔鋼の精製は、儂の子孫に託すことにするわ」
空元気であろうか、黒鉄は努めて明るく振るまって、豪快に笑ってさえみせる。
「──以前から思ってたんだけどさ」
と、しんみりとした空気を打ち破るように、私は声をあげる。
「フィーリの中ってさ、食料を腐らせないこともできるし、熟成させることもできるんでしょ?」
「──そうですね」
私の発言の意図を理解したものか、フィーリが驚きを帯びた声で返す。
「それって、時間の経過を操ることができるってこと?」
「驚きました、マリオン」
いつのまにそんな知性を、と主に向かって、やたら失礼なことを言う。
「確かにマリオンの言うとおり、その鉱石を熟成させることは可能です」
「本当か!」
思わぬ発言に、黒鉄はフィーリに──とは、つまり私の胸もとに──詰め寄る。
「ただ、一瞬で、というわけではありません。数百年の経過ということであれば、数年くらいはかかるものと思ってください」
「そうか──儂の悲願が、かなうのか」
数年なんぞ待つうちにも入らん、と黒鉄は感涙に目をしばたたかせる。
「じゃあ、少なくとも、あと数年は一緒にいないとね!」
言って、私は目の前の黒鉄を、喜びに任せて抱擁する。
「こら! 年頃の娘が、そんなことするもんじゃない!」
「こんなときくらい、いいじゃない」
逃げるように顔をそむける黒鉄に、私は頬を擦りつけて笑う。




