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酒場を出てみると、すっかり夜が更けている。ところどころの店からもれる灯りはあるものの、街は暗く、夫婦月の明りのみが通りを照らしている。
「お、夫婦そろってる。どうりで、明るい晩だね」
夜空を見あげて、ロレッタがつぶやく。二つの月は──丸い月と欠けている月、どちらが夫でどちらが妻かは判然としないが──仲睦まじく寄り添っており、夜目の利くものであれば、もしかすると本でも読めそうなくらいに明るい。
ロレッタは、家路につく酔客をつかまえて、もっともお高くとまった酒場はどこか、と尋ねる。声をかけられた酔客は、うとましそうに振り返り──ロレッタの美貌を認めるや否や相好を崩して、いくつかの酒場の名を挙げる──だけにとどまらず、俺も一緒に行く、とごねだして──黒鉄の丁重かつ重厚なお断りによって、ようやくあきらめて、もとのとおりに家路につく。まったく、男ってやつは。
酔客に案内された酒場のうちの一軒「艶やかな吟声」にたどりついて、給仕に案内されて、入口付近の空席に腰をおろす。店内には、その名のとおり、艶やかな歌声が響いており──見れば、吟遊詩人であろうか、女と見紛うほどの優男がリュートをつまびきながら、玉を転がすような妙なる声を奏でている。客は歌声に耳を傾けながら、穏やかに談笑しており──先ほどまで滞在していた「放埓な旅人亭」にくらべると驚くほどに客層がよい。あちらのように、誤って隣の客の酒杯を口にした、というようなくだらない理由で殴り合いの喧嘩にまで発展することもなさそうで、どうやら落ち着いて飲めそうである、とフィーリに声をかけて花の酒を取り出す。
「詩人さん、ちょっと」
詩人が一曲を歌い終えて、拍手も鳴りやんだところで、ロレッタは声をあげて、彼に向けて手招きする。笑顔で近寄る詩人に、空いた椅子に座るようにうながす──と、彼は何を勘違いしたものか、艶めかしくロレッタの手を取る。
「あなたのように美しい方と一夜をともにできるとは。たまには神に感謝しなければなりませんね」
言って、詩人はロレッタの手に口づけをして──あろうことか、旅神に感謝の祈りを捧げる。放浪の吟遊詩人であるからこそ、旅の神に祈るのであろうが、フィーリから伝え聞くかぎり、旅神に男女の仲を取り持つような恩恵はないはずであり──エルディナ様にそのような祈りを捧げられましても、と旅具も困惑の声をあげる。
「男娼として買うつもりはないよ。歌だよ、歌。吟遊詩人が本業なんでしょ?」
あきれるように言って、ロレッタは詩人の手を振り払う。
「これは失礼しました。つい自らの願望が表れてしまったようです。歌をご所望とのこと。どのような歌をうたいましょうか」
「戦争と竜の歌を。知るかぎりの歌をうたって」
言って、ロレッタは懐から取り出した数枚の銀貨を詩人に渡す。
「あたしたちが満足したら──」
と、ロレッタは私を指して。
「──そのお嬢さんが追加で報酬を払うよ」
私かよ、と憤りの声をあげようとしたところで、隣の黒鉄までもが、うむ、と頷いて──この二人、事前の打ちあわせもなく結託しやがるとは。
「それはありがたい。張り切って歌わせていただきましょう」
詩人が調律のためにリュートをつまびくと、酒場は耳をそばだてるように静まる。やがて、調律を終えた詩人は、客を見渡すように笑顔を振りまいて──リュートの表面を数度叩いて拍子をとって、朗々と歌い出す。
「朝もや晴れぬ原野にて、つわもの集いて群をなす、万にも及ぶ軍勢は、相にらみあいて鼎峙する」
艶やかに響く詩人の歌声が、戦争と竜について語っているとわかると、客は小さく喜びの声をあげる。私からすると、国々が竜に敗北する悲運の歌であるようにも思えるのだが、イベルトスに住むものにとっては、権力に干渉されない自由な地の誕生を祝う歌にも聴こえるのかもしれない。
「暁光をともに現れし、古よりの黒き竜、戦を禁ずと宣えど、一条の矢にて始まらん」
歌は、竜が現れたあたりで、その調子を変える。
「轟きたるは怒り声、咆哮もって地を穿つ、竜の逆鱗触れるまじ、竜の逆鱗触れるまじ」
猛く、雄々しく、竜の巨躯を思わせる荒々しい旋律を経て、やがて訓話めいた結びを迎えて──詩人は一曲を歌いあげる。
「なるほど」
詩人が数曲を歌い終えたところで、フィーリが得心の声をあげる。
「歌によると、明け方に三国の軍勢がにらみあいを始めて──次いで、朝日とともに竜が現れております」
「つまり──」
持つべきものは旅具であるなあ、とフィーリの知恵に感謝しながら、続きをうながす。
「つまり、歌の描写を素直に受け取るならば──竜は、明け方に、日の出を背にして現れたということになります」
と、フィーリは結論づけて──その答えに、皆で顔を見あわせる。
「ありがと!」
言って、私は詩人に硬貨を放る。
「ご満足いただけたようで、光栄──」
言いながら、詩人は宙を舞う硬貨をつかんで──手を開いて、息をのむ。
「──や、お嬢さん、これは金貨では」
「取っといて!」
笑顔で返して、私は皆に向き直る。
「竜の住処は、東にある!」




