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「では、お前から殺すまで」
欺くことをあきらめたようで、黒髪の侍女──暗殺者は服を脱ぎ捨てて、その下に着込んでいたのであろう黒い装束姿になる。次いで、音をたてて、顔と身体の骨格を操り、見る間に痩身の男へと姿を変える。
その「顔」が異様だった。
何ということはない普通の顔であるように思えるのに、頭に思い描こうとすると、するり、と記憶の像が逃げていくような、印象に残らない──いや、印象に残ることを拒絶するような造形をしている。
「名乗りなよ」
言って、わざとらしく口角をあげる。
「死んだら名乗れなくなるでしょ」
挑発するように告げると。
「百貌」
暗殺者──百貌はつぶやくように名乗る。百の顔を持つ、ということであろうか。侍女になり、執事になり──男女を問わず、骨格を操り他人なりすまして周囲を欺く様は、まさに百貌と呼ぶにふさわしい。
「貴様、自分が死なないとでも思っているのか?」
百貌は、私の余裕のある態度が気に入らないようで、今までは隠していたのであろう感情をあらわにして、あからさまに怒気を放つ。
「まずは勘違いを正してやろう」
言って、百貌は短剣を腰に戻して、素手で構えをとる。貴様なぞ武器をとるまでもない、ということなのであろうが、それはこちらの台詞である。
「ウルスラ」
視線で合図して、ウルスラを壁際までさがらせる。すぐさま護衛の騎士たちが、彼女を守るように前に立つ。
「部屋を汚したら、ごめんね」
言って、私だけが百貌に相対する。
百貌は、左手を前に突き出して半身に構える。奴は、私の視界を遮るように、左手を大きく開く。左手を避けるように左右に身を振ってみても、奴はあくまでも正面に相対する姿勢を崩さない。
それならば、と瞬発的に百貌の左手をかわして、ぬるりと奴の左に潜り込む──瞬間、左手の死角から、左の蹴りが現れる。側頭部に放たれた蹴りを、上半身の動きのみでかわそうと試みるが、蹴りは中空で軌道を変じて、右膝めがけて打ちおろされる。すんでのところで飛び退り、奴の間合いから逃れる。
ほんの数手の攻防であっても百貌の攻めは巧みであり、奴の体術は私の知るものよりも洗練されていて──連綿と受け継がれてきた技術のようなものを感じる。
「ほう」
百貌が小さく声をあげる。奴にしてみれば、今の攻撃をかわされたのは驚きであったのだろう。何せ、予測もつかぬ奴の攻撃を、私は「見てから」かわしたのである。それはつまり、私の方が奴よりも速いということを意味する。
「マリオン」
とがめるようなフィーリの声に、わかってるよ、と返す。私と同等──とまではいかないまでも、近しいほどに速い暗殺者がいる。それだけわかれば十分な収穫であろう。教団という得体の知れない集団への警戒を心に刻んで──ここからは持てる力すべてを使うことに決める。
「おいで」
言って、からかうように手招きする。しかし、百貌は挑発には乗らない。激昂でもしてくれれば戦いやすいのであろうが、奴は憎らしいまでに冷静で、淡々と殺戮の技を繰り出す。
百貌の攻撃は手数が多く、多彩である。目くらましの技術に長けており、思わぬところから不意に襲いくる打撃には、私でさえとまどうこともある──しかし、それでも、奴の手足が私に届くことはない。
百貌の蹴りを、上半身を引いてかわしながら、その体勢のまま、奴の膝を打ち抜かんと蹴りを放ち──その軌道を中空で変えて、無警戒の側頭部を打ち抜く。
「──な」
よろめきながら、百貌が驚きの声をあげる。が、驚くようなことでもない。この技は一度見ている。
百貌は腰の短剣を抜く。応えるように、私も短剣を手にする。
先ほどの蹴りで、いくらか冷静さを欠いてくれたようで、短剣による百貌の斬撃は、わずかに単調な気配を帯びる。私を斬り刻まんと繰り出される斬撃をかわしながら、少しずつ速度をあげる。斬撃をかわす──どころではない。斬撃よりも速く、斬撃を放たんとするよりも速く、疾風のごとく駆け抜けて、私に追いつかんと手を伸ばす百貌をも置き去りにする。
「貴様、いったい──」
何ものだ、とでも問いたかったのかもしれないが、言葉にはならなかった。百貌は眼前に現れた四つ身の分身に、目を見開いて、息をのむ──それでも、とっさに短剣を振り、分身のうち二体までを斬り裂いたのはさすがである──が、抵抗もそこまで。三体目の分身が短剣の柄で奴の鳩尾をえぐり、四体目の私が背後から頭を押さえて、喉もとに短剣をあてる。
「動けば斬る。問いに答えなくても斬る」
無慈悲に告げる。できることなら人を殺したくはないが、自らの命を脅かす賊を見逃すようでは、辺境で生き残ることはできない。
「誰に雇われてウルスラを狙う」
百貌は答えない。喉の短剣を、さらに強く押しあてる。刃が首に食い込み、わずかに血が滲む──と同時に、百貌は冷たく笑って、吐血する。次いで、弛緩するように膝をつき、そのままうつぶせに倒れて、床に頭を打ちつける。打ちどころでも悪かったものか、やがて痙攣し始めて。
「フィーリ!」
何とかならないか、と旅具に呼びかけるが。
「手遅れです」
返す旅具の言葉は冷たい。見れば、百貌の痙攣は、すでに止まっていた。
「毒ですね」
百貌の死顔を見て、フィーリがつぶやく。
「おそらく、竜の血を飲んだのでしょう。竜の血は、処方によっては薬にもなりますが、そのまま飲めば猛毒です。竜の血を結晶化した竜血晶を口内に仕込んでおき、いざというときはそれを飲み、胃酸でとかして毒となすのでしょう。ひどい死に方です。百貌とやらの内臓は、もはや原形をとどめてはいないでしょう」
言って、あわれむように死体を見下ろす。
しかし、実際のところは、フィーリの言よりも悲惨だった。竜の血は、百貌の内臓どころか、その身をもとかし始めて──やがて、絨毯の上には、人の融解した塊だけが残る。誰がウルスラを殺すよう命じたのか、なぜ執事が殺されたのか──真相は闇に消えた。




