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王城の一室かと見紛うほどの広間には、数えるほどしか人がおらず、閑散としている。
部屋の中央で、優雅に本を読んでいるのが、件の侯爵令嬢──ウルスラであろう。両脇に従えた二人の騎士に守られて──しかし、それを好ましくは思っていないようで、彼女は眉根を寄せながら頁をめくっている。
ウルスラの前には、茶の注がれた器──伯爵の茶会で目にしたような精緻な器と、菓子の盛られた皿が置いてある。壁際に控える老齢の執事と栗毛の侍女──二人のどちらかの手によるものであろう。腹がすいたなあ、と物ほしげに眺める。
「オルティ殿、そちらはどなたですかな?」
私の姿を認めて、執事が尋ねる。
「こちら、巡察使のマリオン殿です。吹雪で難儀しておられましたので、私の判断にて保護いたしました。今後については、ウルスラお嬢様のご判断を仰ぎたく、お連れした次第です」
オルティは、うやうやしく令嬢に告げる。
「このようなときに遭難者とは、少々出来すぎではありませんか?」
言って、執事が険しい目つきで私を見やる。はて、このようなとき、とは、どのようなときであろうか。
「ホレス、巡察使様に失礼ですよ」
読んでいた本を閉じて、ウルスラが告げる。
「──出すぎた真似をいたしました」
ホレスと呼ばれた執事は、非礼を詫びてウルスラの脇に控える。
「見苦しいところをお目にかけまして、失礼いたしました。ウルスラと申します。マリオン様、当主代理として滞在を許可いたしますので、ゆるりと逗留なさってくださいませ」
言って、ウルスラは典雅に微笑む。年の頃は十を越えたくらいであろうに、その所作からは幼さを微塵も感じさせず、見事に当主代理としての役をはたしている。
「執事のホレスと申します」
名乗って、執事は豪奢な椅子を動かして暖炉の前に置き、私に座るよううながす。真祖の外套のおかげで凍えていないとはいえ、心遣いはありがたい。次いで、執事から、あたたかな茶を注いだ器を渡される。彼の袖からのぞく手首には、年齢の割にしみ一つない。青白い血管が浮かび、透きとおるように白く──うらやましいものだな、と暖をとりながら眺める。
「大きな屋敷なのに、ずいぶんと人が少ないんですね」
茶をすすりながら、執事に尋ねる。
「──事情があるのです」
執事は、苦虫でも噛み潰したような顔をして、主人であるウルスラを見やる。
「マリオン様に話してさしあげて」
「よろしいのですか?」
執事の問いに、ウルスラが鷹揚に頷く。
「──実は、侯爵家の本邸にて、ウルスラお嬢様の暗殺騒ぎがございまして。お嬢様の身を案じた侯爵様の命で、こうして雪に閉ざされた別邸に身を隠している次第です」
執事によると、大所帯では暗殺者に気取られてしまうかもしれないから、と最低限の従者のみを引き連れて、別邸に隠れ住んでいるのだという。
「国王陛下との婚約が決まってすぐの騒ぎでしたから、それを快く思わないどなたかの命によるものだったのでしょうね」
と、ウルスラは素っ気なく続ける。国王との婚約も、それによる暗殺も、まるで思うところはないというように、年齢にそぐわぬ達観したそぶりを見せる。
「マリオン様は、どちらに向かっておられるのですか?」
暗い話題を切り替えるように、ウルスラが問いかける。
「北の鉱山に。ちょっと事情があって街道を外れたら、吹雪に見舞われてしまって」
狩人が冬山で難儀していたという醜態については、語るのも気恥ずかしい事実であるのだが──ウルスラにとっては、それも冒険譚の一つのように思えたようで。
「女性の身で、それも一人で険しい山を越えるなど、マリオン様の胆力は並外れたものなのですね!」
ウルスラは、自らの抱いている偶像と重ねるように、私に憧れの視線を向ける。
「にわかには信じられませぬが、ひとかどの武人であるとも聞き及んでおります」
誰に吹き込まれたものか、オルティが余計なことを付け加える。
「まあ。それでは、マリオン様に守っていただければ、安心して眠れますね」
「はあ」
そう曖昧に頷いたのが間違いだった。
あれよという間に、服を脱がされ、身体を洗われ、しまいにはウルスラの寝室に連れ込まれ──彼女のものであろう絹の肌着を着せられて、天蓋のついた豪奢なベッドに放り込まれる。栗毛の侍女の鮮やかな手並みに感服する。
「いや、私は床で寝てもいいんだけど」
吹雪から逃れて屋敷で暖をとることができるだけでありがたいというのに、まさか侯爵家の令嬢と同衾することになろうとは。
「巡察使様に、そのようなことはさせられません」
言って、ウルスラは朗らかに笑う。侯爵家の別邸において、ウルスラの命に逆らうわけにもいかない。命を狙われているとなれば、心細くなるのも理解はできる。添い寝くらいで朗らかに笑えるのなら安いものか、と観念して苦笑する。
「マリオン様は──」
「マリオンでいいよ」
気さくに返すと、ウルスラは目を輝かせる。
「では、お姉さま、とお呼びしても、よろしいですか?」
「……いいけど」
思わぬ問いにまごついて、ついウルスラの要求を呑んでしまう。
「お姉さま!」
言って、ウルスラはうれしそうに私の腕に抱きつく。妙に距離が近い。貴族の子女というのは、そういうものなのであろうか。
「侯爵家の本邸での暗殺騒ぎって、大丈夫だったの?」
ウルスラに向かいあうように横になって、問いかける。
「食事に毒を盛られたのです」
おそろしいことを、ウルスラは笑顔で告げる。
「あ、お気になさらないでください。毒を盛られること自体は、めずらしいことではないのです」
私の苦い表情に慌てて、さらにおそろしいことを笑顔で続ける。
「アムノニア侯爵家は、誇ることではありませんが、謀殺の歴史の上になりたっています。毒見役が毒に倒れるという程度のことであれば、それほど騒ぎたてるようなことではなかったのですが──」
本当に誇ることではない──が、いちいち驚いていても気が休まらぬ。物騒な事柄については、そうなんだ、と頷きながら聞き過ごす。
「侯爵家は、毒に精通しております──つまり、毒を解くことにも通じておりますので、毒見役が毒に倒れても、むざむざ死なせることはありません。しかし、此度の毒は解毒することもかなわず、それどころか侯爵家の知識をもってしても、何の毒であるかさえ判然としなかったのです」
どうやら、誇ることではないというのは謙遜のようで──悔しそうに唇を噛むウルスラ自身は、侯爵家の見識に誇りを持っているようだった。
「毒は祖父にもらった菓子に盛られておりました──もちろん祖父を疑っているわけではございません。しかし、私が祖父から個人的に菓子をもらったことを知り、かつそれに毒を盛るというのは、祖父でないにしても身近な存在でなければできぬことです。侯爵家には、素性が明らかでないものなどおりません。どうやってそのような輩が潜り込んだものか──どうして潜り込むことを許してしまったものか、口惜しくて仕方がありません」
ウルスラは、憤りを隠さずに告げる。しかし、その強い口調とは裏腹に、表情には姿なき暗殺者への困惑の色も見える。
「もしも、侍女の目を盗んで菓子を食べようとしたところを見とがめられていなければ、死んでいたのは私であったでしょう……」
知らぬうちに眼前まで訪れていた死を意識したものか、ウルスラは初めて脅えるようなそぶりを見せる。
「教団……」
おそれを含んだ声音でつぶやいて、ウルスラは私の腕に強くしがみつく。
「お姉さまは、教団と呼ばれる存在をご存知ですか?」
ウルスラによると、東方には「教団」という暗殺を請け負う集団が存在するのだという。かの集団は教団と呼ばれているものの、その教義すらさだかではなく、自らの命をも惜しまず任務を──暗殺を遂行するということのみ世に広く知られており、教団の存在こそが東方の戦乱を長引かせているという声もあるようで──そんな物騒な輩に命を狙われているとなれば、不安に押し潰されそうになるのも無理はない。それなのに、周囲のものには弱音を吐かず、不安なそぶりなど微塵も見せない。幼い少女の芯の強さに、思わず心を打たれてしまう。
「私が隣にいるから、大丈夫。少なくとも明日の目覚めは保証するから、安心してお休み」
言って、ウルスラの髪を優しくなでる。彼女は、私に身を任せるように、胸に顔をうずめて──やがて、小さな寝息をたて始める。眠りに落ちてしまえば、賢しげな顔つきも年相応のものとなり、とても謀殺について冷厳に語った少女と同一の人物とは思えない。
安心して深く眠るウルスラに腕を枕として貸しながら、胸もとの旅具を叩く。
「ウルスラが王様の婚約者になるってことは、王様は将来アムノニア侯爵家の後見を受けるということになるわけだ」
フィーリに向けて、独り言のようにつぶやく。
国王が国内有数の大貴族である侯爵に支えられるということは、王権の安定を意味しており──リムステッラの滅びを望むものにとっては、それは都合のわるいことであったかもしれない。
「暗殺騒ぎは、宝冠の企みってこともありうるのかも」
「可能性は否定できません」
私の疑念に、フィーリは曖昧に返す。
「教団とやらが本当にウルスラを狙っているのであれば、今晩にも動きがあるかもしれません。せいぜい気を抜かずに眠るとしましょう」
気を抜かずに眠れとは無茶なことを言ってくれる、と旅具の言にあきれながら──私は気を抜かずに眠りにつくのだった。




