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「酒場って初めてだなあ」
村から北に二日。
さらに北の王都と、西の国境とを結ぶ街道の中継地にあたるチェスローの街は、交易で栄えていた。
街に入ったところで、商店に品を卸に行くというリュカと別れる。すでに日も暮れており、手早く夕食にありつくために、リュカに勧められた酒場へと向かう。
狩人は、それなりに金を持っている。
狩りに出れば食べるものには困らないし、獣の肉や皮と交換すればたいていのものは手に入る。村に出入りする行商に頼まれて、狩りに出ることもある。行商とのやりとりも基本的には物々交換となるが、ほしいものがないときは貨幣で売ることもある。
さりとて、辺境の村に貨幣の使い道などない。行商からの買い物に使うか、街に出かけたときに使うか、くらいのものである。
結果として、私の懐には──祖父が遺した分もあわせて──それなりの金があるというわけである。村長の餞別もあるしね。
「前に街に来たときは、お祖父ちゃんと一緒だったからなあ」
当然、酒場に入ることなど許されるはずもなく、顔なじみの商人に届け物を渡して、すぐに宿に戻ったのを覚えている。しかし、宿に戻るまでに見かけた商店や酒場のきらびやかな様子といったら!
「そんなわけで、今回は絶対に酒場に寄ると決めてるの!」
「そうですか……」
大通りの角を曲がると、扉から喧噪のもれる酒場があった。看板にはリュカに案内されたとおり「商いの天秤亭」とある。
酒場の扉を開くと、酔っ払いたちの騒ぎ声が、わっと身体を包む。ほとんどの席が埋まっており、皆がみな、酒を手に陽気に語らっている。
交易で栄えている街だけあって、多くの客はそれなりの身なりをした商人のようだった。とはいえ、一部には、こんな街中に野盗かな、といった風体の荒くれた輩も混じっており、彼らの大きな声が酒場の騒々しさの理由のようだった。
「嬢ちゃん、一人かい?」
所在なさげに周囲を見渡す私に、給仕の女性が声をかける。黒髪を無造作に束ねた女性は、存在感のある、ふくよかな体つきをしている。
「ほら、こっちに座んな」
言って、私の肩を押して、あれよという間に唯一空いていたテーブルに案内する。
「こんなむさくるしいところに、こんなにかわいい嬢ちゃんが来るなんて、めずらしいね!」
大げさに褒めそやす彼女の手には、大きな皿がある。皿には鶏と野菜が盛られており、ちらりとのぞいていると、その様子に気づいたものか、彼女は、ふふん、と鼻を鳴らす。
「うちの亭主が料理をつくってんのさ。で、あたしが給仕。どちらが欠けても酒場は切り盛りできない。釣りあった天秤みたいでしょ。だから天秤亭」
言って、給仕──女主人は、にっと歯を見せて笑う。
「今日は朝引きの鶏を二羽仕入れてるからね。少し値は張るけど、持ちあわせがあるなら、こいつが一番うまいよ」
早いもの勝ちだよ、と手にした皿を、私の目の前に差し出す。うまいやり口だ。皿から立ちのぼる鶏の油と香草の混じった香りに、まんまと食欲をそそられる。
「じゃあ、それを!」
「あいよ! 他にはいいかい?」
「……あと、エールも」
こっそりと付け加える。
「あいよ!」
苦笑しながら答えて、彼女は厨房に注文を伝える。
「マリオンは酒が飲めるのですか?」
「初めて!」
フィーリの問いに、勢い込んで答える。初めての酒という状況に、高揚感が抑えられない。
「お祖父ちゃんからは、まだやめとけって言われてたから」
「賢明なご判断ではないかと……」
「おまちどう!」
しばし待つと、女主人が皿を運んでくる。
大皿には、腿肉だろうか、香草をまぶした鶏に香ばしい焼き色がついており、脇には鶏と一緒に蒸し焼きにされたと思しき根菜が載っている。
鶏を切りわけて、端の一切れにかぶりつく
「おいしい!」
皮は硬く香ばしく焼きあげられているのに対して、肉のやわらかさといったら! 噛みしめるたびに、じわり、と肉汁があふれ出す。
それでいて、後味はしつこくない。唇には油が残るほどだというのに、香草のさわやかな苦味が、脂っこさを打ち消して、よい具合に調和している。私の知る香草よりも香りが鮮烈なのは、乾燥させてあるからだろうか。好みはわかれるのかもしれないが、獣肉の臭み消しにも役立ちそうな、狩人としてはぜひとも手に入れたい香草である。フィーリに頼めば、いつまでも保存できるのだから、後で譲ってもらうことにしよう。
「さて、エールの方は、と」
十分に鶏を堪能してから、大きな酒杯に手を伸ばす。
エールは憧れの酒だった。ダラムの村では、何軒かの家でエールを自家醸造していて、稼ぎのある大人はそれを買って水代わりに飲んでいた。おいしいと評判のエールを醸造している家に至っては、農作業を終えたものが集って一杯やるものだから、まるで小さな酒場のような有様で、祖父から酒を禁じられていた私は、そこに出入りする大人がうらやましくて仕方がなかった。
万感の思いで、酒杯に口をつける。
「ううむ、それほどおいしいものでもない……」
苦い。顔をしかめながら、酒杯を置く。初めての酒ということで期待はしていたのだが、私にはエールはあわないようだった。ま、好みって、人それぞれだもんね。
「それでは、マリオンの好みにあいそうなものを提供しましょう」
フィーリにうながされて外套に手を入れると、細長い瓶を握らされる。取り出してみると、酒瓶は淡黄色で満たされており、エールに比すると見た目に美しい。
「こちらの酒杯でお楽しみください」
次いで、懐から酒杯を取り出す。
水晶だろうか。手にすると重く、重厚な印象を受けるのだが、その側面には幾重にも繊細に手が加えられており、惚れぼれするような精巧なつくりになっている。
「高価なものなんじゃないの?」
「譲り受けたものなので価値はわかりかねます。エルディナ様が好んで使用しておりましたので、マリオンにも、ぜひ使っていただきたい、と思いまして」
旅神の酒杯。
そう言われると、高価を通り越して、畏れ多い気もするのだが、それにしたって、これほど美しい酒杯で酒を飲んでみたいという欲求には勝てそうもない。
水晶の酒杯は、酒場の灯りが揺れるたびに、その光を受けて表情を変える。淡黄色の酒を注ぐと、さらに鮮やかな彩りとなり、まるで黄玉のような輝きを放つ。酒杯に口もとに近づけると、豊かな香りが鼻孔をくすぐる。
「花の香りがする」
好ましい香り。どうやら飲めそうだ、とおそるおそる、舐めるように口をつける。
甘すぎず、さわやかな花の香りが、鼻に抜ける。先ほどのエールにくらべると、ずいぶんと飲みやすい。果物や菓子を思わせる飲み口で、食後にちょうどよい。
三分の一ほど飲みほしたところで、自身がそれほど酔っていないことに気づく。
「私って、もしかして、お酒に強いのかな?」
酒豪の女狩人って、ちょっと格好よい気がする。
「差し出がましいかとも思いましたが、程よい酩酊感は残しながら、それ以上の酒精は解毒させていただきました」
「そんなこともできるの?」
「旅を続けるにあたっては、健康の維持が必要となります。死に至るような大きな傷を治すことまではできませんが、小さな切傷程度の回復や、解毒などの機能は備えております」
「便利だねえ」
知らぬうちにフィーリの庇護下にあったとは。何たる万能の旅具であろうか。
「ちなみに、お肌の手入れもしておりますよ」
「おおお!」
思わず驚きの声をあげて、両手で頬をなでまわす。どうりで、旅に出てからというもの、以前よりも肌の艶がよいと思っていた。狩人という職業柄、肌が荒れるのは仕方がない。そう納得しつつも、ロビンから男女とからかわれるたびに傷ついていたのだ。女の子だもの。
どうしよう。フィーリ、手放せない。