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ロレッタさんは、何やら呪文のようなものを唱えたかと思うと、ボートのまわりをぐるりとまわって──そして、おもむろに船尾を蹴る。するとどうであろう、ボートはまるで羽毛のごとく軽くなったかのように、するりと海にすべり出す。
「ほら、タケルも乗って」
マリオンとロレッタさんは、物怖じもせずに、壊れたボートに飛び乗って──僕も乗るようにうながす。
僕は、おそるおそる、ボートに足をかける。ロレッタさんが何と言おうとも、先まで砂浜に打ち捨てられていたボートである。船体に穴でも空いていて、今にも浸水してくるのではないか、と不安に思っていたのであるが──意外にも、いつまでたってもそんな様子はなく、ボートは泰然と海に浮いている。
「オールはあるみたいだけど──漕ぐ?」
ロレッタさんは、わざとらしくマリオンの顔を見ながら尋ねる。そう尋ねておきながら、自らは漕ぐつもりはないという鉄の意志が、ひしひしと伝わってくるから不思議である。
「いや──風を呼ぼう。帆がなくても、このくらいのボートなら、問題ないと思う」
言って、マリオンは僕らをボートに座らせて──自らは立ったまま、小さく何かを唱える。
すると──僕の背中を風が押して──ボートは緩やかに走り出す。海流に流されているのではない。ボートは真っすぐに無人島に向かっているのである。何の動力もないボートが、どういう理屈で波を切って進むものか──いつのまにやら慣れたもので、僕はすでに理解することを放棄している。とはいえ、はたから──例えば、漁港から見れば、普通にボートを漕いでいるようにしか見えないであろうな、と思う。
ボートが沖に出たところで──不意に、黒鉄のいびきが止まる。
「あ──まずい」
マリオンがつぶやく──と同時に、黒鉄が飛び起きて、周囲の海原を見るや、僕に抱きついて、大声でがなりたてる
「うおお! ぬしら勝手に何をしておる! 儂は海に出るつもりはないぞ!」
黒鉄が目を覚ましたことで、ボートはぐらぐらと揺れ始める。
「黒鉄! 落ち着いて! ちゃんと羽のごとくなってるから!」
ボートの揺れを収めるため──そして、黒鉄に締めあげられて、今にも窒息しそうな僕のためでもあろう──ロレッタさんは、黒鉄を落ち着かせるように、何やら意味のわからぬことを告げる。
黒鉄は、僕を締めあげる力を緩めて、半信半疑といった様子で、ボートから身を乗り出して、海原に手をついて──何やら確認して安心したようで、ようやく僕を解放してくれる。
「儂を起こして、ちゃんと説明してから、ボートを出せばよかろうに」
「だって、絶対嫌って言うだもん」
苦言を呈する黒鉄に、マリオンはいたずらっぽく笑って返す。
黒鉄が落ち着いたことで、揺れも収まり──やがて、ボートは件の無人島に近づく。
島と呼ぶのもおこがましい程度の、小さな島である。島の北側には、わずかながら浜辺が広がっているのであるが、それ以外は木々に覆われており、ちょっとした林のようになっている。
僕らはボートで浜辺に乗りあげる。浜辺の隅には、先客のものと思しき、真新しいボートがある。そのボートのそばには、食材や調理器具があり、レジャーシートまで敷いてある。どうやら無人島でバーベキューでも楽しんでいたと思しいのであるが──不思議なことに、その先客の姿は、どこにも見当たらない。
「それで──この島が揺れたの?」
「間違いない、と思う」
ロレッタさんの問いに、マリオンは頷いて答えて──その場に屈み込む。見れば、そのあたりに比較的新しい足跡があるようで、彼女はそれをたどって、林の入口あたりまで歩いて──おもむろに宙に手を伸ばす。
「どう──したの?」
僕の問いに答える代わりに──マリオンは伸ばした手で、その中空を叩いてみせる。するとどうであろう、そこにまるで透明な壁でもあるかのように、音が返ってくるではないか。
「結界がある──」
マリオンが告げて。
「──ということは、何かあるのう」
と、続ける黒鉄の空気が変わる。隣に、まるで獰猛な獣でもいるかのように、空気が肌を刺す。
「坊主──その辺に、何ぞ、硬い棒でもないかのう?」
黒鉄に言われて、僕は浜辺を見まわす。
「ボートのオールならあるけど──」
浜辺に残された調理器具の類よりは、ボートのオールの方が硬そうで、僕はそう答える。
「まあ、急場ではこんなもんじゃろうのう」
黒鉄は、ボートのオールを拾いあげて──そして、軽々と振りまわしてみせる。
「ロレッタ」
「あいよう」
マリオンの呼びかけに、ロレッタさんが鷹揚に答えて──彼女は、荷物から真っ赤なナイフを取り出したかと思うと、それを振りかぶり、見えない壁に向かって、無造作に振りおろす。




