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しかし、そのわずかな衝撃だけで──気づけば、僕は吹き飛んでいて、鏡面に寄りかかるようにして倒れている。
見れば、鏡面は粉々になって、下地の壁があらわになっており──さらに壁の一部が崩れて、僕の右手の上に倒れている。幸いなことに、右手が潰れているというようなことはなさそうであるが、倒れた壁を起こさないかぎり、動かせそうもない。
「タケル!」
鏡面に映るマリオンが、僕を呼ぶ。幾重にも反射して、どこにいるやら判然としないのであるが、声だけは確かに届いている。
「ロレッタのおまじない! 糸を引いて! 早く!」
マリオンはそう叫ぶのであるが、ロレッタさんのおまじないが施されているのは──僕の右手である。瓦礫の下に埋もれた右手の糸を、僕一人で引くことはできない。つまり──誰かに助けてもらわなければならない。
「トール! トール! きてくれ!」
僕は反射的に、ミラーハウスの外に向けて、トールの名を呼ぶ。
普通に考えれば、この状況で助けにやってくるものなどいない。ミラーハウスの中では何かひどいことが起こっているに違いなくて、不良連中でさえも逃げ出していて、自分のそばには守るべき彼女だっているのである。
「おいおい、大丈夫かよ」
しかし──トールは、おそるおそるではあるが、ミラーハウスに足を踏み入れて、僕のそばに駆け寄る。こんな危険な状況であっても、友だちのためなら駆けつけてくれるのである。藤原優子の女友だちとやらに、声を大にして叫んでやりたい。トールは最高の友だちである、と。
「トール! この瓦礫の下にある僕の右手──右手に巻いてある糸を引いてくれ!」
「糸を引いたら、どうなんの?」
言いながらも、トールは瓦礫の下に手を入れて、僕の右手を探り当てる。
「わからない──けど、どうにかなるんだよ! マリオンがそう言ってるんだから!」
「糸って──これか?」
トールの手が、僕の右手首に巻かれた糸に触れる。
「それを──引いて!」
僕がそう叫んだ──次の瞬間、ミラーハウスを疾風が駆け抜ける。
「お嬢」
見れば、鏡面に映るマリオンの隣に、いつのまにやら青が立っている。その姿は、いつぞやのようなスーツ姿ではない。まるで中世ヨーロッパの騎士のような出で立ちで、腰に剣を帯びている。
「鏡面を用いた多重召喚陣──ですか」
青は周囲を見渡して、苦々しくつぶやく。
「ロレッタは!?」
マリオンは、彼女にしてはめずらしく、焦った様子でロレッタさんを探すのであるが。
「すぐには無理でしょう。近くにいたのは私と──」
「──俺だ!」
青の言葉に、男の声が続く。見れば、青の隣に無精髭の男が立っている。
マリオンは男の声に、舌打ちで返す。
「ロレッタじゃないと殺しきれない!」
「せっかく駆けつけたのにい」
マリオンの舌打ちに、男はいじけるようにつぶやく。
「とりあえず、封じる方向でいきましょう」
青が言って、腰の剣を抜く。
「絶影殿」
「──押し込めばいいか?」
青に絶影と呼ばれた男は、それだけで自らのなすべきことを悟ったようで──深く息を吸って、腰を落とす。それは、どうやら先のマリオンのものと同じ技である。異なるのは──先のマリオンのものとは比較にならないほどに、絶影の拳がまぶしく光り輝いていること。
絶影は、瞬時に間合いを詰めて、目の前の老爺に容赦なく掌打を叩きつける。老爺は驚愕の顔で吹き飛び、魔法陣に吸い込まれるように消えて──そこに、一閃、銀光が走る。青が剣を振るったのだと気づいたのは、その剣が鞘におさめられてからである。
「一時的に入口を封じました」
青の言うとおり──見れば、いつのまにやら魔法陣は両断されており、まるで最初から何もなかったかのように霧散し始めている。
「魔神とて、すぐには開けますまい」
僕らは、青に助けられて、ミラーハウスから抜け出す。その間、絶影は表で藤原優子を口説いていたようで──それをトールに見とがめられて、脱兎のごとく逃げ出す。こんなときでも女を口説くのであるからして、相当の女たらしなのであろう、と思う。
「あ、ヤバい」
廃墟での騒ぎに、近隣の誰かが通報したのであろう、サイレンの音が聞こえ始めて──トールがつぶやく。
「急いで逃げよう。俺、次は退学になるかも」
トールは不吉なことを言って、廃墟の侵入口に向かおうとするのであるが──そこにはすでにパトカーの赤色灯が回転しており、幾人かの同好の士が捕縛されているのがわかる。
「逃げようにも、出口はあそこしか──」
そう言いかけた僕の言葉を遮るように、轟音が鳴る。見れば、マリオンの掌打が、廃墟を囲うベニヤ板を、フェンスごとなぎ倒している。
「ここから逃げよう」
僕らはマリオンにうながされて、廃墟から抜け出して、近隣の団地に逃げ込む。
何とか警察からは逃げおおせた僕らであったが──結論から言うと、トールは停学になった。警察沙汰にこそならなかったものの、深夜の騒ぎで娘の無断外出に気づいた藤原優子の親が激怒して、主犯のトールに厳罰を求めたのである。トールは無期停学となり──と言っても、実際には一ヶ月程度であったが──学校に戻ってくる頃には、普段の成績、素行の不良もあって、留年が確定していた。数日の停学で済んだ僕と藤原優子とは、天と地ほどの差である。
クラスの皆は、ようやく停学が明けて登校するトールをなぐさめようと、各々言葉を考えて待ち構えていたのであるが。
「おはよう!」
あにはからんや、トールは満面の笑顔で現れる。
聞けば、肝試しをきっかけに、藤原優子とつきあうことになったようで。
「彼女がさあ」
と、うざったく繰り返すトールに辟易して、クラスの皆はなぐさめの言葉を忘れる。
休み時間──トイレにでも行ったであろう緒方の席に勝手に陣取り、何度も繰り返されるトールの彼女自慢を、僕はただひたすらに聞いている──わけではない。
「それで、あの爺さんはいったい何だったんだよ!?」
停学中、僕らに会うことも許されなかったトールは、真実を知りたくて、うずうずしていたのである。
「わからない、マリオンは単に化物って」
「じゃあ、あの首なし幽霊は、どうなったんだよ!?」
トールは、よほど気になっていたのであろう、矢継ぎ早に問う。
「警察が調べたときには、もういなかったみたい。事件にもなってないし」
「何だよ、結局わからずじまいかよ」
トールはふてくされるように机に突っ伏して──僕はほくそ笑みながら、とっておきの情報を追加する。
「あの首なし幽霊──マリオンが言うには、あの老人が操っていた死体だろうって」
「ほう! そうかあ!──って、え?」
トールは、ようやく明らかになった真実らしきものに、納得の声をあげて──次いで、重大な事実にも思いあたってしまったようで、押し黙る。
「トールも──気づいてしまったかあ」
そう、あの老人が死体を操っていたということになると──それ自体、信じがたい事実なのであるが、あの不可思議な夜を思えば、そういうこともあろう思えてしまう──そもそも、首なしの死体があの廃墟にあったということになる。ギロチン説か、はたまたジェットコースター説か──それはさだかではないが、あの遊園地で、もしくはあの廃墟で、何かおぞましいことがあったのは、まぎれもない事実ということになるのである。
「優子には言うなよ」
「もちろん」
僕らは、藤原優子にはその真実を隠すことを誓いあって──二人で、ひんやりと冷える残暑を過ごすことになる。
「夜歩く」完/次話「海に出るつもりじゃなかった」




