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「おじゃま──します」
僕はおそるおそる、ヤクザの事務所──であったビルに足を踏み入れる。
そのレンガ張りのビルは、地元では有名な建物で、一種名所のような扱いを受けていた場所である。異様に高いフェンスに囲まれて、一切の死角を許さぬほどのカメラに監視されて──厳重に防備されたそこは、日常に突如として現れた要塞のようなものであり、近隣のものにとっては、そこがヤクザの事務所であることは、周知の事実であった。
以前は、ビルの入口あたりに、組員と思しき厳つい輩が見張りに立っており、興味本位にでも近づこうものなら、肩を怒らせて威嚇されていたところであるが──今は代わりにスーツ姿の青が立っている。直立不動で──まさに微動だにせず、そうと知らなければ、精巧な彫像と思うものもいるかもしれないほどである。
「──どうぞ」
僕は、青の許しを得て、ビルの中に入る。階段をのぼり、二階の扉をノックして開くと──そこは、大きな広間のようになっている。
「おう、坊主か、入れ入れ」
部屋の奥──どう見ても組長が座ると思しき椅子に座しているのは、黒鉄である。
「黒鉄さん──」
見れば、黒鉄はその小柄にあわせて仕立てたであろう鈍色のスーツを身に着けている。
「どうじゃ、似合うじゃろう」
言って、黒鉄は葉巻をふかしてみせるのであるが、その姿はどう見ても──。
「マフィアみたいだって言ってやってよ」
苦笑しながら僕を出迎えるマリオンは、いつぞやのように制服姿ではない。デニムのオーバーオールに、白い無地のティーシャツ──まさに部屋着といった装いで、まるで私生活をのぞき見てしまったようなやましさすら感じてしまう。
僕は、マリオンにすすめられるまま、応接用のソファに腰をおろす。
「マリオン、これ、持ってって」
部屋の隅にあるカウンターから、ロレッタさんが声をあげる。見れば、カウンターには人数分の洋菓子とカップが並べられており──その奥はキッチンのようなスペースになっているのであろう、と思う。
「はーい」
マリオンが返して──僕も手伝おうと立ちあがりかけるのであるが。
「客は座っておれい」
黒鉄がドスの利いた声で制止して──僕はソファで縮こまる。
「はい、どうぞ」
言って、マリオンは目の前のテーブルにトレイを二つ置く。一つは僕の分、もう一つは彼女の分であろう。トレイには、近隣では有名な店の洋菓子──父が母の機嫌をとるときに買うのである──が載っている。確か、割と便のわるいところにある店であるから、マリオンたちは車を持っているのであろう、と思う。
「儂はここでいいぞ」
「はいはい」
黒鉄の言に、ロレッタさんがぞんざいに応えながら、トレイを運んで。
「じゃあ──若者同士でごゆっくり」
彼女自身は、カウンターでコーヒーを飲み始めるものだから──自然、僕とマリオンが向かいあって座ることになる。
「それで──そのトールくんと一緒に、廃墟に行くの?」
洋菓子を食べ終えて、早々に話題も尽きてしまった僕は──勇気を振りしぼって、トールの提案を語る。トールの言う怪談程度が、以前にマリオンの求めていた不思議なことにあたるのかどうかはともかくも、誘ってみないことには何も始まらない。
「僕はそんなに興味があるわけじゃないんだけど、マリオンなら興味があるかなって」
ほら、不思議なことが起こるかもしれないし、と僕は言い訳がましく続ける。この後に及んで逃げ腰なのは、女っ気のない十六年間のなせる業である。
「幽霊が出るって噂の廃墟なんでしょ? 私はちょっと行ってみたいかなあ」
マリオンは、どうやら退屈を持て余しているようで、ちょっと散歩に出かける程度の気軽さでもって、夜の廃墟に興味を持つ。
「でも、タケルがそんなに興味ないっていうなら──」
「──行く」
僕はマリオンの言葉を遮って、宣言する。
「行きます」
そう繰り返す僕に、マリオンはきょとんとして。
「男の子だなあ」
ロレッタさんは、カウンターに頬杖をつきながら、苦笑する。彼女は、きっと何もかもお見通しなのであろうが──この千載一遇のチャンスを逃すわけにはいかない。
「男の子のそういうところ──お姉さん、嫌いじゃないんだなあ」
言って、ロレッタさんはソファに近づいたかと思うと、おもむろに腰をおろして、いつぞやのように僕の手を取る。
「もしものときのために、お姉さんが魔法をかけてあげよう」
「──そのおまじないって、いったい何なんですか?」
僕は、いつぞやのようにロレッタさんにされるがままになりながら、素直な疑問を口にする。
「前もそのおまじないのおかげで、マリオンたちに助けてもらったし──」
実際のところ、それは単なるおまじないとは思えないほどの効果を発揮している。そんなはずはないと頭では理解していても、もしや何か発信機のようなものでも埋め込まれているのではないか、と不審に思ってしまうのもまた事実──そんなことを考えていると。
「はい、終わり」
ロレッタさんはそう言って──今度のおまじないは、僕の右手首に巻かれた、この糸のようなもののことなのであろう、と思う。
「あたしはね、魔法使いなんだよ、タケル少年」
ロレッタさんは、発信機どころではないことを口にして、不敵に笑う。




