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「本当に、もう大丈夫だから」
「だめだよ、ちゃんと治療しないと」
僕は、マリオンに手を引かれて、繁華街を歩く。女子と手をつないだことなど、小学生の頃のフォークダンス以来で──伝わるぬくもりとやわらかさで、僕は目眩すら感じる。
「いつもなら、よく効く傷薬があるんだけど、今はちょっと用意がなくてね」
言って、マリオンは申し訳なさそうに苦笑する。
繁華街を行く僕らを見て、すれ違うもの皆が振り返る。こんな夜中に、高校生が制服姿で出歩いていれば、振り返りたくなるのも無理からぬこと──と、言いたいところではあるが、きっとそうではない。男たちは、振り向いて、マリオンを見ているのである。それはそうであろう、僕だってそうする。
「──ん?」
と、マリオンは不意に足を止めて、周囲を見まわす。
「今、誰かに見られたような」
誰かに見られたどころか、ずっと注目の的だと思うのであるが──もしかすると、そういう視線には、意外と鈍いのかもしれない、と思う。
マリオンは、周囲の視線を知ってか知らでか、おかまいなしにずんずんと進み、奥まった路地に足を踏み入れる。
「こっち」
言いながら、彼女は勝手知ったる様子で、路地に面した雑居ビルの階段を下りる。
まさか地下に連れ込まれるとは思ってもおらず──事ここに至り、もしかすると美人局というやつではなかろうか、と今さらながらに疑念を抱く。不良から助けて、治療するからと言って、獲物を暗がりに連れ込む──いや、まわりくどいな。わざわざ不良から助ける意味もない。まさか僕が大金持ちに見えたわけでもあるまいし──と、あれこれと思案する僕をよそに、マリオンは地下の突きあたりの扉を無造作に開く。
「いらっしゃいませ──って、何だ、マリオンか」
「何だとはご挨拶だなあ」
奥から届いた女性の言葉に、マリオンは不満げに返す。
扉の先は、薄暗く、煙草臭い。マリオンに連れられて暗がりを進むと、ほの明かりに照らされた一枚板のカウンターが目に入り──ようやく、ここがバーであることに気づく。以前、酔っぱらった父に連れられてスナックに入ったことはあるものの、バーは初めてである。
「旦那は?」
言いながら、マリオンはカウンターの椅子に腰かけて──隣の椅子を、ぽんぽんと叩く。座れということであろう、と解釈して──僕は、背の高い椅子に腰かけて、居住まいを正す。他に客がいないとはいえ、高校生の身でバーに入るなど、何とも居心地がわるい。
「あんな浮気者のことを旦那と呼ぶな」
カウンターの向こうで、ふん、と鼻を鳴らすのは、燃えるような赤毛をポニーテールに結んだ──とんでもない美人である。エルフのように尖った耳は、コスプレの類であろうか。しかし、それが何とも言えず似合っていて、まるで物語から飛び出してきたかのように思えるほどなのであるからして──やはり、とんでもない美人である。
「また喧嘩したんだ」
あきれるように苦笑するマリオンの前に、美女は慣れた手つきで、すっとグラスを出す。グラスの中身は、まさか酒ということはあるまいが──マリオンはどう見ても未成年である──その手慣れた様からするに、彼女こそがこの店のバーテンダーなのであろう、と思う。
「絶影なら、夜の街に消えたよ」
ふっとニヒルに笑って、バーテンダーは遠くを見る。そして、おもむろに視線を戻して。
「そんで、そちらは──誰? 彼氏?」
バーテンダーは、からかうような視線を、僕とマリオンに向けるのであるが。
「違うよ、怪我人」
羞恥に赤くなるのは僕ばかり──マリオンは、冗談を真に受けることもなく、さらりと流して。
「名前は──」
と、振られて──そこでようやく、今まで名乗ってさえいなかったことに気づく。
「小浦──小浦タケルです」
「タケルくんね」
バーテンダーは僕の名を呼びながら、僕の前にもグラスを出す。色からするに、ウーロン茶であろう。
「あたしはロレッタ。この店の──雇われバーテンダーってところかな」
言って、バーテンダー──ロレッタさんは艶めかしくウインクをしてみせて──それだけで、僕の鼓動はいくらか速くなる。
「だから、怪我してるんだって」
マリオンは、僕をからかうロレッタさんをじろりとにらんで、唇を尖らせる。
「はいはい、救急箱ね」
言って、ロレッタさんはカウンターの奥の部屋に消える。
「あと──この服!」
マリオンは、思い出した、とばかりにカウンターに身を乗り出して、奥の部屋に向けて、声を張りあげる。
「みんなの着てる目立たない服って頼んだのに、高校の制服じゃない!」
先の道中、僕に指摘されるまで、それが制服であると気づいてもいなかったマリオンは、憤慨をあらわにする。
「だから、みんなの着てる目立たない服じゃん」
そう返しながら、ロレッタさんは救急箱を手に戻ってくる。
「同じ学校の人に見られたら、こんなやついないってばれちゃうでしょ!」
「そんなのわかんないって──ねえ?」
ロレッタさんは、責任逃れでもするように、僕に話を振るのであるが。
「こんなにかわいい女子だったら、わかると思います」
先にも述べたとおり、これほどの美少女を知らないなどということは、男子にとってはありえないことなのであるからして、目立つ目立たないで言えば、相当に目立つことになろう。
「ほら! ほらほら!」
「お世辞なんて言わなくていいんだよ?」
勝ち誇るマリオンを、どうどう、と制止しながら、ロレッタさんは僕の腕をとり、カウンターに敷いたタオルの上に載せて、水で傷口を洗い流す。
「お世辞じゃないです」
次いで、傷口の消毒に移るロレッタさんに、僕は素直なところを返す。
「ほら! ほらほら!」
ふん、と鼻息も荒く繰り返すマリオンが、かわいらしくて仕方がない。
「はいはい、かわいいかわいい」
ロレッタさんは、マリオンにぞんざいに返しながら、僕の傷の手当てを終えて。
「これでよし」
言って、僕の腕を軽く叩く。見れば、傷口は、まるで縫いあわされたかのようにふさがっていて──ロレッタさんの応急処置の腕前に、思わず、おお、と声をあげる。
「一応消毒もしてるけど、痛むようならちゃんと病院に行くんだよ」
「ありがとう──ございます」
僕は礼を述べて、ロレッタさんに頭を下げる。
「マリオンも──今は怪我にだけは気をつけて」
ロレッタさんは、先までの様子とは打って変わって、神妙な顔でそう告げて。
「わかってるって」
マリオンも、同じく神妙に頷いてみせる。
「じゃ、いこっか」
マリオンは、僕に呼びかけながら、椅子から飛び降りる。
「あ、マリオン!」
それを呼びとめるのは──ロレッタさんである。
「大事なこと忘れてた。これ、リュカから。当面の活動資金だって」
言って、ロレッタさんはカウンターの下から封筒を取り出して、マリオンに手渡す。マリオンはそれを無造作に受け取り、封筒の中身の一部を取り出す。それは、一万円札の束である。封筒の厚さからすると、百万円くらいはありそうなほどの大金なのであるが。
「わお。さすがはリュカさん」
マリオンは、それほどの大金を受け取りながら、さして驚いた様子もなく、にこやかに封筒を懐にしまい込む。
この少女は、いったい何者なのであろう──僕は、いぶかしみながらマリオンをみつめるのであるが、答えは出ず──僕らは薄暗いバーを後にする。




