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異聞
人の聞き知っていない話。普通にいわれている内容と違う珍しい話。
一九九九年──恐怖の大王とやらは、降ってはこなかった。
世間を騒がせた大予言も、熱心な信者をのぞいては忘れられ始めていて──かくいう僕も夜空を見あげることが少なくなった。
「何か飛んでる?」
何とはなしに夜空を見あげた僕に、級友の緒方慎司が問いかける。
「いや、星がきれいだなと思って」
「大して見えないけど」
緒方は、僕に続いて夜空を見あげて──はて、と首を傾げる。確かに、都会のスモッグに覆われた空に、夏の大三角形が見えるわけでなし──まさかノストラダムスの大予言を懐かしく思い起こしていたなどと白状するのも気恥ずかしくて、僕は曖昧に濁す。
僕らは駅前の書店に入る。地方都市の、さらに都心から外れた街ではあるが、副都心計画なんてものが持ちあがる程度には栄えており、こんな時間でも客は多い。
「じゃあ、俺はこっちだから」
言って、緒方はカメラ関連の雑誌の並ぶ棚に向かう。
先頃、写真部に入った彼は、どうやらカメラの魅力にとり憑かれたらしく、学校に無断でアルバイトまでして、一眼レフカメラを購入したというのであるが──残念ながら、僕にはそれがどうすごいのかもわからない。
緒方に軽く手をあげて返して──僕の方は、アニメ関連の雑誌の棚に向かう。今日は、楽しみにしていた雑誌の発売日なのである。はやる胸をおさえながら、雑誌を探す──と、不敵に笑う少女のイラストが、僕の目に飛び込んでくる。
その魔法使いの少女は、僕の愛読しているライトノベルの主人公である。今号は、そのライトノベルの特集があるということで、昼食代を節約して何とかお金を捻出したのであるが──そうでもしなければ、僕の懐に雑誌を買うような余裕はない。
雑誌を手に取って、少女と目を合わせる──と同時に、書棚の向こうの男とも目が合う。駅近くの高校の制服を着たその男は、僕を見て、にやりと笑って──振り返って、仲間と思しき連中に声をかけている。
僕はその笑みに嫌なものを感じながらも──考えすぎであろう、と振り払って、雑誌を手にレジに向かう。しかし、僕の楽観とは裏腹に、先の男は──その風貌からするに、おそらくは不良であろう──会計中もちらちらと僕を見ながら、見下すように笑っている。
僕の草食動物としての勘が告げている。肉食動物に目をつけられてしまった、と。
中学生の頃ならまだしも、高校生にもなって不良にからまれるなんて。僕は、一瞬、緒方に救いを求めそうになって──いや、と思いとどまる。緒方は、方向性は違えども、僕と同じくオタク気質である。彼が不良に立ち向かえるとも思えない以上、僕のせいで巻き込むわけにもいかない。
「ごめん、先に帰るから」
緒方に声をかけて──僕は足早に書店を出る。自動ドアを通り抜けながら、ちら、と振り返れば──やはり、先の不良が獲物を狙う目で僕を見ている。
僕は、震える足で、駅裏の路地に逃げ込む。暗渠の上を通る路地は、地元のものしか知らぬ道で──ここならば、人目にもつかず、やり過ごせると思ったのであるが。
「ねえ、ちょっと待ってよ」
不良は目ざとく僕をみつけて──僕は自らの失策に気づく。相手は駅近くの高校の不良なのであるからして、この路地の存在を知っていてもおかしくはないし、さらにはたまり場としていても不思議はないのである。そんなところに逃げ込むなんて、どうぞ襲ってくださいと言っているようなものではないか。
「何の本を買ったの?」
不良は馴れなれしく話しかけながら、無理やり肩を組んできて──僕の手から袋を奪い取り、中の雑誌を取り出す。
「うわ、こんな雑誌買ってんの。オタクじゃん」
不良は仲間に雑誌の表紙を見せて──奴らはいっせいに笑い出す。僕の大好きなライトノベルを、その主人公を、奴らは嘲笑っているのである。
「こんな絵が好きなんて、まったく理解できねえ」
「俺、オタクって初めて見たわ」
奴らの重ねる暴言で、僕の頬は羞恥に染まる。
僕の趣味は、決して恥ずべきものではない。そう頭では理解しているというのに、面と向かって罵倒されると、自分の方が間違っているような心持ちになって、胸が苦しくなる。
「ねえ、オタクくん。俺ら、ちょっとお金に困っててさ、いくらか貸してくんね?」
不良は、うつむく僕をなぐさめるように、ことさらに優しい声音で語りかける。
「ざ、雑誌を買ったから、お、お金はもう残ってなくて──」
「ああん?」
と、不良は声を荒げて、僕の胸ぐらをつかんで、煙草臭い顔を寄せた──そのときである。
路地の奥から、少女が歩いてくる。
不思議な少女である。黒いヘッドホンをしたその少女は、見覚えのあるグレーのブレザーを──僕と同じく松原高等学校の制服を着ているというのに、僕には彼女に見覚えがないのである。他学年の生徒ならそういうこともあろう、と思うかもしれないが──街灯に照らされた彼女の短い髪は亜麻色に、そしてその瞳はエメラルドに輝いているのであるからして、明らかに日本人ではないことが知れる。学校に外国人がいれば──しかも、それがこれほどの美少女ともなれば、さすがに他学年であっても知らないということはあるまい。
少女は、僕と不良の前で足を止める。
「──ちょっと」
ヘッドホンを外しながら、不思議そうに僕を見あげて。
「あなた、どうして逃げないの?」
と、上目で首を傾げる。
少女のその発言の内容よりも、彼女の日本語があまりにも流暢であったことに驚いて、僕はあっけにとられる。
「肉食動物に襲われたら、草食動物だって逃げるのに」
少女の発言は、まるで鋭い矢のように、僕の胸を射抜く。草食動物であるという自覚があるだけに、まるで責められたようにも思えてしまって──僕だって逃げたさ、逃げたけど捕まってしまったんだ、と胸中で誰にも届かぬ言い訳を重ねる。
「お前、こんなかわいい子と知り合いなのかよ!」
不良は、胸ぐらをつかんでいた手を放して、僕をどんと突き飛ばす。それほど力を込めたとも思えぬ一押しは、それでも体重の軽い僕を転ばせるには十分で──僕は雑居ビルの裏手のゴミ捨て場に突っ込む。ゴミ袋の一つに割れた瓶でも入っていたのであろう、腕に鋭い痛みを感じる。
少女は倒れた僕を、ちらと見て──冷たい顔で、不良に向き直る。たったそれだけで──僕には周囲の温度が二、三度下がったようにさえ感じられたのであるが──不良は少女のその変化に気づいていないようで、鼻の下を伸ばしたまま、無造作に彼女に近づく。
「ねえ、こんなやつ放っといてさ、俺らと遊ばない?」
不良は、先に僕にそうしたように、馴れなれしく少女の肩に手をまわそうとして──そのまま、すとんと地に落ちる。
「おいおい、何でそんなところで転ぶんだよ」
別の不良が、笑いながら倒れた不良に近づいて。
「──おい!」
彼が昏倒していることに気づいて、慌てて声をあげる。
不良どもが少女をにらみつける──と同時に、彼女が動く。いや、動いたのであろう、というのが正確な表現かもしれない。少女の動きは、僕の目にはとらえられず──次の瞬間には、不良たちは全員、地に伏している。ふう、と息をつく少女の拳を見るに、掌打で不良の顎を打ったのであろうが──凄まじいほどの速さである。
「まったく、どこの世界にもこういう手合いはいるもんだね」
言って、少女は無表情から一転、見惚れるような笑顔になって。
「大丈夫?」
倒れた僕に向き直り、優しく声をかける。
「君は──」
問いかける僕に、彼女は手を伸ばして。
「私は、マリオン」
返して、少女──マリオンは、僕を助け起こしながら、無邪気に続ける。
「日本語だと、真理の音って書いて、マリオンって読めるんだって!」




