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聖神の、意外にすぎる呼びかけに、私は言葉もなく立ち尽くす。
「あなたもしつこいですね」
静寂を破ったのは──聖神に呼びかけられたフィーリ自身である。
「私は、確かに原初の神の現身としてつくられた旅具ですが、同一の存在ではないと何度も申しあげているでしょうに」
その言を聞くに──どうやら、フィーリと聖神は知己らしく、先のやりとりも何度となく繰り返されたもののようである──が、私は初耳である。
『おや、マリオン──フィーリの正体を知らなんだか?』
聖神は、言葉もない私の様子に気づいたのであろう、心底から楽しそうに笑う。
『そなたはな、フィーリにたばかられておったのよ』
聖神は、まるで悪魔がそうするように、私の心の隙間に入り込まんとする。
しかし──私は、その悪辣な手管に、かえって我を取り戻す。
「原初の神の現身──としてつくられた旅具なんでしょ」
いくら聖神に同情すべきところがあるとはいえ、そしてフィーリが原初の神の現身であるとはいえ──私の友を侮辱することは許さない。
「だったら──フィーリは私を騙してなんかいない」
私は断言する。
フィーリは事あるごとに自身のことを「特別な旅具」と称してきたのである。たとえ原初の神の現身としてつくられた旅具であったとしても、嘘はついていないことになろう。それに──フィーリは私に嘘をつかないと誓い、私はそれを信じると決めたのである。もしもフィーリに裏切られたと思うのであれば、それはすでにフィーリを信じていないということになるではないか。真に相手を信じているのであれば、何があろうとも裏切られたなどと思うことはないはずである。それが道理というものであろう。
「私は、私の信じると決めたものを信じる」
「マリオン──」
フィーリは、感極まったように私の名を呼んで──ブルムは、私の答えがよほど面白かったものとみえて、げらげらと笑い転げている。
聖神は原初の神が憎い。ゆえに、その現身たるフィーリのことも憎い。だから──旅具の主たる私に、フィーリのことを憎ませたかったのであろう、と思う。
『この──狂信者め!』
聖神は、自身の思惑が外れたからであろう、激昂しながら私につかみかからんとする。
しかし──私はそれをこそ待っていたのである。
聖神は、今や私を間合いにとらえている。しかし、それは同時に、黒鉄とロレッタがその間合いから外れることを意味している。
「神様はご存知ないのかな?」
私は不敵に笑って続ける。
「これは信仰じゃない──友情っていうんだぜ!」
啖呵を切って、旅神の弓を構える。もう右手のしびれはないし、何より──封印はすでに解けている。
『弓よ! すべてを穿つ弓よ!』
封印の解けた弓に向かって、私は命じて。
『古の盟約にもとづき、我が力となりて、天外を穿て!』
力ある言葉とともに、矢を放つ。
『それをこそ──待っておったのだ!』
聖神は、先の激昂が嘘のように冷静に──実際のところ、半分は演技だったのであろう──腕を広げて、旅神の矢を──星をも穿つ一撃を受け入れる。
放たれた矢は──光だった。私は矢を放った反動で後方に吹き飛びながらも、その光の軌道を目で追う。光は聖神の胸を貫き、庭園の生垣を貫き、どこまでも直進して──次の瞬間、光の貫いたものすべてが、轟音とともに爆ぜる。
「──え?」
その結果に、私は愕然とする。
光の爆ぜた痕は──無だった。庭園の生垣に、虚無の大穴があいている。ここが次元回廊であるならば、世界を隔てる被膜が破れたのだと納得するところなのであるが──ここは現実である。現実と地続きのはずであるというのに──世界に大穴があいているのである。
「この場は、世界の果てと同じく、世界の壁が薄いのです! こんなところで弓の力を解放すれば、世界に穴があくのも当然です!」
フィーリはめずらしく声を荒げるのであるが、時すでに遅く。
「聖神は──マリオンに、この穴をあけさせたかったのですよ!」
あっけにとられる私をよそに──大穴は、すべてを呑み込み始める。私は遠間におり、足を踏ん張ってこらえることもできるのであるが、大穴のそば──聖神のそばに倒れている黒鉄とロレッタは、ひとたまりもない。まるで、巨人に足をつかまれたかのように、大穴に向かって引きずり込まれる。
「ブルム!」
二人の危機に、最初に反応したのはフィーリである。
「おうよ!」
ブルムは応えて、大穴の前に立ちはだかるようにして、今まさに引きずり込まれんとした二人を抱きとめる。
「俺から離れるなよ! 吸い込まれたら──おそらく戻ってはこれんぞ!」
その声に、黒鉄もロレッタも、必死の形相でブルムに手足をからませる。
ブルムは二人をかばうように抱いたまま、大穴から離れ始める。その足取りに不安なところはなく──いや、不安がないどころではない、と私はその違和感に気づく。ブルムは大穴の吸引の影響を受けることなく──髪さえなびいていない──平然と歩いているのである。
大穴から離れるブルムとすれ違うのは──胸に穴のあいた聖神である。いくら異神といえども、封印を解いた弓に射られては無傷とはいかないようで、聖神は苦痛に顔を歪めながら、一歩、また一歩と大穴に近づく。
『──ついに』
聖神は、待ち望んだものがようやく手に入るような、幼い笑顔で大穴に右手を伸ばして──そして、その手を弾かれる。
そう──不思議なことに、聖神も先のブルムと同じく、大穴の吸引の影響を、まったく受けていないのである。
聖神は呆けたように弾かれた手をみつめて──そして、精も魂も尽き果てたといった有様で、その場に膝をつく。
『使徒どもに力を与えて、その矢で貫かれて──これほどの力を失っても』
言いながら、再び大穴に右手を伸ばして。
『それでもなお──世界の壁は僕を拒むのか』
目の前の大穴を、決して通り抜けることのないその手を、絶望の眼差しでみつめる。
「──力の多寡は関係ねえ」
聖神の絶望に、ブルムはなぐさめるように声をかける。
「神は──その神という存在ゆえに、決して世界の壁を越えることはできねえ」
ブルムの語る理屈は、しかし聖神にもわかっていたことなのであろう、と思う。それでも、万に一つ──いや、それ以下の可能性に賭けて、聖神は世界の壁を越えようとしたのであろう。聖神の──少年の嗚咽と、その望郷の念とが、私の胸を打つ。
「マリオン──私を、大穴に向けて、かざしてください」
フィーリに言われて、私は旅具を高く掲げる。
『──』
フィーリが何やら唱える──と、大穴は、まるで世界が縫いあわされるがごとく、ゆるりと閉じていく。
「神は、その神という存在ゆえに、決して世界の壁を越えることはできません──」
フィーリは、私の手の中で、先のブルムの言を繰り返して──そして、おもむろに告げる。
「だからこそ──私がつくられたのです」




