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扉を開く──と、そこは庭園であった。
扉から、なだらかにのぼりながら、小道が伸びている。道の両側には、木々が青々と茂る。等間隔に並んでいるところを見るに、意図的に配置されたものであろう、と思う。木漏れ日が心地よく、木々を抜ける涼やかな風が、ふわりと頬をなでる。
私たちは、小道を行く。道は、庭に植えられた草花を楽しませるように、緩やかに蛇行する。時折、何のものやらわからぬ花の香りが、鼻孔をくすぐる。どこか春めいた香りである。
「見事なもんじゃのう」
黒鉄は、ここが迷宮であることを忘れたかのように、のんきな声をあげる。臨戦態勢を解いて、今や巨人の斧を肩にかついでいる始末である。
しかし──と、私は思い直す。何も黒鉄だけを責めることはできまい。なぜならば、庭園の素朴な美しさは、私の心をもとらえてしまって──ほんの一瞬のことではあるが、故郷を感じてしまったほどなのである。園丁の腕が確かであることは、間違いないといえよう。
「見たことのない草花ばかりだね」
ロレッタが何気なくつぶやいて──私は、はっと息をのむ。
故郷の山野を思わせる自然な庭園。しかし、そこにはどこか違和感がつきまとっていたのであるが──私はようやくその正体に気づく。庭園に咲き誇る草花は、山野に慣れ親しんだ私をして、見たこともないようなものばかりなのである。
「フィーリ、これって──」
「この世界の草花ではありません」
問いかけた私に、フィーリは断言する。
「この庭園──先までの迷宮よりも、さらに世界の壁が薄くなっています。おそらくですが──迷宮の構造を利用して、世界の壁を薄くし、異界のものを召喚しやすい状態をつくり出しているのではないかと思います」
「異界の──草花」
フィーリの言に、私はあらためて庭園の草花を見やる。それらは、確かに私の見知らぬ草花ではあるのだが──私の知るものと変わらず、目を、鼻を楽しませてくれる。もしかすると、異界といえども、この世界とさして変わらぬのやもしれぬな──と、私はまだ見ぬ世界にいくらか親しみを覚える。
私たちは、やがて小高い丘に誘われる。どうやら、そこからの遠景を楽しませるような意図があるのだろう──目に映る山野は、とても迷宮とは思えぬほどに豊かで、やはり郷愁を誘う。
そこから道は下り、庭園の中心に向かう。生垣に囲われたそこには、科に似た大樹が、薄黄色の花を咲かせている。その木陰に隠れるように──庭園の眺望を楽しむためのものであろう、円形に並んだ石柱の上に屋根があるだけの、簡素な建物がある。
そこに──少年が座している。
茶色い髪の少年は、こちらに背を向けて、何やら本を読んでいる。ちらとのぞく文字は、公用語ではない──古代語ですらない、私の知らぬ文字である。
私たちが近づくと、少年は本を閉じて、こちらに向き直る。
『ようこそ──僕の故郷は、いかがだったかな』
その言葉の意味するところはわからぬが、その声──少年の見目には似つかわしくないしわがれた声で紡がれるのは、神代の言葉である。
『ここにたどりつくまでに、マリオン一人になっているものと思っていたが──存外にやるものよの』
訳知り顔でそう語る少年に、私は悟る。この少年こそが、聖神である、と。
少年──いやさ聖神を前にして、私たちはそれぞれに武器に手をかけるのであるが、聖神はどこ吹く風──私たちを歯牙にもかけぬ様子で、たおやかに微笑みかける。
それだけで──たったそれだけで、私たちは一歩たりとも動けなくなる。聖神からは、今や洪水のごとく神気があふれ出ており、私たちはその奔流に抗って立つのがやっとのことで、呼吸さえできないのである。
「──よう」
不意に──私たちの背後から声があがり、聖神はそちらを見やる──と同時に、先までの神気がやわらいで、私たちは慌てて空気を求める。
『久しいな──ブルムよ』
聖神のその言に──まさか、と振り返れば、そこには確かにブルムの姿がある。
「親父!?」
ロレッタは驚愕の声をあげて、ブルムは軽く手をあげて彼女に応える。
「久しぶりだな、聖神よ」
言って、ブルムは聖神の前に立つ。
『貴様が出向いてくるとは──僕はまつろわぬ異神と認定されたのかな?』
聖神の問いに、ブルムは意外にも首を振って応える。
はて、大魔法使いアフィエンの語るところによれば──ブルムは、まつろわぬ異神たる聖神の動向を見張るため、エルラフィデスに出向いているのではなかったか。しかし、私のその記憶とは裏腹に、当のブルム自身は、聖神をして、まつろわぬ異神ではないという。
『そうよな──そうでないことを、もっともよく知っているのは、ブルム──貴様であろうからな』
聖神は、尋ねる前からブルムの答えがわかっていたようで、くつくつと笑う。
「俺だって、むやみやたらと喧嘩してえわけじゃねえ」
言って、ブルムは聖神から離れて、大樹の木陰に腰をおろす。どうやらこちらに加勢する気はないらしい。とはいえ、そもそもブルムを当てにしていたわけでもない。私は気を取り直して、聖神を見やる。
『さて──マリオンよ』
聖神は私に向き直り。
『僕に用向きが──』
と、語りかけるのであるが──その神気がやわらいだままであると気づくや否や、私は知らず駆けている。
私は一瞬にして聖神の懐に潜り込み、疾風のごとく──大地を踏み込む。大地を穿つほどの衝撃を、関節を連動させることで増幅して、身体をねじりながら右の拳にまで伝えて──拳よ砕けよと言わんばかりに、聖神の頬を殴りつける。
疾風のごとき踏み込みと、関節の連動──凄まじい衝撃は、さらに増幅されて、私の身体を伝わり、拳からほとばしる。
透しは、神ごときものにも通用する。もちろん、それで傷を負うというようなことはないのであろうが、それでも衝撃で吹き飛ばすことはできる──それは、魔神王との戦いで実証済である。
私の渾身の透しを受けて、聖神は吹き飛ぶ。そのまま柱に身を打ちつけて──柱は砕けて、建物は倒壊する。聖神は崩れ落ちた瓦礫に呑み込まれるのであるが──どうせ傷一つついていないのであろう、と思う。しかし、それでもグラムの分はぶっ飛ばせたと思うと、私の心もいくらか晴れやかになる。
とはいえ、いつものように掌打ではなく、怒りに任せて拳で殴りつけたのはまずかった。その代償として、私の右拳はしびれて動かない。竜革の手袋のおかげで、骨は折れてはいないようであるが、すぐには使いものにならぬであろう、と思う。
「やるねえ」
ブルムは口笛を吹いて囃したてる。
「人の心をもてあそんだ──その報いだよ」
私は瓦礫に向かって告げる。
『──人の心をもてあそんだ?』
聖神は瓦礫を押しのけて立ちあがり、汚れを払いながら返す。
『人の心をもてあそぶのが神であろうに』
ふてぶてしく告げる聖神には、悪意の欠片も感じられない。
『いや──神の心さえもてあそぶものもいる、か』
聖神は意味深に告げて──同時に、再び神気があふれ出す。




