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上階に戻ると、今にも泣き出しそうな幼王が駆け寄ってきて、私の脚にすがりつく。
「お母さまは……?」
「お母さんは、ちょっと疲れちゃったみたいで、下でお休みしてるの」
心配ないよ、と幼王を抱きしめて安心させる。
階下の扉の前には、すでに近衛兵が押し寄せているようだった。
「王太后陛下をお守りしろ! 国王陛下をお助けするのだ!」
先陣の兵だろうか、鼓舞するように叫びながら、階下の扉に体当たりを繰り返しているようで、上階まで振動が伝わる。集う兵が増えれば、扉が破られるのも時間の問題であろう。
幼王を置いていくべきではないか、と考える。連れて逃げるよりも、連中に保護させた方が、幼王にとっては安全なのではないか。しかし、近衛兵が王太后に操られているものと考えると、幼王の安全に確信が持てるわけでもない。どういう扱いを受けるやらわからないとなると、安心して置いていくこともできぬ。やはり、連れて逃げるべきであろうと決断を下す。
「王様、字は書ける?」
「名前くらいなら……」
と、恥ずかしそうに告げる。
「それで十分」
負い目を感じることなどない。世には名前さえ書けない大人だっている。
「紙はある?」
「あるよ!」
言って、幼王は紙の束を持ってくる。褒めてほしいようなので、よしよし、と頭をなでる。子犬のようで、かわいらしい。
どうやら紙は、幼王の手慰みに用意されたもののようで──何とも贅沢なことである──多くの紙に子どもらしい想像力に富んだ絵が描かれている。
「上手だね」
世辞ではない。一枚の絵。父と母と子──先王と王太后と幼王だろうか──親子が手をつないで笑っている様は、あたたかみがあって、見るものの胸を打つ。
「一枚もらうね」
言って、紙の束から白紙を抜きとり、急いで手紙をしたためる。王太后が古代の遺物に操られて幼王を幽閉していたこと、いまだ近衛兵は操られたままであること、幼王を救うために騎士団が王城に入るのを許可することを箇条して──急いでいるので、字が汚いのは容赦願いたい──幼王に名を添えてもらい、王太后の指から抜きとった指輪型の印章を押す。手紙をフィーリに預けると同時に、階下で扉が破られる。
「しっかりつかまっててよ!」
「うん!」
幼王を抱いて、上階の展望室まで駆けのぼり、窓から外に出る。
塔のたもとには、かがり火に照らされて、群がるような近衛兵の姿が見える。どうやら侵入者を待ち構えているようで、下りて逃げることもできそうにない。
まかり間違っても幼王を落とさぬよう、左腕でしっかりと抱きしめて、右腕のみで城壁をのぼる。右手で身体を支えて、両足をより高い位置にかける。両足と、かすかに自由になる左手で身体を支えて、右手をより高い位置にかける。そして、右腕の力のみで身体を引きあげる。慎重に繰り返して、最上階をさらに上に、尖塔のさらに先端を目指して、城壁をのぼる。やがて、展望室までたどりついた近衛兵が、私たちを探して騒いでいるのが聞こえる。とはいえ、まさかさらに上にのぼっているとは思いもよらぬようで、追いかけてくる気配はない──いや、仮に上に逃げたと思い至ったとしても、さすがに追いかけてくるのは難しいであろう、と思い直して、心を落ち着ける。
「わあ!」
あまりの高さに、怖くて泣き出すのではないかと心配していたのだが、幼王は高所からの眺めを喜んでいるようで──さすが国王陛下は大物であるなあ、と感心する。
垂直の外壁をのぼりきって、さらに尖った先端を目指す。先ほどまでのように片手で全体重を支えなければならないというようなことはないが、かえって足もとはおぼつかず、油断してすべり落ちることのないよう慎重に進む。
ようやく尖塔の先端までたどりつき、塔に足をからめて姿勢を安定させる。
「怖くない?」
懐に抱いた幼王に尋ねる。
「楽しい!」
やはり大物である。高所で暴れられても困るので、大変助かる。
「フィーリ、手紙を」
矢筒から矢を取り出しながら、フィーリに命ずる。渡された手紙を矢に結びつけて、弓につがえる。
『大きくあれ』
古代語で命じると、弓は長大に姿を変じる。少々不格好な体勢ではあるが、長弓の扱いの妨げにはならない。
弓を構えて、彼方を見やる。
王城から、堀を隔てて街があり、その先に王都の外壁がそびえている──そして、さらにその先に、墓地の巨樹──かすかに糸杉が見える。
とても弓で届く距離ではない。それでも、旅神の弓であれば届く──かもしれない。弓の力を引き出して、かつ糸杉を──ひいては墓地を打ち砕いてしまうことのないようにそれを調節して、糸杉まで無事に手紙を届けなければならないのである。
私にとっての、極大の射程に挑む。
不謹慎なことに、笑みがこぼれる。祖父でさえ、これほどの長距離で、的を射たことはないだろう。私は、昂る気持ちのまま弓を引きしぼり──矢を放った。




