11
高祖の牙が私の首筋に突き立つ──その瞬間。
『な──』
私の影からあふれ出した闇が、高祖を押しとどめる──どころか、そのまま押し返して。
「マリオン!」
フィーリの声に我に返って、私は慌てて高祖から離れる。
床を転がり、起きあがりざまに振り向く──と、そこには、私の影から伸びる、影よりも暗き闇の姿がある。闇は、高祖を覆うように広がりつつも、その根幹となる姿形は人間のそれのようにも見える。なぜにこのような異形が影から飛び出したのか、と私はあっけにとられるのであるが──続く高祖の怒声で、闇の正体を知る。
『黒の騎士だとお!』
黒の騎士──それは、真祖直属の四騎士のうちの、最後の一人である。
「嬢ちゃん──あんな化物を影に宿してたのかい?」
エヴァリエルは、私を助け起こしながら、あきれるようにその闇を見やる。
「いや、私も知らなかった」
返しながら、私もその闇を呆然と見あげる。
此度の出立にあたって、伯爵からあれこれと手助けしてもらったのは事実なのであるが、まさか私の知らぬうちにあんな護衛までつけていたとは──伯爵の過保護にあきれつつも、命を救われたのはまぎれもない事実なのであるからして、ひとまずの感謝を捧げる。
「黒の騎士は──他の騎士とは異なります」
フィーリが、ぽつりとつぶやく。
「あれは、正確には吸血鬼ですらありません。原初の闇の欠片──それを真祖様が欲して、わずかばかりを人の型に押し込めた──闇の異形です」
原初の闇──それは、神々が世界を形づくる以前より存在する、混沌の名であるという。目の前の黒の騎士が、そのもっとも古き闇の欠片であるとは、にわかには信じられぬのであるが──吸血鬼の高祖と同等に渡りあっているところを見るに、おそらく真実なのであろう、と思う。
「真祖様の身を守る、その最後の砦たる黒の騎士を、まさかマリオンの身を守るために貸し与えていたなんて──」
と、フィーリは驚きのあまりであろう、言葉を失う。
今この場に、黒の騎士が顕現しているという事実は、どうやら旅具にとっても信じられぬほどの、真祖の気まぐれ──いや、恩情のようなものであるらしい。
『真祖め! 小娘に黒の騎士をつけるとは、まさか私を滅するつもりか!』
高祖は怒声を発しながら、自らにまとわりつく闇をかろうじて振り払って──その一瞬の隙をついて、その身を無数の蝙蝠と化して、闇から逃れんと大広間の宙を舞う。
私は、その蝙蝠の群れに向けて、おもむろに旅神の弓を構えて。
「──そのとおりだよ」
と、伯爵の言葉を代弁する。伯爵は間違いなく、私が高祖を滅ぼしてもよいと考えている。その証拠に──私は、高祖を倒すための、その本命ともいうべき策を授けられている。
「高祖──ルクレントゥルフスゥルム」
私は、伯爵より教えられた高祖の真名を唱える。
それだけで──高祖は、蝙蝠としての変化をたもてなくなり、無様にもテーブルの上に落ちる。テーブルを割り、料理を撒き散らしながら──高祖は、先までの威厳などなかったかのように、私の射線から逃げまどう。吸血鬼にとって、真名を知られるというのは、それほどにおそろしいことなのであろう──今ならば、たとえ高祖であろうとも殺せると確信して。
『貫け!』
放たれた矢は光りをまとって、さながら彗星のように飛ぶ。彗星は、高祖の心臓を貫かんと迫るのであるが、奴はわずかに身をそらして──その一撃を肩で受けて、わざと吹き飛ばされて、死地から逃れんとする。
しかし──その程度のことは織り込み済である。高祖の吹き飛ばされた先に待ち構えているのは誰あろう──剣聖エヴァリエルである。
「──見えた」
言って、エヴァリエルの神速の一閃が、高祖の心臓ごと、その胴を両断する。それは、例の線をなぞった、必殺の一閃だったのであろう──わかたれた高祖の身体は、その断面から徐々に灰と化しながら宙を舞う。
「──しまった!」
しかし──エヴァリエルはその勝ち誇った顔から一転、自らの失態に舌打ちする。見れば、斬り飛ばされた高祖の上半身は、あろうことか、横たわるグラムの上に覆いかぶさるように落ちたのである。
「グラム!」
私は、高祖の身体を蹴り飛ばすべく、グラムに駆け寄ろうとするのであるが──時すでに遅く、高祖はグラムの首もとに噛みついている。
『はあ──傷ついた身体に染みわたる』
高祖はグラムの血を吸って、活力を取り戻したようで──見れば、身体の灰化は止まっている──どころか、再生すら始まっていて、見る間に下半身が補われて、その場に立ちあがる。
『さあ、聖神の騎士よ──奴らを殺せ』
高祖の命に従って、グラムも立ちあがる。
「グラム!」
私の呼び声にも応えず──グラムは冷たい目で私を見すえる。そして、おもむろに聖剣を振りかぶり──振りおろす。
『──なぜ』
高祖はつぶやいて──斬り落とされた自らの右腕を、呆然とみつめる。
「なぜ──吸血鬼に噛まれたのに、その命令に従わないかって?」
高祖の疑問に答えるのは、私の前で不敵に笑うグラムである。
そう──グラムが斬ったのは、私ではない。聖剣を振りおろしながら振り返り、背後の高祖の右腕をこそ、斬り落としているのである。
「それはな──お前よりも高位の吸血鬼に、すでに隷属してるからだよ」
『──真祖』
グラムの種明かしに、高祖は怨嗟の声をあげる。
「そう、俺は真祖に隷属して、こう命を受けている──汝、自由たれ、ってな」
そう告げて、グラムが聖剣を構えた──そのときである。
「──捕まえましたよ」
無邪気な声で言って、高祖を背後から抱きしめるのは誰あろう──聖女アラエムである。
「もう蝙蝠になって逃げることもできないんですよね。迂闊でしたね」
見れば、聖女は高祖をやわらかく抱擁しているのであるが──高祖は、真名を看破されたことによるものか、その細腕を振りほどけないでいる。
「おい──いいんだな?」
「ええ──どうぞ」
グラムの問いに、聖女は笑顔で頷いて。
グラムはその聖剣で、聖女ごと高祖の心臓を刺し貫く。
真名を看破されて、さらに聖神の神具たる聖剣で心臓を貫かれては、さしもの高祖もただでは済まなかったようで、血反吐を撒き散らしながら、苦しみ悶える。
「──楽しかったよ」
告げて、エヴァリエルが曲刀を振りおろす。その一刀は、わずかに高祖の命をつないでいた線を断ったようで──高祖は、真祖への怨嗟を叫び続けながら、やがて灰と化して消える。
グラムは大きく息をついて──緊張の糸が切れたように、その場にへたり込む。それは私も同様で、ほう、と息をつきながら、グラムの無事に──いや、無事とは言い難いか──安堵の胸をなでおろす。
一方で、聖女はというと──聖剣で高祖ともどもその胸を貫かれたはずであるというのに、そこには傷一つなく──グラムとエヴァリエルを称賛するように、笑顔で手を叩いている。もしかすると、聖神の神具たる聖剣は、聖神の使徒を傷つけることはないのやもしれぬ──が、だからといって、自らの胸を貫かせようとは、ずいぶんと肝のすわった聖女である。
『──お嬢』
と──不意に、神代の言葉で呼ばれて、驚いて振り返る。そこには、闇の異形──いや、黒の騎士がたたずんでいる。黒の騎士は、おずおずと古風な辞儀をしたかと思うと──私の影にするりと潜り込む。私は自らの影を何度か踏んで──踏んだからといって、ぬっと出てくるわけでもないのだなあ、と妙なことに感心する。
「そうだ──グラム!」
私は、思い出したように、グラムに駆け寄る。
グラムは、吸血鬼の高祖に噛まれたのである。真祖の力によって、その呪縛からは逃れたものの、吸血鬼と化してしまったことに変わりはない。その身を案じるなというのも、無理な話である。
私がグラムのもとに駆けつける──よりも早く、聖女がグラムに手を差し伸べる。
「グラムさん、よくやりましたね」
彼女の手は、グラムを助け起こすつもりで伸ばしたように見えるのであるが──当のグラムは手を取らず、きっと聖女をにらみつける。
「これで──契約は果たしたからな」
「ええ、よい契約でした」
グラムはそう言い放って、聖女は満足げに頷く。
契約──聖神の力を得る代わりに、緋衣の血族を滅ぼすとでも約していたのであろうか。そうだとすると、ずいぶんとグラムに都合のよい契約である、と思わなくもない。
「ほら──返すぜ」
言って、グラムは聖神の神具たる聖剣を聖女に差し出す。
「──確かに」
聖女は、伸ばしていた手でそれを受け取って、愛おしそうに懐に抱く。
「それでは、マリオン様──ごきげんよう」
聖女は振り返って、長衣の裾をつまんで、優雅な辞儀をして。
「また、すぐにお会いするやもしれませんね」
そして、意味ありげに笑って──そのまま振り返ることもなく、大広間を後にする。
「まったく──剣呑な聖女様だったねえ」
言いながら、曲刀を鞘におさめるのは、エヴァリエルである。高祖に止めを刺せたことが、よほどうれしかったものと見えて、めずらしくにやついていて──その顔を見るかぎり、より剣呑なのはこの婆さんの方ではないか、と思わなくもない。
「そういえば──嬢ちゃん、あの若造は死んだのかい?」
と、エヴァリエルは、ふと思い出したというように、私に尋ねる。あの若造──それは、おそらく絶影のことであろうと思い至って。
「いや、居館の東の廊下で伸びてるはずだよ」
私は、絵画越しに見た絶影の状況を伝える。フィーリの傷薬の効果もあって、伸びているだけ──のはずである。たぶん。
「じゃあ、あたしが若造を回収してくるから──あんたはそこのでかいのと話をつけな」
エヴァリエルはそう返しながら、なぜかグラムの肩を叩いて──私の返事も待たずに、すたすたと歩き出す。
「──恩に着る」
グラムは、エヴァリエルの背中に礼を述べる。老エルフは、振り返りもせずに、手をひらひらと躍らせて──大広間を後にする。
そうして──大広間には、私とグラムだけが取り残される。
私は──いまだに口が開けないでいる。復讐こそ遂げたものの、自ら吸血鬼と化してしまったグラムの心中を思うと、どうしても言葉がみつからないのである。
やがて──その居心地のわるい沈黙を破るように、グラムの方から口を開く。
「さて──と」
つぶやいて、グラムは立ちあがる。先まで満身創痍であったというのに、吸血鬼と化したからであろう、今やその蒼白い肌には傷一つない。
「マリオン──」
グラムは私の名を呼んで──おもむろに告げる。
「──俺を殺してくれ」
「──何?」
私は、聞き間違えたものと思って、笑いながら問い返すのであるが──グラムは困り顔で苦笑するばかり。
「──何で!」
それが聞き間違いではないのだと悟って、私は声を荒げる。
「何でって──俺のもっとも嫌う吸血鬼に、俺自身がなっちまったんだ。殺してくれと願うのも、当然のことだろ」
「当然のことなんかじゃないよ! 伯爵のおかげで、これからも自由でいられるんでしょ──だったら!」
だったら、死ぬ必要なんてないではないか、と私はグラムに詰め寄る。
「俺は、人間の血を吸ってまで、生きながらえるつもりはねえ」
私の懇願を、しかしグラムは言下に退ける。
その決意は固いようで、グラムに一切の逡巡は見られない。もしかすると、そもそも魔人となった時点で、復讐を遂げたら死ぬつもりだったのやもしれぬ、と思う。
「なあ──頼むよ。こんなこと頼めるのは、お前しかいないんだ」
「そんな言い方──ずるいよ」
グラムにそんな言い方をされると、断れなくなってしまう。
「もう──思い残すことはないの?」
「──ああ」
何とか引き留めようとする私に、グラムは短く答える。その顔は晴れやかで、私くらいの存在では、彼の未練にもなりえないのだと悟って──そのやるせなさが、私の胸に棘のように刺さる。
「トリスティアって娘のこと──好きだったの?」
私は、どうしても気になっていたことを尋ねる。
「ああ──誰よりも大切な人だった」
グラムの答えに──私の胸は、さらにちくりと痛む。
グラムの愛したトリスティア──たとえ彼女がこの場にいたとて、きっとグラムの願いをかなえることはできない。彼の願いをかなえることができるのは、彼の名を知り、かつ吸血鬼を屠ることのできる強さを持つ──私だけなのである。
「──わかった」
意を決して、私は旅神の弓を構える。
「ありがとう」
言って、グラムは微笑む。それは、いつか見たような、屈託のない、安らかな笑顔である。
「お前は──本当にいい狩人だ」
グラムは、いつかのようにそう言って──目を閉じる。私は、涙がこぼれそうになるのを、下唇を噛んで、必死にこらえる。
「──グラム」
目の前の吸血鬼の真名を呼んで、その心臓に狙いをさだめる。
「さようなら」