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『すばらしい! 人間の絶望ほどの美味はない!』
高祖は歓喜の声をあげて、酒杯に口をつける。その酒杯に満たされているのは美酒ではなく──おそらく、先に玄関広間で骸をさらした冒険者の血であろう、と思う。
『お──っと、失礼。マリオン殿を前に、吸血鬼の勝利を喜ぶのは、いささか無粋でしたかな』
高祖は、その殊勝な言葉とは裏腹に、噛み殺せぬ愉悦に顔を歪めている。
禿頭一行は、討伐隊の中でも上位に入るほどの手練れであった。緑鬼を倒した手際を見て、高祖の騎士を相手にしてもあるいは、とも思ったのであるが──蓋を開けてみれば、見あげる絵画は鮮血に染まっている。その惨状に食欲も失せて、私は突き匙を皿に置く。
『おや、食欲がなくなりましたかな』
高祖は、それではお飲み物を、と指を鳴らす。私の前には、すぐにいくつもの酒杯が並ぶのであるが、そのうちの一つ──真っ赤な葡萄酒が、どうしても血のように思えてしまって、やはり手を伸ばす気にはなれない。
『マリオン殿──次はあちらを』
高祖の言葉にうながされて、今度は隣の壁面の絵画を見あげる。
そこは、人が横に十人並んでも通れそうなほどの、幅の広い廊下である。真っすぐに続く廊下には、真紅の絨毯が敷かれている。壁際の魔法の灯りに、妖しく照らし出された絨毯は、その上を行くものを、血塗られた死地に誘うような──どこか不吉なものを思わせる。
その廊下を、ただ一人、行くものがある。
「──絶影」
私は、飄々と廊下を行く彼の姿を認めて、思わずその名をつぶやく。
『おや──お知り合いかな?』
私のかすかなつぶやきは、それでも高祖の耳に届いたようで──奴は心底からうれしそうに笑う。私の知るものがこれから死ぬ──そう考えて、悦に入っているのであろう。私は、禿頭一行の末路を思い起こして──絶影にかぎってそんなことはないと思いながらも、不安に胸を押し潰されそうになる。
『さて──お手並み拝見といきましょう』
と、高祖が意味ありげに告げて──見れば、廊下の先に浮かびあがる影が一つ。
「ごきげんよう」
それは──私を大広間に案内した侍女である。
「主より、招かれざる客を皆殺しにするよう、仰せつかっております」
侍女は、長衣の裾をつまみながら、うやうやしく告げる。
「女を殴るのは、趣味じゃないんだがなあ」
言いながら、絶影は構えをとる。
おいおい──お前は、初対面の私をさんざん殴ったであろうに。あの野郎、私のことを女に数えていないとでも言うつもりであろうか──と、絶影の危機にもかかわらず、私は彼を半眼でにらむ。
侍女は、尋常ならざる脚力で床を蹴って、疾風のごとく絶影に迫る。並の冒険者であれば、何が起こったかもわからぬままに、喉笛をかき切られているところであろうが──その程度で先を取られる絶影ではない。床に透しを放ち、疾風のごとく加速して、逆に侍女の懐に潜り込んで──狙いすました透しを放つ。
侍女は、廊下の奥まで吹き飛んで、そのまま床に転がる──とはいえ、吸血鬼は不死である。死者の軍勢の折と同じく、透しの衝撃で吹き飛ばして距離をとることはできても、その身を滅することまではできない──はずであるというのに。
「──!」
侍女は、まるで毒でもくらったかのように、苦しみもがきながら、廊下を這いずる。
絶影は、ゆるりと侍女に歩み寄り、止めとばかりに、その心臓に透しを放つ。その透しは、やはり侍女に痛手を負わせたようで、彼女は廊下をのたうちまわり──やがて、灰となって崩れ落ちる。
私は──絶影を見る。吸血鬼たる侍女を屠ったのは、おそらくただの透しではない。その技の術理を見きわめんと絵画を凝視して──私はその違和感に気づく。
「絶影の手のひらが──光ってる?」
『あの技は──北方の武侠に伝わるものかな』
私の疑問に答えたのは、同じく絵画を凝視する高祖である。高祖は、長く生きているだけのことはあって、訳知り顔で続ける。
『自身の生命力を糧として、それを掌打から打ち出す。我々のような不死者にも効力を持つという絶技だよ──いやはや、とっくに失伝しているものとばかり思っていたが、まだ継承者がいたとはねえ』
高祖は感心するようにつぶやく。その絶技の使い手が現存するということは、自らの血族の不利になろうというのに、それを気にするそぶりは微塵もない。
なるほど──その絶技こそ、絶影の秘する奥義であろう、と確信する。わざわざ隠されると、より真似したくなるというもの──私は立ちあがり、先の絶影を真似て、その場で透しを放ってみる。
「──むう」
しかし──放たれた衝撃は空を切るばかりで、手のひらも光ることはない。
『自身の生命力を、丹田に練るような心象ということだったかな──ま、吸血鬼にはわからぬ感覚だがね』
高祖は、いきなり技を真似ようとする私を、楽しそうに眺めながら、そう助言する。
私は、なるほど、と頷いて、丹田──へそのあたりに意識を集中する。しばしすると、何やら体内に熱い奔流のようなものを感じて──それを外に押し出すような心象で、再び透しを放ってみる。
それは、いつもの透しとは異なる。身体をめぐる活力のようなものが、衝撃とともに掌打から放たれる感覚を覚えて。
「──光ってる」
見れば、透しを放った手のひらが、わずかではあるが、光を発している
『マリオン殿は──どうやら天稟に恵まれているらしい』
高祖は、何やら祝詞のようなものを唱えながら、私をたたえるように拍手をする。
絶影も、まさか絵画越しに見られていたとは思うまい。出し惜しみをするから、こういうことになるのである、とほくそ笑んで──後で技をみせてやらねばなるまい、と決意する。
『こちらに向けて放たないでくれたまえよ』
高祖は手を払いながらそう言って──次いで、ふうむ、と何やら思案し始める。
『無手のものが相手なら──こちらも無手のものがよかろう』
そして、意を決したようにつぶやいて──その言に従うかのように、絵画の中──廊下の先に巨大な影が現れる。
巨影は、悠然と廊下を行き、灯りの下にその姿を現す。それは、真祖の騎士たる赤を彷彿とさせるほどの巨躯である。緋色の衣を身にまとった巨漢は、不敵に笑いながら、その拳を突き出す。その拳は、返り血であろうか、すでに朱に染まっており──。
『──朱掌の騎士』
高祖の言葉に──私は、まさに、と頷く。
朱掌の騎士の出で立ちは、騎士というよりは、無頼の拳術家のように見える。奴は、絶影を値踏みするようにじろじろと眺めたかと思うと、おもむろに口を開く。
「北方の武侠とお見受けする」
それは野太い──武人を思わせる声である。
「ほう──俺も有名になったもんだぜ」
朱掌の騎士の問いに、絶影は飄々とうそぶいてみせる。
絶影ほどの男であれば、朱掌の騎士を前にして、その押し潰されるほどの圧力を肌で感じているであろうに──そうやってふざけた態度をとれるあたり、強者と戦えることを楽しんでいるのであろう、と思う。
「武侠とは幾度か拳を交えたことがあるのでな」
雰囲気でわかる、と朱掌の騎士は続けて──戦いの準備でもするかのように、自らの関節を鳴らす。
「当代の武侠──どれほどのものか、楽しませてくれい!」
言うや否や、朱掌の騎士は絶影に飛びかかる。
「──速い!」
私は、その神速をかろうじて目でとらえて、思わず声をあげる。
朱掌の騎士は、その巨躯の割に、グンダバルドを彷彿とさせるほどの軽やかさで、絶影に迫る。一呼吸で絶影の懐に潜り込んで、その巨大な拳を突き出す。それは、絵画越しに私のところまで衝撃が届きそうなほどの、凄まじい剛拳である。
絶影は、まともにくらったならば、頭が吹き飛ぶほどのその一撃を、かろうじて首をずらしてかわして。
「──透った」
朱掌の騎士の剛腕を、両手で挟み込んで、透しを放っている。それは、透しによる内部破壊──対象を両手で挟み込み、関節を用いる透しを両側から放つことで実現する、武侠の奥義である。絶影の透しによる衝撃が剛腕のうちで爆ぜて──朱掌の騎士の右腕が弾け飛ぶ。
「ほう──やるのう」
朱掌の騎士は、吹き飛んだ右腕の先を眺めて──なおも笑う。それもそのはず、腕は見る間に再生して、奴は動作を確かめるように、拳を握ってみせる。
「儂を屠るには──ほれ、侍女に放った先の技を使うしかあるまいよ」
言って、朱掌の騎士は煽るように手招きしてみせるのであるが──絶影は唇を噛むばかり。それもそのはず、生命力を丹田に練るというのは──経験したからこそわかる──思いのほか時間がかかるのである。死者の軍勢との乱戦の折に、あの技が使えなかったのと同じく──朱掌の騎士との刹那の攻防の最中に力を練るというのは、不可能に近いといえよう。
もしも私があの場にいたならば、絶影が力を練るだけの時間を稼げたであろうに──わざわざ別行動などするから、こんなことになるのである、と憎たらしい好色漢をぶん殴ってやりたくなる。
「使えぬなら──死ぬまでよ!」
言って、朱掌の騎士は再び間合いを詰める。
朱掌の騎士の猛攻を、絶影はかろうじて避けている──避けているというのに、その風圧だけで肌が裂けて、血飛沫が舞う。絶影は、おそらく反撃の機会をうかがっているのであろう、朱掌の騎士の攻撃をかわすことに専念している──とはいえ、かわすたびに絶影の傷が増えていくのであるからして、見ているこちらとしては、気が気ではない。
朱掌の騎士は、猛攻を避け続ける絶影に業を煮やしたものか、大きく踏み込んで拳を突き出す──絶影は、それをこそ待っていたのであろう、朱掌の騎士の懐に潜り込み、先と同じくその腕を両手で挟み込む。
「──その技は、一度見たからのう」
朱掌の騎士は、絶影の重心を崩すように、足を払う。それだけで──たったそれだけで、関節を連動させることで増幅した力は霧散して──絶影の透しは不発となる。必殺の一撃を放たん、と朱掌の騎士の懐に潜り込んだ絶影は、一転して死地に立たされる。
「捕まえたぞ──武侠」
朱掌の騎士は、なす術のない絶影を両腕で抱いて──そのまま締めあげる。
「──おおお!」
絶影の骨がきしみ、こらえきれぬ絶叫がもれる。
「はっはぁ! 当代の武侠は痩身にすぎるぞ! 振りほどいてみい!」
朱掌の騎士は、絶影を絞め殺さん、とその両腕にさらに力を込める。
絶影は、確かに黒鉄やアルグスにくらべれば痩身ではあるが、それでもその鍛えあげられた肉体は獣のごとくしなやかであるというのに──その程度、朱掌の騎士にとっては、文字どおり、赤子の手をひねるようなものなのであろう、奴は嘲るように笑うばかり。
絶影は、何とかその拘束から逃れようともがくのであるが、朱掌の騎士の腕は微動だにしない。奴は、自らの腕の中でもがく絶影を、嗜虐に満ちた目で見下ろす。
そのときである。
「──っ!」
朱掌の騎士は、突然その目を押さえて、絶影を取り落とす
「矮小な人間の分際で、儂に唾するとは──!」
朱掌の騎士のその怒声を聞いて、初めて絶影が奴の目に唾したのだと気づく。
なるほど──身体が自由にならずとも、口は動くのであるからして、確かに唾することはできよう。いやはや、絶影も器用なことをするものである──と、感心したのもつかの間、それはどうやら吸血鬼の逆鱗に触れる行為であったようで。
「──万死に値する!」
朱掌の騎士は激昂して、いまだあえいでいる絶影に襲いかかる。
朱掌の騎士は、憤怒の形相で、絶影に致命の一撃を放とうとして。
「──な」
と、驚愕の声をあげる。
それもそのはず──朱掌の騎士は、足を踏み出そうとした体勢のまま、何かに押しとどめられるかのように、その場に静止しているのである。
私は絵画越しに、その何かを見きわめん、と目を凝らす。
「あれは──」
何かが朱掌の騎士を縛っている。その何かは、よりあわされて、次第に太くなり、やがて縄のごとくなって奴を締めあげて──私はようやくその正体に気づく。
「ロレッタの──糸!?」
そう──それは、この場にいるはずのない、ロレッタの紡ぎ出した魔法の糸である。
ロレッタ──絶影のことを憎からず思っているのであろうとは、何となく気づいていたものの、まさか別れに際して絶影に自身の糸を結んでいようとは──彼女としては、その糸を頼りに偶然の再会でも演出しようと思っていたのやもしれぬが、まさかそんな酔狂がこんな形で役立とうとは、げにおそろしきは乙女の情念である。
ロレッタの縄は、思い人を傷つけるものを許さぬという乙女心からか、いつぞや赤竜を捕縛した折のごとく、太く、そして硬く──朱掌の騎士を捕らえて離さない。
「──ありがてえ!」
絶影にも、その縄の主がわかったのであろう、感謝を告げて──丹田に力を練り始める。それは、先の私の試行の比ではない。絶影は、おそらくその全霊を丹田に練りあげているのであろう、凝縮された力はすでにまばゆいほどに光り輝いている。
一方で、朱掌の騎士もさるもの、裂帛の気合いとともに、その筋肉は信じられぬほどに隆起して──ロレッタの縄を引きちぎらんともがき始める。赤竜をも捕らえた縄も、術者と遠く離れては、さすがに強度に限界があるようで──ついには奴の剛力に負けて、引きちぎられて霧散する。
「──遅い」
しかし──絶影は、すでに足で床に透しを放っており──疾風のごとく駆けて、朱掌の騎士の懐に潜り込む。
「ぬうん!」
朱掌の騎士は、懐に潜り込んだ絶影めがけて、致命の拳を振りおろす。
朱掌の騎士の拳が絶影に届く──その刹那に、絶影の光り輝く両手が、奴の心臓を前後から挟み込んでいる。
「絶技──『降魔』」
絶影の、練りに練りあげた命の力が、その両手からそれぞれ放たれて──朱掌の騎士の胸のうちで衝突して、その心臓とともに爆ぜる。
「──!」
朱掌の騎士は声にならない叫びをあげる。心臓とともに、その近くの内臓も爆ぜたのであろう、奴は血を吐きながら倒れる──と同時に、最後の力を振りしぼるように、絶影に力なき拳を振るう。その拳は、わずかに絶影の身をかすめて──たったそれだけで、絶影は廊下の端まで吹き飛んで、壁に叩きつけられて、したたかに身を打ちつける。
「ざまあ──ねえぜ」
言いながら、絶影は懐から薬瓶を取り出す。それは先に、念のため、と渡しておいたフィーリの傷薬である。絶影はそれを口に含んで──そのまま床に崩れ落ちる。
「絶影!」
私は思わず叫ぶのであるが──絵画の中で、絶影の胸がわずかに上下するのを認めて、どうやら息はあるようである、と安堵の胸をなでおろす。
朱掌の騎士は、怨嗟の声をあげながら、やがて灰となって消える。絶影の勝利──と言いたいところではあるが、あれほどまでに満身創痍では、次なる戦いに臨むことなどできまい。
『痛み分け──というところかな』
高祖がつまらなさそうに決着を告げる。




