9
私は──気づけば、聖域にいる。
次元回廊に呑み込まれて、死の都まで撤退して、総力戦を強いられていたはずであるというのに──まるで、次元回廊の発現の前に戻ったかのように、私は聖域でイオスティと対峙している。
イオスティは、何が起こったのか理解できていないようで、呆けた顔で立ち尽くしている。その隣には、祭壇に突っ伏すように倒れているルジェンの姿があり──私は慌てて駆け寄る。
「ルジェン! ルジェン!」
呼びかけながら操具を外して、聖域の隅に放り投げる。そして、彼女を抱き起こして、何度もその名を呼ぶ──と、やがて、うっすらと目を開く。
「──マリ、オン?」
ルジェンは私の顔を認めて、途切れながらも名を呼ぶ。いまだ朦朧としているようではあるが、意識はあるし、おそらく操られてもいない。
「──よかったあ」
私は大きな息をついて、そのままルジェンを抱きしめる。
「おい、マリオン──こっちの心配も頼む」
と、呼びかけるのは、失った腕のつけ根を押さえて、蒼白でうめいている黒鉄である。
「わあ! ごめん!」
叫んで、私はルジェンをエリスに任せて、慌てて黒鉄に駆け寄る──いや、駆け寄ろうとした──そのときである。
祭壇の奥──冥府に通ずる門が、音を立てて開く。巨大な扉である。あれが開くからには、冥府から巨人でもよみがえったのであろうか、と扉の隙間を見あげるのであるが──そこには誰もいない。
『おい──妾の世界を壊したのは誰だ?』
それは──神代の言葉である。
声の出どころに目線を下げる──と、扉の隙間から、ひょっこりと顔を出しているのは、鹿のごとき角の生えた童女である。しかし──それは単なる童女ではありえない。童女の現れた瞬間から、海神を目の当たりにしたときと同じ類の神気が、洞にあふれているのである。
間違いない──この童女こそが冥神である、と確信する。
冥神の顕現を前に、かろうじて動けるのは、私と絶影、あとはグンダバルドくらいであろうか。黒鉄も、神気自体には屈していないものの、さすがに傷が深すぎる。
冥神は、死者をなぐさめるために現世に残ったという。ゆえに、いつか死す定めの私たちを害することはないと思いたいのであるが──今すぐに死ね、と神勅を下される可能性もなきにしもあらず、私は弓を握る手に力を込める。
神をもおそれぬ私の不遜に。
「ここは私にお任せを」
たしなめるよう声をあげたのは──胸もとのフィーリである。
『──』
フィーリが、何やら聞き取れぬ発音で声をかけると、冥神は驚きの顔をみせる。
「お久しぶりです」
『なんじゃ──おぬし、フィーリか!』
冥神は、今度は驚きの声をあげながら、私に近づいて──胸もとに、ずいと顔を寄せる。冥神の顔とともに、その鹿角も近づくものだから、私は思わずのけぞって──のけぞりながらも、神でも驚くことがあるのだなあ、とのんきなことを考える。
『まだ、こんなところを旅しておったのか!』
言って、冥神は、私がいつもそうするように、フィーリを指で弾く。
「お恥ずかしいかぎりです」
冥神の責めるような口調に、フィーリは殊勝に返す。
『もしかして、そこな銀髪の乙女は、フィーリの主なのか?』
冥神は、祭壇に横たわるルジェンを──神気にあてられて気を失ったのであろう──ちらと見やって、フィーリに尋ねる。
「いいえ、私の主はこちら──」
フィーリの言に、冥神は私に向き直る。その目──それは、すべてを見透かすような、黒く澄んだ瞳で──私は直視することができず、気づけば目をそらしている。
『ふうん──じゃあ、その銀髪の乙女は妾の好きにしても──』
「──そちらの銀髪の乙女は、我が主の友でございます」
冥神の不穏な言葉を途中で遮って、フィーリが続ける。世界広しといえども、神の言葉を遮る旅具など、フィーリしかおるまい、と思う。
フィーリの言は、どうやら思いのほか効果があったようで──冥神は眉根を寄せる。
『フィーリの主の友かあ──』
冥神はうなるように言って──ああでもない、こうでもない、とつぶやきながら、思案するように、その場をぐるぐるとまわり始める。その様は、見た目のとおり童女の振るまいであり、とても神とは──しかも、旧神の一柱であるとは思えない。
『よい──』
やがて──考えがまとまったようで、おもむろに冥神は足を止めて。
『フィーリの主の機嫌は損ねとうない!』
と、結論を述べる。
フィーリの主の機嫌を損ねたくないとは──つまり、私の機嫌を損ねたくないということであろうか。神が、私の機嫌をうかがう、ということであろうか。冥神の発言の意図がわからず──私は呆けたように口を開ける。
『銀髪の乙女との契約は破棄する──ものども、ゆるりと死ねい』
冥神は、そう言い残して──現世に興味を失ったようで、扉の奥に戻る。ゆるりと死ね、とは──つまるところ、死者の軍勢による鏖殺ではなく、寿命で死ねということであろう、と理解して──その言い様が面白くて、先の疑問もどこかに飛んでしまって、私は思わず、くすり、と笑う。
冥神が去り、その神気も失せたからであろう、イオスティは我に返ったようで、大きく息を吐いて、その場にへたり込む。
わかる──初めて神を目の当たりにすると、どれほどの達人であっても、そうなるものであるよなあ、と自身の経験を思い起こす。
ともあれ、私はまず黒鉄に駆け寄り──フィーリから取り出した命の水を、いつもよりも多めに飲ませる。
「うわ──」
瞬く間に再生する腕は、正直なところ気持ちがわるく、思わず声が出てしまう。
「気持ちわるそうな顔をするでない」
黒鉄は不満そうにぼやく。
「儂のせいで、だいぶん命の水が減ってしまったのう」
「何言ってんの──こんなときのための命の水でしょ」
申し訳なさそうな黒鉄の顔に、私は笑顔で返して。
「──ほら」
と、右手を掲げて──応えるように、黒鉄は今まさに生えた左手を打ちあわせる。
「それにしても──」
と、黒鉄がつぶやく。
「冥神の彫像──あれは詐欺であろう」
その言葉に、私は思わず吹き出してしまう。
確かに──各地で目にした冥神の彫像は、見目麗しき乙女であった。真実の冥神が童女のごとき姿であったことを思うと、詐欺というのもあながち冒涜とも言えまい。もしかしたら、旧神の中でも幼い神なのやもしれぬな、と思う。
「おっ──と」
私はイオスティの存在を思い出して、今度はそちらに駆け寄る。
「──冥神との契約は破棄された」
私は放心するようにへたり込むイオスティに語りかける。
「レクサールも解放された。もう──争いは不要でしょ?」
そう問いかける私の顔を、イオスティは畏怖とともに見あげる。
「おぬしら──本当に、いったい何ものなのだ?」




