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階段をのぼり詰める──と、そこには大きな扉がある。その豪奢なつくりからするに、貴人の部屋であることに間違いはないのであるが──エンリには、そのようなことは問題にならない。
「ティエル!」
呼びながら、エンリは扉を蹴破って、部屋の中に踏み入る。
部屋の中央には、木桶がある。そこに浸かるのは──痩せ細った少女である。少女に意識はないようで、力なく木桶にもたれている。まさか血を抜かれているのでは、と私は慌てるのであるが──そうではなく、侍女の手によって、身を清められているのであると見て取って、安堵の胸をなでおろす。
「王妃の寝所に押し入るとは無礼な。何ものです」
言って、侍女は少女を木桶に横たえて、おもむろに立ちあがる。
見れば、部屋には二人の侍女がおり、私たちをにらみつけるのはそのうちの一人──見覚えのある黒髪の侍女である。
「てめえらこそ、ティエルに何してやがる!」
エンリは、何はばかることなく、怒声をあげる。その声に、木桶に横たわる少女こそ、件のティエルなのであろう、と悟って──私は彼女の無事に安堵する。
「下がりなさい、下郎」
黒髪の侍女は、私たちの前に立ちふさがり、尊大に告げるのであるが──相手が悪いと言わざるをえない。
「どきやがれ!」
エンリは、ためらうことなく拳を振るう。拳の甲で打たれた侍女は吹き飛んで、壁にしたたかに頭を打ちつけて、そのまま崩れ落ちる──とはいえ、エンリもさすがに加減はしたのであろう、侍女に息はあるようで、うめき声をあげている。
「ティエル!」
呼んで、エンリは木桶に向き直るのであるが──そこにティエルの姿はない。
見れば、もう一人の侍女──頭巾を目深にかぶった侍女が、いつのまにやらティエルを抱きあげており、頭巾からのぞくその淫靡な目で、私たちをねめつけている。
その目を見紛うことなどない。ティエルの裸身を抱いて、その乳房に艶めかしく手を這わせているのは、侍女であろうはずがない。
「──イヴァ妃!?」
驚愕に目を見開く私に、侍女──いやさイヴァ妃は、嘲るような笑みを見せる。
「そこな娘──昨晩の鼠であろ」
イヴァ妃のその言葉で──私はすべてを悟る。
私の侵入により、王妃は自らが探られていることに感づいたのである。そして、次は離宮が狙われるに違いないと踏んで──こうして侍女になりすまして、待ち構えていたというわけであろう。まんまと騙されていたことに気づいて、私は歯噛みする。
「てめえ、ティエルを放しやがれ!」
吠えて、エンリは今にも飛びかからんとするのであるが。
「おっ──と」
イヴァ妃の異様に長い爪が、ティエルの白い肌を刺して、鮮血が滴る。
「近寄らば、娘は傷物になろうぞ」
言って、王妃は見せつけるように、爪の先をゆっくりと動かして──ティエルの乳房には一条の傷が刻まれて、滴る血が肌を赤く染める。
私たちはイヴァ妃とにらみあったまま、動くことができないでいる。王妃の意識が一瞬でもそれたならば、疾風のごとく駆けて、ティエルを奪い取ってみせるというのに──そのきっかけがないのである。
「近寄らぬのか?」
問いながら、イヴァ妃は嗜虐的に笑う。
「生娘を傷物にするのも──妾は好いておる」
イヴァ妃はティエルの頬を舐めながら、その乳房をなでまわしていた右手を下に──彼女の下腹部に向けて這わせる。
そのときであった。
開け放たれた窓から、何かが部屋に飛び込んでくる。そのあまりの速さに、鳥が誤って飛び込んできたのであろうかと思ったのであるが──転がるようにイヴァ妃に迫るそれは、鳥ではなかった。その影は、まるで踊るように銀光をきらめかせて──次の瞬間、ごろりと床に転がったのは、イヴァ妃の右手である。
「お妃様、おいたがすぎますよう」
「──貴様!」
たった今、目にも留まらぬ早業で、イヴァ妃の手首を斬り落としてみせたのは誰あろう──。
「グリンデル!?」
そう、小人の踊り子──グリンデルである。
グリンデルは、イヴァ妃の手を離れて崩れ落ちるティエルを、その小さな体躯で難なく受け止めて──慌てて駆け寄ったエンリに渡す。
「いったいどうして──?」
私は、あまりにも意外な闖入者に、驚きの声をあげる。
「ちょっと口止め料をもらいすぎたかなって思ってさあ」
グリンデルはのんきに笑いながら、金貨を高く放って。
「もらいすぎた分だけ──ちょっとだけ手伝ってあげたんだよ」
落ちてきた金貨をつかみとり、短剣を腰に戻すのであるが──ちょっとどころではない。値千金の働きである。
「ティエル!」
エンリがティエルを抱き寄せて、その耳もとに呼びかける──と、彼女はゆっくりとその盲いた瞳を開いて、くんくん、と鼻を鳴らす。
「──お父、さん?」
「だから、お父さんじゃねえって言ってんだろ」
ティエルの第一声に、エンリは悪態で返す。しかし、その声は獣人のものとは思えぬほどにやわらかく──その瞳が涙で潤んでいるように見えるのも、気のせいではないのであろう、と思う。
ティエルは曖昧であろう意識の中で、エンリの存在を確かめるように、その毛並みにそっと触れて。
「──お父さん!」
自らを抱くのが本当にエンリであると確信したのであろう、彼女は、お父さん、と繰り返しながら、黒狼の首もとに抱きついて、その毛皮に顔を埋めて泣きじゃくる。
エンリはティエルの髪を愛おしそうになでて──次の瞬間、獰猛な獣のごとくイヴァ妃をにらみつけて、大剣を構える。
「てめえ──よくも娘を泣かせやがったな」
エンリは、全身の毛を逆立てながら、吐き捨てる。その怒気たるや、常人であればそれだけで腰を抜かすほどのものであろうと思うのであるが。
「この──痴れものどもが」
手首の傷を押さえるイヴァ妃は、エンリのそれを上まわる怒気を放って──爛々と輝く双眸で、私たちを見すえる。
「妾の──目を見よ」




