1
冥府の猟犬は、あれ以来、姿を現してはいない。さしもの猟犬も、異界の短剣で刺されては、ひとたまりもなく、死んでしまったのやもしれぬが──そもそも、冥神の使いが死ぬのであろうか、という疑問も残る。結局のところ、私たちは再びの猟犬の襲撃を警戒して、田舎道を外れて、道なき平原を行く。
「もうそろそろちゃんとした道に戻ろうよう」
「もう少し様子を見てからね」
不平をもらすロレッタに、私はなだめるように返す。
いくら平原とはいっても、完全に平坦なわけではない。緩やかな起伏があり、先までの田舎道にくらべるといささか歩きづらく、ゆえに疲れるというのも理解できなくはないのであるが──猟犬の脅威を思うと、往来のある道では周囲に被害が出かねないというのも事実であるから、しばらくはこのまま平原を行かざるをえまい。ロレッタもそれを理解しているからであろう、渋々といった様子で、はあい、と気のない返事をする。
そうして、私たちはひたすらに平原を行き──かれこれ数日、猟犬の襲撃はない。さすがにもう襲撃はなかろう、と判断して、ようやく肩の力を抜くのであるが──そうなると、再びロレッタの不満も募るというもの。
なだらかな丘陵をのぼり詰めると、ずいぶんと間近になった火吹山の威容と──川向こうに小さな村が見える。私たちの進路からは、やや外れているのであるが──それでも、疲れはてたロレッタにとっては、ようやく訪れた好機に思えたようで。
「ちょっと休ませてもらおうよう」
彼女は私の外套をつまみながら、ねだるように言う。
確かに──ロレッタの疲弊の具合を考えると、そろそろ休憩をとる必要があるのも事実。
「ちょっとだけだからね」
「やったあ!」
私の返事に、ロレッタは小躍りをして喜んで──まだまだ元気であるなあ、と苦笑する。
「──妙じゃのう」
黒鉄のつぶやきに、私は小さく頷く。
たどりついた村には、人の気配がない。小さな村ではあるが、誰もいないというのは、いくらなんでも不自然にすぎる。
「──あっちに誰かいるみたい」
異変に気づいて、すぐに村中に魔法の糸を張りめぐらせたロレッタが、何かを感知したようで──私たちは、彼女の指す、村の広場に向かう。
村の広場──冥神の教会の前では、一人の男と、多勢の騎士とがにらみあっている。男は頭巾を目深にかぶり、こちらからはその顔は見えぬのであるが、男のそばに騎士の死体が転がっているところからするに、その腕前はかなりのものであろう、と思う。
私たちの見守る中──数人の騎士が馬を走らせて、馬上から男に斬りかかる。男は、先駆けの騎士の振りおろした剣を大剣でいなして──そのまま振り抜いて、騎士の胴を両断する。
何たる膂力──隣のドワーフを見慣れているからこそ、まあそんなこともあるか、と思えてしまうのであるが──そうでなければ、にわかには信じられぬほどの、尋常ならざる剛力である。
男はその勢いのまま踏み込み、暴風のごとく大剣を振るい、二人目の騎士をも両断する。しかし、騎士もさるもの──三人目は巧みに馬を操り、男の死角より剣を振るい、その頭部に斬りつける。男は、すんでのところでそれをかわして──斬られた頭巾のみが、はらりと舞い落ちる。
「──獣人?」
ロレッタが、あらわになった男の顔を認めて、驚きの声をあげる。そう──彼女の言うとおり、頭巾より現れ出でたのは、黒い狼の頭である。
「あれは──南方の獣人じゃろうのう」
黒鉄は、髭をもてあそびながら、そうつぶやく。
黒鉄の語るところによると、南方に住まう獣人──彼らは、中原の沿岸部では、奴隷として扱われているのだという。特に雄の獣人は、その類稀なる膂力による戦働きを期待されて、戦奴として商われることも少なくないらしく、目の前の黒狼もその類なのやもしれぬ、と黒鉄は結ぶ。
「東方北部では戦が絶えぬというし、あやつが戦奴とすれば──もしかすると逃亡奴隷なのやもしれぬのう」
黒鉄の想像に、確かに、と頷く。
逃亡奴隷と、それを追う騎士──そう考えれば、目の前の構図にも、納得はできる──納得はできるのであるが、村の異様な状況からすると、おそらくそれだけではないのであろう、とも思う。
「どっちにつく?」
黒鉄が、何とも楽しそうに私に問いかけて。
「多勢に無勢っていうのは、あんまり好きじゃないんだよね」
「──で、あろうの」
私のその返答に、さらに楽しそうに返す。
黒鉄はおもむろに歩き出して──互いににらみあう黒狼と騎士に、自身の存在を気づかせん、と斧の石突で大地を叩く。その地を震わすがごとき一突きに、黒狼と騎士はともに新手が現れたとでも思ったものか、慌てて黒鉄に向き直る。
「双方、剣を引けい!」
皆の視線を集めたところで、黒鉄は巨人の斧をかついで、大音声で告げる。私たちは黒鉄の後方に控えているからよいようなものの、今の大声を真正面からまともに浴びては、たまったものではあるまい。現に、黒狼は耳をふさいで、黒鉄をにらみつけて──結果、大剣を取り落としている。
その一方で──騎士は平然としている。黒鉄の大声に動じることもなく、馬の歩みを進めて、私たちを間合いにとらえる。
「おぬしら、何故、剣を交えておる」
黒鉄の問いに、しかし騎士は答えることなく──そのまま馬を駆り、間近の絶影に剣を振るう。
「──問答無用かよ」
つぶやいて、絶影はその剣をかわしたかと思うと、そのままあぶみを取って、ひらりと馬上に身を移し、騎士を背中から蹴り落とす。主を失った馬は、当然暴れ出すのであるが──絶影は、まるで曲芸のように馬上に立ったまま、手綱をつかんで、いきりたつ馬を静める。
「剣で応えるというのならば、こちらも斧で応えることになろうぞ」
黒鉄は巨人の斧をゆるりとまわしながら告げる。それは緩やか旋回なのであるが──残りの騎士が馬を駆り、いっせいに黒鉄に突撃するに至り──瞬時に暴風と化す。
「──恩に着る」
黒狼は、広場に散らばる騎士であったものをまたいで黒鉄に歩み寄り、礼を述べる。騎士の死体は、絶影の透しで倒れたもの以外は、もはや原形をとどめていないのであるが、その惨状を目の当たりにして、なお平然としている黒狼を見るに、戦場には慣れているのであろう、と思う。
「何を殊勝なことを──おぬしであれば、助けなどなくとも、全員斬り伏せておったじゃろうに」
黒鉄は、返り血をぬぐいながら、そう返す。
確かに、先の戦いを見るかぎり、黒鉄の言は正しい。目の前の黒狼の業前であれば、あのまま多勢の騎士を相手にしたとしても、不覚をとることなどなかったであろう、と思う。
「たとえそうであっても、助けてもらったことに変わりはねえ。恩義には報いるってのが、一族の唯一の習わしなんでな」
だから恩に着る、と黒狼は繰り返す。
「俺は黒狼族のエンリ・ルヴ──」
と、黒狼は途中まで言いかけて。
「いや──本当はもうちっと長い名なんだが、あんたらには難しい発音だろうからな。エンリとでも呼んでくれい」
そう続けて、黒狼──エンリは豪放に笑って、私たちもそれぞれに名乗りを返す。
「おぬし、何故、騎士に襲われておった?」
互いに名乗りを終えたところで、黒鉄が尋ねる。
私はその問いに、逃亡奴隷ゆえ、という答えを想像していたのであるが──エンリの口から語られたのは、意外な答えであった。
「ちと──娘をさらわれちまってなあ」




