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私たちは宿に泊まるのをあきらめて──また、あの黒い影に襲われでもしたら、宿の方がたまらぬであろうから──カイニスの街のそばの森で野営をする。黒い影には気配がない──であれば、わずかなりとも音の立ちやすい場所の方がよかろう、と森を選んだというわけである。
焚火を囲んで、あたたかい茶を口にして、ようやく人心地がついたようで──ロレッタは、ほう、と息をつく。
「まったく、あの犬、いったい何なのさ」
酒場の騒動で茹で団子を食べ損ねたロレッタは──人心地がついたら、思い出して腹が立ってきたのであろう──唇を尖らせる。
「そういえば、酒場の客が、魔犬だの猟犬だの言っておったが──」
そうつぶやいた黒鉄に、私の胸もとでフィーリが答える。
「──東方に伝わる伝説です」
フィーリの語るところによると、東方は冥府につながるという土地柄か、冥神由来の伝説が多く残っており、魔犬伝説もその一つであるという。
ある国の王が、干ばつによる飢饉を憂いて、冥神に豊穣を願い、その代償として王女たる娘を捧げることを約した。冥神はその願いを聞き入れた。農作物は豊かに実り、民は飢えをまぬがれた。しかし──王は約束を果たさなかったのである。
王は、愛娘を冥神に奪われてなるものか、と国中から百の勇者を呼び寄せて、王女を守らせた。冥神は、約束を違えた王に激怒して──そして、冥神の使いたる猟犬が放たれた。猟犬は、百の勇者の守りをものともせず、王女の寝所に潜り込み、ついには彼女を噛み殺したという。
「──冥府の猟犬」
つぶやいて、私は喉を、ごくり、と鳴らす。フィーリの語る、百の勇者の守りをものともせず、というくだりは、まさしく先の黒い影──いや、猟犬の襲撃を想起させる。
「もしも、あの黒い影が冥府の猟犬だとすると、幽世の存在ということになりますから、現世の武器で傷つかないのも道理ではあります」
そう言葉を重ねるフィーリに、私は先の酒場での騒動を思い起こす。
確かに──あのとき酔客の振るった剣は、猟犬には当たらず、酒場の床に突き刺さったのである。となると、最初に小麦畑で猟犬に遭遇した折も、やはり黒鉄の斧は奴をとらえていたのであろう──とらえていながらも、斧は幽世の存在たる奴の身体をすり抜けたということになる。
「もしも本当にそうだとすると──」
つぶやきながら、私は皆の顔を見まわす。
「──そんなもの、いったいどうやって退治すればいいの?」
私の切実な問いに──しかし答えるものはない。
皆のその沈黙が、夜の森の静けさに浸透する。その静寂は、いつ襲いくるともしれぬ猟犬の不気味さを思わせて──ロレッタは不安げに周囲を見まわして、薪の爆ぜる音に、びくり、と身を震わせる。
「いや──そもそも、何でその猟犬って奴が俺たちを狙うんだ?」
焚火に薪をくべながら、絶影が疑問の声をあげる。
「伝説では、冥神との約束を違えたものを襲うんだろ? お前ら、そんなことしたのか?」
絶影のくべた薪が、ぱちり、と爆ぜる。
「冥神との契約を破棄するための旅ではあるけど──まだ、何もしてない、よね?」
言って、黒鉄とロレッタの顔を見やる──と、二人は神妙な顔で頷く。
「しかし──何もしてはおらんが、何かする気ではおるからのう。神ともなれば、まだ何もなさぬうちから、不心得を見抜くこともできるのではないかのう」
「いいえ──」
と、黒鉄の想像を否定したのは、私の胸もとのフィーリである。
「──神は信仰によって人の心を知るのです。私たちは、冥神との契約の破棄を、冥神自身に祈願したりはしていないはずですから、猟犬による襲撃は彼女の意志によるものとは思えません」
となると──可能性は一つしか残っていない。
「あたしたちの旅の目的を知るものが、冥神にご注進したってこと?」
私と同じ結論を、ロレッタが口にする。
「カルトゥルスの人たちがそんなことをするはずはないとして──」
私は、私たちの旅の目的を知るものを、指折り数えながら続ける。
「そうなると、イオスティか、あのとき酒場にいた客か──あ、あと絶影もか」
「おいおい、俺は仲間だろう」
私は正直に三本目の指を折り、絶影はそれに抗議の声をあげる。
「でも、イオスティがそんなことするかな?」
絶影の抗議を無視しながら、ロレッタが疑問の声をあげる。
そう──イオスティは、私たちの旅に期待すると言っていたのである。私たちが冥神を説得することができたならば、レクサールを解放するという彼の目的もまた同時に果たされるわけであるからして、旅の妨害をする道理はない。
「残るは、酒場の客か──絶影か」
「おいおい! しつこいぞ! 俺は仲間! 仲間だって!」
私が絶影を候補に残すと、彼は情に訴えるように、仲間という語を繰り返す。何ともからかい甲斐のあるやつである。
「旦那と姐さんも言ってやってくれよ!」
絶影は、黒鉄とロレッタに助けを求めるのであるが──それは見込み違いというもの。
「昔は敵であったしのう」
「意外と好色なのがねえ」
二人は口々に絶影の欠点をあげつらう。そう──そやつらは、仲間をからかうことを、こよなく好むやつらであるぞ。
「好色は関係ねえだろうが、好色は!」
どうやら、以前に娼館通いを暴露されたことを気にしているらしく、絶影は二人に食ってかかるのであるが──当の本人たちはどこ吹く風。
そんなくだらないやりとりで、夜は次第に更けていく。




