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王都イオステラを出立して、街道を外れて、田舎道を北に行くと──やがて、東方における最北の国オレントスとの国境に差しかかる。
先の密書騒動により、イオスティとシンケルスの同盟がなったとすると、オレントスは落ち目の国ということになるのであろうが──眼前に広がる肥沃な大地はどうであろう。実りを告げる麦の穂は重そうに頭を垂れており、その黄金色の絨毯は見渡すかぎりに広がっているのであるからして、とても戦火にさらされているようには思えない。
「この小麦をこそ奪おうとは思わんのかのう」
背の高い小麦の間の農道に埋もれながら、黒鉄が首を傾げる。
「イオステラの酒場で隣の客から聞いたんだけど、戦をしてるって言っても、あくまでも覇王の後継者争いってことだから、民を飢えさせるようなことまでは望んでないみたいだよ」
そう返すロレッタに、黒鉄はさらに首を傾げる。
「そうは言っても、おぬしは難民としてリムステッラに流れてきたのであろうに」
確かに──黒鉄の言うとおりである。民の暮らしが本当に守られているというのであれば、難民など存在しようはずもない。
「それが、オレントスだけは──ちょっと特殊なんだよね」
言って、ロレッタは溜息をつく。
ロレッタの語るところによると、北国オレントスは、武王と呼ばれる武人の治める国で、よくもわるくも質実剛健な国であるという──いや、そうであったのだという、以前は。
「ところが、王様が変な女に引っかかっちゃってさあ」
武王は、愛する妃を病で亡くし、悲嘆に暮れたという。それを慰め、支えたのが、寵姫のうちの一人──イヴァであった。王はイヴァのその献身に報いるべく、彼女を新たな妃として迎え入れたのであるが──それこそがこの戦乱の契機となったという声さえあるという。
イヴァが妃となって以来、王は人が変わったように、華美を好むようになった。オレントスからは質実さが失われ、他国より奪うことを是とし──そして、民をないがしろにするような非道がまかりとおるようになってしまったのだという。
「そんなわけで──その当時、オレントスに滞在していた旅人は、ひどい目にあってさ。命からがら、リムステッラに逃げ出したってわけ」
ロレッタはそう結んで、思い出したくもないというように首を振る。
「ロレッタの姐さんも苦労してんだなあ」
苦労してなさそうな顔してんのに、と余計なことを加えながら、絶影が言って。
「あたしだって苦労してるんだよう」
酒場で何度尻をなでられたことか、とロレッタは憤慨しながら返すのであるが──それについては、まず柄の悪い酒場に行くのを控えた方がよいのではなかろうか、と思わないでもない。
「ということは──イオスティとシンケルスは略奪を目的とせぬがゆえに、オレントスの小麦は豊かに実っておるということか」
黒鉄は、皮肉なものよのう、と続ける。
なるほど──そのような事情にもかかわらず、オレントス自身は略奪を是としているわけであるからして、残る二国間で同盟がなるわけである。同情の余地もない。
「そう──そのおかげで、あたしたちはこの見事な小麦畑を堪能できるってわけ!」
言って、ロレッタは両手を広げる──と、風が私たちの間を吹き抜けて、小麦畑をも揺らす。風に揺れる小麦畑は、まるで黄金色の海のようで──以前よりも近づいた火吹山の威容ともあいまって、私は感嘆の声をあげる。
「旦那、持ちあげてやろうか?」
「余計なお世話じゃ」
小麦よりも背丈の低い黒鉄には、その見事な黄金色の海が見えぬからであろう、絶影がいくらかあわれむように口にして、黒鉄に叱られる。
絶影に抱えられる黒鉄を想像して、私は思わず吹き出して──。
「──待って」
と、声をあげて、皆の足を止める。
嫌な予感がする。
何がどうと理由を述べることはできないのであるが、私の狩人としての勘が、足を止めろと言っている。
どこにもあやしい気配はない。しかし──待つうちに、小麦をかきわける音が迫る。何ものぞ、と警戒する私に、小麦畑から飛び出した黒い影が迫り──私はそれをかろうじてかわす。
「ぬうん!」
と、私の隣を歩いていた黒鉄も異変に気づいたようで、肩にかついでいた巨人の斧を振るう。私の目には、黒鉄の斧が黒い影をとらえたように見えたのであるが、奴はするりと身をかわして、再び小麦畑に飛び込む。
「絶影!」
呼んで、私と絶影で前に出て、黒い影の飛び込んだ小麦畑に向き直り、次なる襲撃に備える。速い相手をとらえるのならば、私と絶影に分があろう。
気配はない──しかし、先と同じく、小麦をかきわける音が迫る。再び、黒い影が小麦畑から飛び出して──私は今度こそ、その姿を見る。
それは、黒い獣である。
速すぎて、その姿形のすべてを見きわめることはできなかったのであるが、少なくとも四足獣であること──そして、その目が赤く、爛々と輝いていることだけは見て取れる。
私の首を噛みちぎらん、と顎を開く黒い影を、寸前のところでかわして──後ろに控えていた絶影が、狙いすましたような透しを放つ。黒い影は、うめき声もあげずに吹き飛び、小麦畑に落ちる。
再び襲いくるやもしれぬ、と警戒を解かず、影の落ちたあたりを見すえるのであるが、やはり気配はなく──そして、今度は小麦をかきわける音もない。
「──待ってて」
言って、私は影が落ちたと思しきあたりに踏み入るのであるが、そこには何も──先の黒い影の痕跡すらない。
「何だ──今のは?」
私の後ろからのぞき込んで、そこに何の痕跡もないことを確認した絶影が、いぶかしげにつぶやく。
「犬──かのう」
黒鉄の言葉に、私はかぶりを振る。
「絶影の透しをくらって、それでも死なない犬なんて──存在すると思う?」




