6
私たちは魚人から逃れて──別の出口を探して、最大限に警戒しながら洞窟を進む。洞窟は光苔に照らされて明るく、足場も平坦に続いており、ひとまずの道行に不安はない。
「うえ、何だこりゃあ」
洞窟の壁に手をついた絶影が、気色わるそうに声をあげる。見れば、壁には粘液のようなものが付着しており、絶影の手に触れたそれは、ぬらぬらと妖しく光りながら、糸を引いている。
「マリオン、足もとにお気をつけください」
絶影に気を取られていた私に、フィーリの声が飛ぶ。慌てて足を止めると、はたして旅具の指摘のとおり、半歩先の地面にも粘液が付着しており、危ないところであった、と安堵する。あんな気色のわるいもの、踏まずに済むのならば、それに越したことはない。
「毒ではなさそうですが、自然のものとも思えませんね」
フィーリはそう告げて──私は屈み込んで、粘液をつぶさに観察する。粘液は、凝視しなければわからぬほどに、ほんのわずかに蠢いている。その様は、まるで生きているようにも思えて、私は吐き気を催す。
「警戒を怠るなよ」
粘液に気づかず壁に手をついた癖に、絶影が偉そうに言って。
「絶影こそね」
私は苦笑しながら返す。
私たちは、粘液を避けながら、洞窟の奥に進む。洞窟は次第に大きく、広くなり──それにつれて、洞窟内に付着する粘液の量も増えていく。しまいには、洞窟のほとんどが粘液に覆われてしまうほどで──ぬらぬらと光る粘液に囲まれると、まるで得体の知れない何かの体内にでもいるような気がして、底知れぬ怖気のようなものを感じる。
やがて、洞窟は広大な空間となり──そして、ついに私たちはその粘液の正体を知る。
眼前にそびえる、ぬらぬらとした威容──それは、わずかずつではあるが、確かに這いずっており、おぞましくも生きていることが知れる。それが蠢いた後には、どろりとした粘液が付着しており──粘液は、それの一部だったのであると気づいて、私はこらえきれずに嘔吐する。
それは、私たちを認めて、奇声を発する。
『──!』
それの声を聞いて、私は戦慄する。それは神代の言葉であった。聞くものが誰であっても、その意味するところを理解できるという神々の言語──その誰にでも理解できるはずの言語を用いて、それは誰にも理解できないであろう「何か」を叫んでいるのである。そんなもの──海神と同じではないか!
目の前の化物が、海神に等しい存在であると悟って、私は震える手でフィーリを叩く──と、旅具は魔法を唱えて、私たちの身体を薄く光る膜が覆って、それとともに肌に感じる怖気が減じる。私は奮起して、そのおぞましい化物を見あげる。
それは、信じられないほどに巨大な──蛞蝓であった。
その顔と思しき部分から伸びる触手の先には三つの目があり、確かな意思をもって、私たちを睥睨している。さらには、奴の背から伸びる触手までもが、私たちを狙うようにもぞもぞと蠢いていて──私はフィーリの加護があるにもかかわらず、生理的な嫌悪感から再び吐き気をもよおして──こみあげるものを何とかこらえる。
「あの触手にお気をつけください!」
フィーリは警戒の声をあげる。
「おそらく──あの触手の先端にある棘に刺されると、奴に支配されることになります」
フィーリの言に、先の魚人の姿を思い起こして──もしかすると、あれは蛞蝓に刺された人間のなれの果てなのではないか、と思い至り、自らの想像に怖気を震う。
『──!』
蛞蝓は何やら発して、私たちに襲いかかる──のであるが、蛞蝓なだけあって、動きは鈍重である。
私たちは脱兎のごとく駆け出して、奴の視線から逃れるように、岩陰に身をひそめる。
「マリオン、何か手はあるのか?」
絶影は蛞蝓を警戒しながら、私に問いかける。普通であれば、発狂するなり逃げ出すなりするであろうに、いくらフィーリの加護があるとはいえ、あの海神と等しいほどの存在を前にして、なお戦意を失わぬとは、何たる胆力であろうか。敵にまわすと厄介な男であったが、仲間になるとこれほど頼もしいものもおるまい。
「私の弓なら、奴を一時的に動けなくすることはできると思うけど──」
旅神の弓の一撃は、蛞蝓と等しい存在たる海神をも退けたのである。蛞蝓にも効果があるのは、道理であろう。
「ただ──この洞窟は崩れるだろうから、生き埋めになっちゃうかも」
洞窟が崩れて、そこに湖の水が流れ込むであろうことを思うと、無事に脱出できる可能性の方が少ないように思える。
「じゃあ、マリオンの弓を最後の手段にするとして──俺の方にも考えがある」
言って、絶影はその考えとやらを語り出す。
私と絶影は、岩陰から飛び出して、蛞蝓を迎え撃つ。
「いいか──同時にだぞ」
絶影が確認するように言って、私は頷いて返す。
蛞蝓は、その動き自体は鈍重なのであるが、背から伸びる触手だけは、俊敏に私たちに迫る。その先端の棘に刺されたならば、あのおぞましい蛞蝓に支配されてしまう。それだけは何としても避けたいという思いからであろう、私も絶影も、普段であれば紙一重で見切ることのできる触手を、余裕をもってかわす。
絶影の提案を実行するには、私と絶影とで、蛞蝓を両側から挟み込まなければならない。私たちは触手をかわしながらも、互いに目配せをして、少しずつ位置を変える。蛞蝓には触手をかわしているようにしか見えぬであろうが、私たちは少しずつ、しかし確実に、奴を挟み込まんと動いているのである。
私たちが位置を変えるにつれて、蛞蝓にとっては的が分散することにもなり、触手をかわすのもいくらかたやすくなる。
「今だ!」
絶影の声を合図に、私は疾風のごとく、大地を踏み込む。大地を穿つほどの衝撃を、身体をねじりながら手のひらにまで伝えて、蛞蝓にそっと触れるような掌打を放つ。それと同時に、蛞蝓を挟んだ向かい側で、絶影も透しを放っている──はずである。
私の透しと絶影の透し──相対する衝撃が真っ向からぶつかり、蛞蝓の体内で爆ぜる。
透しによる内部破壊──本来は、相手を両手で挟み込み、関節を用いる透しを両側から放つことで実現する、武侠の奥義であるという。
しかし、蛞蝓はこれほどの巨体である。一人ではその身体を挟み込むことはできず、私と絶影の二人がかりで透しを放ったのであるが──効果は絶大であった。
『──!』
蛞蝓は内側から爆ぜるように粘液を撒き散らし、怨嗟の声をあげる。さしもの神代の化物も、身体の内側から破壊されたことはないようで、未知の痛みにのたうちまわり、そのたびに周囲に粘液が飛び散る。
「うえ」
「おい、退くぞ!」
飛び散った粘液の一部を浴びて顔をしかめる私に、絶影が呼びかけて──気持ちわるがっている場合ではない、と思い直して、駆け出す。私たちは苦悶する蛞蝓の横をすり抜けて、その奥の通路に逃げ込む。




