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私はものすごい勢いで湖に引きずり込まれる。
釣竿を離せばよいのであろうが、この大魚を逃せば、後で絶影に勝ち誇られると思うと、それもためらわれる──となれば、この大物を釣りあげるしかあるまい。
私は胸もとのフィーリを口にくわえて、舌先で突く。フィーリは意図を察して、私の口内に空気を送り込む。呼吸さえできれば、死ぬこともなかろう。
私は釣竿の先を見やる。私を引きずり込まんとする大魚──湖底の暗さゆえ、その姿をはっきりと見ることはできないのであるが、かなりの大物であることに間違いはない。
これほどの大魚ともなると、釣りあげるのは難しいであろう、と思う。そもそも、力で負けて、湖に引きずり込まれているのである。となると、旅神の弓で射貫くか──しかし、水の中では弓を使うこともできぬ。それでは、透しを放つか──しかし、踏み込む足場がなければ透しは放てぬ。それならば──風神の指輪であれば、どうであろう、と思案する。風神の指輪は神具である。力ある言葉さえ唱えることができれば、水の中であろうと風を呼ぶことはできよう。
私はフィーリから送られる空気を大きく吸い込んで──釣竿から片手を放して、身振りとともに唱える。
『風よ!』
呼び出された風刃は、釣竿の先にいるはずの大魚を襲う。手応えあり──しかし、どうやら風刃で釣竿の糸も切れたようで、私は湖底に放り出される。
このまま湖面に戻れば、無事に生還と相なるわけであるが──釣果を持ち帰るまでが釣りであろう。
私は舌先でフィーリを突いて──旅具は心得たもので、湖底を魔法の灯りで照らし出す。灯りによって浮かびあがる水中には、大魚のものであろう血が漂っており、風刃は間違いなく奴に傷を負わせている、と確信する。二、三度、風刃を放てば、止めを刺すこともできよう。
私は血の跡をたどりながら、湖底を泳ぐ。それは、どうやら湖の中心──禁域に向かって続いているようで、私は周囲を警戒しながら、その跡を追う。
不意に、血の跡が揺らいで──私はその揺らぎのもとをめがけて、風刃を放つ。手応えはある──が、こちらに襲いくる大魚に止まる気配はなく、私は慌てて身をかわす。
「──!」
私は驚きのあまり、口内の空気を吐き出す。私の眼前を通り過ぎたのは、想像していたような大魚ではなく──もっとおぞましい何かであった。
あの異形が、湖を住処とする魔物であるならば、水中で戦うのは不利である。かといって、湖面に戻ろうにも、今や深く潜りすぎており、無防備に上昇するとなれば、奴の格好の餌食となるは必至。
「──!」
しまった。思案するうちに、再び異形が襲いくる。避けられぬ、と異形の体当たりを覚悟する──と同時に、誰かが私の手を引く。
「──!」
マリオン、と呼んだのであろうか、私の手を引いたのは──何と絶影である。絶影は、私の手を引きながら、異形に透しを放っており、奴は思わぬ反撃をくらって吹き飛ぶ。
水の中では足を踏み込めぬというのに、いったいどうやって透しを放ったというのであろうか。透しには、まだ私の知らぬ術理があるようで──こんなときであるというのに、私の心は躍る。
絶影は私の手を引きながら、湖底を指す。いつのまにやら、私たちの頭上は数匹の異形に囲まれており、もはや湖面に戻ることもかなわぬ。
私と絶影は、異形から逃れるように湖底に潜り、岩塊にあいた横穴に隠れる。ここに隠れていれば、異形の襲撃からは逃れられようが──しかし、絶影の息がいつまで続くやらわからぬ。いざとなれば、フィーリを交互にくわえて呼吸することになろうが──フィーリは嫌がるであろうな、と思う。
「──」
と、絶影が私の肩を叩いて、横穴の奥を指す。見れば、奥からはフィーリのものではない灯りがもれている。いったい何の光であろうか、と奥に向けて泳ぐと、灯りの揺らめく水面が見える。こんな湖底に空気があろうとは──と、自然のいたずらに驚きながら、水面から顔を出す。
「マリオン、息を止めて」
フィーリの警告に、私は慌てて呼吸を止める。
「──もう大丈夫です。有毒な空気ではないようです」
フィーリの声に安堵して、私は大きく息をする。
そこは洞窟であった。岩肌には発光する苔が生えており、先の灯りはこの苔によるものだったのであろう、と思う。
私と絶影は、あたりを見まわしながら泳ぎ、洞窟の岸にあがる。絶影はそのまま洞窟に転がり、久々の空気を堪能するように、大きく息をする。
「ありがと、助かったよ」
絶影が助けにきてくれなければ、異形の体当たりで痛手を負っていたやもしれぬ。私は素直に感謝する。
「旦那に、助けに潜ってくれって頼まれてよ」
絶影は、照れ隠しのように、黒鉄に頼まれて仕方なく、と返すのであるが──頼まれたからとて、諾々と湖底まで潜るやつもおるまい。もしかすると、存外にいいやつなのやもしれぬ、と私は評価をあらためる。
「しっかし、何だったんだ、ありゃあ?」
絶影の言うあれとは、先の異形のことであろう。しかし、そう問われても、私にも答えようはない。私の身の丈よりも大きな魚体には、確かに人間の手足と思しきものが生えており──そのようなおぞましい生物を、私は見も知らぬからである。
「確信はないのですが──」
と、フィーリが胸もとで声をあげる。
「あれは──海神の眷属のように見えました」
海神──それはいつぞや次元回廊で遭遇した異神の一柱である。フィーリの加護と旅神の弓の力により、何とかその暴威から逃れたのであるが──確かに、先の異形のおぞましさは、海神のそれに通ずるものがあるように思える。
「でも──海神って、海底神殿に封じられているとか何とか、言ってなかったっけ?」
「そのはずなのですが──」
私の疑問に、フィーリが言いよどむ。その様を見るに、本来であれば、海神の眷属がこのようなところにいるはずはないのであろう、と思う。
「何にせよ、あいつらを蹴散らしながら陸まで戻るのは、なかなかに難儀だろうな」
絶影が寝転んだまま言って──確かにそのとおりで、どうしたものかと思案する。
そうして、私は、はたと思いついて──絶影に覆いかぶさり、その身体に触れる。
「おい──何をする?」
絶影の身体をまさぐり、きっとあるはずのものを探す。
「あ、ちょっと待てって──」
絶影が変な声をあげているが、我慢してもらうしかあるまい。私は絶影の身体をまさぐり続けて──あった。ロレッタの糸をみつける。
「ロレッタ、聞こえる?」
絶影が私を助けに潜るとなったとき、ロレッタならば必ず糸を結んだであろうと踏んだのであるが、私の考えは間違っていなかった。
「よかった! 無事だったんだね!」
と、糸からロレッタの声が届いて──つい先ほどまで一緒だったというのに、その声はずいぶんと懐かしく響く。
「あたしたちのところからは姿が見えないんだけど、どこか陸にあがれたの?」
「いや、湖底の洞窟に空気のたまってるところがあって、そこで休んでるの」
ロレッタの問いに、これまでの経緯を語る。
「何にしても、無事でよかった」
ロレッタは安堵の声をもらして──その後ろで、儂にも話させろ、と黒鉄がわめいている。
どうやって陸に戻るのか、問題はいまだ解決していないのであるが──それでも、二人の声を聞くだけで、何とかなりそうな気がしてくるのだから、不思議なものである。
「いや──まだ、無事とはいえないかもしれません」
と、そんな希望に水を差したのは、フィーリであった。旅具はめずらしく深刻な声で続ける。
「ここは、単なる洞窟ではなくて──古に墜ちたとされる星の中かもしれません」




